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チェイリードの娘

 蔓で編んだ籠に、朝露に濡れた薬草の葉を摘み取ってゆく。
 長い夜が明け、東の空が白み始める頃には、ソニエはいつも中庭の畑に出て土をいじっていた。
 セディックが都の王宮の庭を真似て造らせたという、豪奢な薔薇園が中庭の大半を占め、大理石を用いた東屋がその中央にある。
 身のほど知らずに豪勢な庭だ。
 その庭の片隅の、石垣に囲まれた小さな一区画に、ソニエの薬草畑はあった。
 唯一ソニエに許された自由が、その狭い質素な畑なのだ。
 ソユーブから株分けして持ち込んだ薬草を育て、祖母から教わった薬の調合をして日々を過ごした。
 もちろん、かつてチェイリード家が所有したという秘薬の技術とは違う。
 そのような大それた代物ではない。
 祖母から受け継いだ古書に掲載されていたのは、喉の痛みを和らげる薬湯だとか、擦り傷や火傷に塗る薬など、家庭で日常的に使うような薬の調合法ばかりだ。
 調合の方法さえ覚えれば、特殊な力や技術など無くても簡単に作ることができる。
 その程度の知識しか受け継がれてはいない。
 そこにチェイリード没落の理由があるのかもしれない。
 しかしソニエはそれで良いと思った。
 暗殺のための毒薬で財を築き、その毒薬を打ち消す秘薬で地位を得るよりも、人々の営みに役立つ癒しの薬を作り出すほうが、貧しくともずっと素晴らしい。
 世を揺るがす劇薬の知識を封じた祖先の選択は、間違ってなどいなかったのだ。
 ソニエはそう信じていた。
 セディックはかつてそんな彼女の言葉を、鼻で笑っていたが。



「奥様! ソニエ様!」
 積んだ薬草を仕分けていたソニエのもとへ、侍女のカレンが走りこんできた。
 召使いよりも朝が早いソニエを見ては、彼女はいつも慌てているのだが、今日は様子がおかしい。
 この屋敷でソニエが懇意にしている召使いは、同郷出身のカレンだけだ。
 彼女はもともと屋敷に出入りしていた織物商人の小間使いだったが、何度か顔を合わせるうちに親しく言葉を交わすようになり、ソユーブ地方の農村出身だということを聞かされた。
 数年前に家族でアラトリムに移住してきたのだという。
 意気投合した彼女を召し使いとして雇い入れることを、ソニエは望んだ。
 歳が近いこともあって、カレンはソニエの身を誰より気遣ってくれる。
 あとの者は皆、主人のセディックの機嫌を伺う者達ばかりで、ソニエによそよそしいのだ。
「おはよう、カレン。朝はもっとゆっくりでいいのに。私のことは気にしないで……」
「ソニエ様! 大変なんですよ!」
 小さな声で気弱に話すソニエを遮り、カレンは対照的なハキハキとした声で喋った。
 はたから見ればどちらが召使いかわからない。
「ああ、そんなことをなさっている場合では……。大変なんです! 早く母屋へお戻りになってください! 旦那様が間もなくお帰りに……!」
「……セディックが?」
 ソニエは眉をひそめた。
 耳をすませると、遠くから微かに響く馬の嘶きが聞こえる。
 どうやら本当らしい。
 ついで、にわかに母屋のほうが騒がしくなってきた。バタバタと走り回る使用人たちの声や足音が響いてくる。
 この屋敷の主人が何ヶ月も戻らないのは今に始まったことではない。
 思い出した頃に前触れもなく帰宅することには皆慣れている。
 しかしこんな早朝に帰ってくるなど、いくらなんでも召使い達にとっては傍迷惑な話だろう。
「ソニエ様、お出迎えに参りませんと……」
「……わかったわ」
 ソニエは気鬱な表情でカレンに手を引かれた。
 セディックの帰宅など、彼女にはどうでもよいことだ。
 むしろ顔を合わせることが億劫でならなかった。



 着替える間もなく薬草の籠を持ったまま母屋に戻ると、既にセディックは玄関ホールに立っていた。
 まとっていた派手な外套を脱ぎながら、執事のレオンに何かを話しているところだ。
 個性的な赤毛だけでも十分派手な印象が強いのだが、服装まで奇抜なものを好むせいで、滑稽な成金趣味のようだとソニエは常々思っている。
 彼の趣味は彼女とは決して相容れない感覚だ。
 それは他の全てにおいてもいえることだった。
 階段の脇に立っていたソニエにようやく気付くや、セディックはわかりやすく眉をひそめた。
「これは、チェイリードのお嬢様。朝早くから土いじりとは随分と熱心なことだ。新しい召使いが一人増えたのかと思った」
「…………」
 皮肉に満ちた物言いに、ソニエが返す言葉もない。
 無言で目をそらすと、セディックはうんざりしたようなため息をつく。
「久々に夫が戻ったというのに、愛想の一つも振舞えないとはな……。この屋敷は帰るたびに陰気になっていくようだ。嘆かわしい」
 苦々しく言い捨て、セディックは俯くソニエの脇を通り過ぎた。
 愛の無い結婚と、自分のことしか考えていない夫に、嘘でも笑顔を提供するほどソニエは器用ではなかった。
 下手に機嫌をそこねて八つ当たりまがいの叱責を受けるよりは、屈辱を受けても黙ってやりすごす方がいい。
 とりあえず形式的な出迎えは済んだ。
 セディックが再び屋敷を出るまでは、自室に篭ろう。食事も自室で済ませれば、しばらくは顔をあわせずにすむ。
 ソニエはそう心に決めた。 
 だが階段を登り始めたセディックは、思い出したように振り返って言った。
「―――ああ、そうだ、来週の大公家での舞踏会にはおまえを同伴する。そのつもりで用意しておくんだ。いいな」
「……舞踏会? なぜ……」
 ソニエの驚きは当然だった。
 このファルデロー家に嫁ぎ、アラトリムの街に移り住んで以来、そんなものに出席したことは一度もない。
 セディックはそれまで公の場にソニエを同伴させたことなど一度もないし、ソニエも望んだことはなかったのだ。
 そのような華やいだ場所には彼は常に、内気で目立たない妻ではなく、美しく見栄えのする愛人を連れて行った。
 去年から人目もはばからず続いているという、未亡人のシェリル嬢が同伴するのだと思っていた。
 ソニエの問いに、セディックは憮然とした顔で答えた。
「……大公夫人が、おまえに会ってみたいとおっしゃっている。薬草遊びもいいが、こういう時くらいは夫の面目はつぶさないよう、せいぜい努めるんだな」
 ああそういうことか、と、ソニエはすぐに納得した。
 セディックが今手を広げているという事業を成功させるためには、大公家のご機嫌を損ねないことが肝要なのだろう。
 大公夫人が自分に会いたいという理由には多少首をかしげるが、相手が望むならセディックに拒む権限などないはずだ。
 またそんな事情でもないかぎり、彼が進んでソニエを連れ出すことなどありえなかった。
 本来あまり人ごみに慣れていないソニエにとって、社交界に憧れなどない。
 まして様々な意味で不釣合いな夫と並んで舞踏会に出席するなど、考えるだけで気分が重くなった。
 だがそれが妻の役目だと言われるかぎり、ソニエに拒否権はなかった。
「わかりました。出席します。そのかわり、今年こそソユーブに……」
 言いかけたところで、セディックは視線で冷たくソニエを刺した。
「また、ソユーブか。おまえは顔を合わせるたびに”ソユーブソユーブ”だ。いつも……、まるで俺が不自由な生活を強いているみたいな言い草をする」
「そ、そんなつもりでは……。私はただ、故郷のことが気になって……」
 ソユーブのために嫁いだも同然だ。
 セディックの父親・ロドニックとの最初の約束ゆえに、とりあえず今はそのままの形でファルデローの所有になっているらしい。
 しかしいつセディックの気まぐれで人手に渡るかと思うと、気が気ではなかった。
 結婚後一度も、ソニエはソユーブへの帰郷を許されていない。
 もう何年も、愛する故郷の姿を目にしてはいなかった。
 主のいない屋敷や薬草畑が、どれほど荒れ果てているかと思うと心が痛んだ。
 セディックは登りかけた階段を数段下りて、ソニエを威圧的に見下ろした。
 彼はいつもソニエに対して、短気な苛立ちを隠さない。
「おまえには何不自由なく、この屋敷で思うようにさせているはずだ。当てつけのように不幸ぶるのはやめてもらいたい」
「…………」
「俺のやり方にいちいち口を挟むな」 
「……すみません」
 まるで王者気取りだ。
 召使いを相手にしているのと変わらない。
 『何不自由なく』ではなく、『ただ適当に放置しているだけ』、の間違いだろう。
 屋敷の外に出ることさえかなり制限されているのだ。
 ソニエは本来的に外出を好むわけではなく、ましてこのような知り合いもいない街で自分から出歩こうとは考えもしない。
 しかし現実として自由が奪われているのは確かだ。
 セディックはソニエの言葉になど一切耳を傾けない。形だけの妻を適当な人形か何かとでも思っているのだろう。
 けれどソユーブが彼の手にある限り、ソニエはただ黙って従うしかなかった。



 このアラトリムの街を治めるのは、国内に散らばる七つの公家(こうけ)の一つ、第三公家のエルブラン大公だ。
 街の最高権力者である大公家主催の、年に一度の舞踏会。
 アラトリムだけでなく全国から名のある貴族や財閥の紳士淑女が招待される。
 その招待状を手にすることは、この街の上流社会で生きていく上で大変重要なことだった。
 重要な取引をうまくまとめるにしても、新たな人脈を築くにしても、それ以上に貴重な機会はなかったのだ。
 だがやはり、ソニエには無縁の世界のように思えた。
 当日の朝、思わぬ贈り物を手にするまでは……。
 セディックが前の晩によこした衣装箱の中を見ていっそう憂鬱になっていたソニエは、部屋に入ってきたカレンの声に、沈んだ表情で振り返った。
 しかしすぐに、彼女が手にしていた花束に気付いて目を大きく開く。
「……なに、それ?」
「ソニエ様宛に贈り物ですわ。今さっき届きましたの!」
 珍しい色の薔薇だった。
 瑞々しい淡いブルーの薔薇の花束が、白いリボンで美しく束ねられている。
「いったい、誰から?」
 この街に友人すらいないソニエにとって、自分にそのような贈り物をする人間に心当たりがない。
 カレンから花束を受け取ると、摘みたての薔薇の甘い匂いが鼻腔をくすぐった。
 花の中には白いメッセージカードが一枚挟まっている。
 
 ――――舞踏会に出席されると聞きました。
 ――――今夜あなたに会えるのを心待ちにしています。


 カードに書かれたメッセージを読み、ソニエはますます混乱した。
 差出人の名前が書かれていない。
 まったくもって心当たりがないので、見当もつかない。
「カレン、届けに来た人は何も言わなかったの?」
 問われたカレンも首をかしげている。
「使いの者も誰かに頼まれたみたいで……、事情は知らないようでした」
「そう……」
「でもいったいどなたなんでしょうね! こんなに見事な花束!」
「そうね……」
 うっとりするほど美しい花束に見とれながら、ソニエは少しだけ胸をときめかせた。
 この素晴らしい贈り物の贈り主に、今夜会えるかもしれない。
 自分などに会いたいと望んでくれている素敵な人。
 そんな人が本当にこの街のどこかにいるのかと思うと、久しく忘れていた高揚感を思い出した。
 

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