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チェイリードの娘

 誰にも祝福されない誕生日は二度目だった。
 無駄に広く居心地の悪い館に、今夜も不気味な笛の音が響く。
 まるで削られた岩の隙間を山風が吹き抜けるような、あるいは幽鬼がうめくような音が屋敷中を覆い包んだ。
 故郷にある、近付くことを禁じられた谷。そこを吹き抜ける風音に似ている。
 ソニエはぎゅっと目を閉じて、寝台の布団の中に顔をうずめた。
 恐怖と不安を煽るこの不吉な夜の宴は、年を経るごとに頻繁になってゆく。
「やめて……、もうやめて、頭がおかしくなりそう……!」 
 恐怖の夜は、誰かに助けを求めずにはおられない。誰かに側にいて欲しかった。
 けれどソニエにそのような人間はいない。
 形式的に家族と呼ぶべき人間は存在する。
 しかしその男はこの状況を作り出した張本人なので、論外だった。
 使用人よりも親しみのない家族。婚姻という契約によってのみ繋がった名ばかりの夫は、既に二ヶ月以上屋敷に戻ってはいなかった。
 十八歳の誕生日を、このような場所でこのように孤独に迎えることなど、かつて想像さえしなかっただろう。
 幼い日に描いた十八歳の自分の肖像は、今の姿とはあまりにかけ離れていた。
 全ては、祖母を無くした二年前の秋。
 そこからソニエの運命が大きく軌道を逸れた。



 このアラトリムの街からは遥か北。
 ソユーブという名をもつ辺境の荒野に、ソニエは生まれ育った。
 ソニエ=フラン=チェイリード。
 広大な薬草農園を所有するチェイリード家は、歴史の表舞台には登場しないものの、古代から独自の地位を守ってきた有力な薬師一族である。
 秘薬や毒薬の技術を一手におさめ、かつては王家との関わりも深かったという。
 地方の豪族や都の貴族とは一線を画する、特殊な血筋として長く続いてきたのだ。
 一族が保有する知識は、崇高な秘術として代々受け継がれた。
 女系の一族として栄えたが、しばらくは短命な当主ばかりが続いていた。 
 六十五歳で他界したソニエの祖母は長生きの部類に入るほうであり、その娘、つまりソニエの母はソニエを生む初産の際に命を落としている。
 その後、父親もまた若くしてこの世を去り、ソニエは唯一の肉親である祖母によって育てられた。
 広大な片田舎の領地で、外の世界を知ることもなく、けれどそれなりに美しい思い出を育みながら、ソニエは心豊かに成長した。
 いずれは祖母の跡を継ぎ、そして一生を美しいソユーブで過ごすのだと、漠然と思い描いていた。
 しかし、運命の十六の秋。
 祖母が急逝した日から、彼女の世界はひっくり返ったのだ。
 それまで彼女の耳から遠ざけられていた、厳しい現実が一気に押し寄せる。
 荘園の経営状態が思わしくないこと、切り札とも言うべき一族の秘術は既に多くが失われていること、曾祖母の代から累積する債務により屋敷は抵当に入っていること……、その他にも寝耳に水のような話が、傷心状態のソニエを次々に襲った。
 天涯孤独となった悲しみに暮れる間もないほどに、事態は思いもよらぬ方向へと転がっていったのだった。
 状況を把握することもできず、閑散とした屋敷に呆然と佇むソニエのもとに、一人の男が現れた。
 ロドニック=ファルデロー。
 ソニエとは親子以上に歳の離れた、既に初老の男だった。
 手汚い商いで莫大な財を築くことに成功したというその男は、ソユーブの農園を債務ごと引き取ることを申し出た。
 彼は金銭を積んでも手に入れることのできなかった、あるものを手に入れんがためにやってきたのだ。
 それはつまり、『称号』だ。
 荘園を買い取るための条件は、十六歳のソニエとの結婚であった。
 ソニエを娶れば、彼は己に唯一足りなかったもの、つまり貴族の称号を手に入れることができるのだ。
 都の貧民層から成り上がったというロドニックにとって、『家柄』だけを持て余すソニエは格好の獲物だったのだろう。
 好色そうな目を細め、年齢の割りに妙に脂ぎった頬を緩めながら、ロドニックはソニエの髪に馴れ馴れしく指を絡めて言った。
「このソユーブは、決して手放したりはせんよ。一切の債務を洗い流したうえで、丸ごと別荘としてプレゼントすることを約束しよう。もちろんこのままの形でな……。ただ荘園の看板が”チェイリード”から”ファルデロー”にかけ変わるだけなのだ」 
 男の瞳の奥には、物欲や情欲のほかに、なにかぎらついた光が潜んでいた。
 思わず目をそむけるソニエの顎を手に取り、彼はすでに獲物を得た狩人のような満足感に浸っていた。
 恋の経験はあれど、結婚という言葉はソニエにとってはまだ遠い存在だった。
 というよりも、結婚するのなら相手は一人を置いて他にいないと考えていた。
 子供ながら真剣に結婚の約束をした相手がいた。
 今は遠く離れたところにいるであろう、幼馴染の顔が頭をよぎる。
 もう五年以上も行方すら知れないけれど。
 それでもソニエは待ち続けていた。
 だからこのような形の婚姻はありえない。
 まして歳の離れすぎた理想とは程遠い男のもとに嫁ぐなど、それこそ悪夢以外のなんでもなかった。
 ―――しかし。
 ソユーブを手放すことは、ソニエにとっては身を引き裂かれるにも等しい苦痛であった。
 生まれた日から一度も外の世界に出たことは無いのだ。
 ソユーブは彼女の世界の全てだったのだ。
 想像するだけで胸が押し潰されそうだった。
 この世での時間全てを過ごしてきた彼女の美しい王国が、見知らぬ他人の手に渡り、好き勝手に改造されてしまうことなど……。
 彼女を愛し慈しんだ者たちの思い出が息づく大地。
 地方独自の石造りの屋敷を、広大な庭の木に父親がしつらえてくれたブランコを、丘の上から見下ろせば海原のように広がる雄大な薬草畑を、子馬の頃から世話をしてきた美しい愛馬を、初恋の舞台となった青いサテラの花畑を……、全てが二度と手の届かないものになってしまうなど、死んでも耐えられないと本気で思ったのだ。
 ロドニックと結婚すれば、少なくとも母なる故郷だけは失わずにすむ。
 ソユーブはソニエの命にも等しい。
 彼が言う通り、その縁談はソニエに差し伸べられた最後の救済手段のように思えた。
 少しずつそんなふうに思えてきた。
 放心したように、言われるがままに契約書にサインをし、彼が送り込んできた使用人たちも黙って受け入れた。
 これでいいのだ。これでソユーブを守ることができるのだ。
 そう言い聞かせるようにしながら、嫁ぐ日までの日々を悄然と屋敷で過ごしていた。 
 だが、ロドニックは急死した。
 結婚前日のことであった。
 もともと肝臓を患ってはいたらしいが、直接の死因は心臓発作だったのだという。
 二、三度しか会っていない男の死に悲しみを感じることはできず、ただ再び危うくなったソユーブの行く末だけを案じていた。
 次にソニエのもとに現れたのが、ロドニックの息子のセディックだった。
 一つ違えば義理の息子になっていたかもしれない男だが、ソニエより九つ年上だった。
 夫の年齢が若返ったことは、ソニエにとって必ずしも幸運とは言えなかった。
 奇抜な赤毛が特徴的なセディックは、父親の後継ぎとして商才には長けていたが、派手好きな遊び人であり、ソニエと結婚した時既に愛人が三人いた。
 どこか情に薄く、贅沢と華やかさを好む男だ。
 田舎育ちで社交的とはいえないソニエと、好んで結婚したわけではないことだけは明白だった。
 思いがけず厄介物を押し付けられたと言わんばかりに、彼のソニエへの扱いは最初からなおざりだった。
 それでも彼もまた、父親と同じくソユーブとチェイリードの称号を欲したのだ。
 ソニエはついに十六年過ごしたソユーブから引っ張り出され、アラトリムの街にあるファルデロー家の屋敷へと放り込まれた。
 行動は大幅に制限され、自由な外出も禁じられた。
 日常的に主人が不在の屋敷に放置状態だった。



 一人で放置されているだけならまだ構わない。
 しかし屋敷にはソニエを悩ませる同居人がいたのだ。
 夜毎に不気味な笛の音色を奏でる老婆が、同じ屋敷に住んでいた。
 セディックがどこからか連れてきたのだ。
 素性や同居の理由を何度尋ねても、同じ返答しか返らない。
「さる高貴なお方の頼みだ。大事な客人として失礼の無いように」、と。
 ファルデロー家が賄賂を渡して取り入っているというどこかの名門貴族の遠縁か、もしくは公にはできない裏取引に関わる人脈か。
 ファルデローはロドニックの代から、利益のためには手段を選ばないとの専らの噂がある。
 輝かしい繁栄の裏で何をやっているのか、ソニエには想像もつかない。
 いずれにせよその老婆は、何も知らされない形式だけの妻には無縁の客人のはずだった。
 だが老婆は精神状態がまともではないらしく、奇行が目立つ。
 その最たるものがこれだ。
 時々夜中に屋敷をうろついては狂ったように笛を吹き続けるのだ。
 笛の音と老婆の奇声に悩まされ、ソニエは何度も安らかな眠りの時間を奪われていた。
 王国七大都市のひとつ、『アラトリム』。
 華やかで賑やかな、この都会の街に暮らしながらも、夜はソニエにとって恐怖であった。



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