チェイリードの娘
40
――――夢を見た。
いつか見たのと同じ夢。
焦がれるように懐かしい、あの故郷の夢を。
ソニエは愛しい大地に降り立ち、愛しい人々に囲まれて生きていた。
それはきっと、――いずれ出会える未来の姿。
一面に咲き乱れるのは、懐かしい青い花と、そして……、初めて目にする白い花弁の小さな花。
たゆたう甘い匂いと、優しい景色に包まれて。
ゆるやかにそよ吹く風の中に佇むのは、自分。
そして、その隣には……。
知っているのに知らない匂い。
いつも近くを掠めるだけで、間近には感じたことのなかった匂いがすぐ側にある。
柔らかくて心地よいシーツの感触。
こそばゆい感覚に思わず笑みを浮かべながら、気だるくも心地よい眠りに身を任せていた。
そして生まれて初めて、自分ではない誰かの匂いに包まれて目を覚ました。
視界に映る見慣れない光景に、ソニエは一瞬戸惑った。
ここはどこだろうかと、半分寝惚けた頭で考える。
腕を伸ばした。
さっきまでそばにあったはずの温もりが消えうせている。
「…………」
次の瞬間、ぱちっと目を開いて体を起こした。
眩いほどの朝の光が差し込む中、だだっ広い部屋の寝台に一人。
彼女のほかに誰もいない。
一瞬不安が心をよぎって部屋中に視線を彷徨わせる。
しかし、探し求めた人物はその部屋のどこにも姿が見当たらなかった。
寝台脇に転がる部屋履きと、椅子にかけられた衣装類。
ソニエはそれを慌てて引き寄せようとした。
そして、椅子に向かって腕を伸ばしたその瞬間、思いがけない痛みに体が張りつめ、しばらく動くことができなかった。
なんとか衣服を身に着けはしたものの、うまく動けないまま心細い思いで寝台の柱につかまっていると、部屋の扉が開いた。
そこに現われた男の顔に、ソニエはほっと胸を撫で下ろす。
置いていかれたのではないかという不安が、一気に拭われた。
セディックは寝台に腰掛けたままのソニエのもとに歩いてくる。
「朝食の準備ができたそうだ」
言いながら、彼女の赤く染まりゆく顔を不思議そうに見た。
「どうした?」
問いかけに答えることなどできず、ソニエは赤い顔で押し黙ったまま、縋るように細い金属の支柱に身を寄せていた。
ますます怪訝そうにその様子を見やりながら、しかし極限まで真っ赤になったその顔から何かを悟ったように、セディックは何度か目をしばたかせる。
「……立てないのか?」
「…………」
とっさには返事を返すことができず、ソニエは羞恥のあまり俯いて顔を隠した。
明るい部屋で晒す、この茹で上がったような顔はどれほど間抜けなことだろう。
どこかに隠れてしまいたい気分だったが、隠れようにも身動きが取れない。足を動かそうとするたびに、対処の仕様がわからない痛みが深部を襲う。
とはいえ黙り続けているのも不自然なので、かろうじて蚊のなくような声で言った。
「……だ、大丈夫……」
セディックはその様子に何を思ったのか、あっさり引き下がった。
「そうか」
そっけなく言って背を向ける。
一人で先に階下へ行ってしまうつもりらしい、その予想外の冷たい態度にソニエは焦った。
「……待っ、……っ!」
思わず追いすがろうと、無理に立ち上がる。
しかし運悪く寝間着の裾を踏んづけてしまい、前のめりにバランスを崩した。
「何をやってるんだ、おまえは」
すんでのところで抱きとめられるが、足に力は入らず、そのままその場に座り込む。
「ご、ごめんなさ……」
じくじくと襲いくる波に顔をしかめた。
けれど、朝の光の中で顔をまともに見るだけでも恥ずかしいのに、そんなことを正直に言えるわけもなく、泣きたくなって思わず両手で顔を覆った。
その、顔に被さった手を、セディックの手が一枚ずつ引き剥がしてゆく。
そして……。
開けた視界の中には、どことなく愉快そうな目をした男の顔があった。
「…………!」
それを見た瞬間、相手が面白がっているのだと知って、ソニエは妙な悔しさで彼から顔を背けた。
けれどその直後にふわりと体が抱き上げられる。
「……あっ……、セディック……!」
横向きに、軽々と。そんな風に誰かに抱き上げられるのは、生まれて初めてだった。
無性に落ち着かなくて、体をよじらせる。
「動くなよ。落すぞ」
「だって……、無理よ、こんな格好で下へ降りたら……」
使用人たちの反応を想像して顔から湯気が出そうだった。
セディックの足が止まり、いかにも意地悪そうな目が彼女を見下ろした。
「では、部屋まで運ばせるか? この部屋に」
「……それは、困るわ」
「それなら大人しくしてろ」
「…………」
不敵な笑いを浮かべ、何食わぬ顔で歩き出す。
うまく言いくるめられたような気がして悔しかった。
「だいたい、今更隠してもしかたないだろう」
歩きながらセディックは言う。
「空っぽのおまえの部屋は、既に使用人に目撃されているはずだが」
「……あ」
その追及はもっともで、ソニエは更なる羞恥に顔を隠した。
メグにどんな顔で会えばいいのかわからない……。
男の顔が再度愉快そうに笑っていることを知らず、足のつま先まで真っ赤になっていた。
やがて日のあたる階段の踊り場へたどり着く。
一段一段、下へ降りてゆく足取りが慎重だ。
口振りとは裏腹に、ソニエの体へ向けられる過剰なほどの配慮が、くすぐったいような刺激で彼女の心を溶かしてゆく。
思わず広い胸に顔を寄せた。
相当な覚悟をして入った食堂広間には、しかし誰の姿もなかった。
顔を覆い隠していた手の指の隙間から、恐る恐る覗き見て、そしてソニエは目を丸くした。
テーブルの上には朝食の料理だけが並んでいたが、使用人の姿はさっぱり見当たらない。
落ち着いて様子を探ってみると、その部屋だけでなく、廊下にも、調理場にも、どこにも人の気配など感じられなかった。
「用意だけさせて、あとは皆帰らせた。……特別休暇というやつだな」
笑いを押し殺すような口調で、セディックは言う。
唖然とする彼女の体をゆっくり下ろし、引いた椅子にそっと座らせた。
なされるがままに席についたソニエは、事情を理解するや赤い顔で憤慨した。
「なんて意地悪なの……。それならそうと言ってくれればいいじゃない。わたしが、ここに着くまでどれだけ悩んでいたと……!」
彼女の真剣な抗議に、しかし真向かいに腰掛けたセディックは、口元に手をあててくつくつと笑っている。
相当おかしそうに、やがて声をもらして笑い始めた。
どうにも気がおさまらないソニエはぷいと顔を背けて言った。
「知らないわ。今日はもう、あなたとは口をききません」
それでも、だ。
こんなに憤慨しているのに、セディックの顔からはおかしそうな笑いが消えない。
ソニエはなんとか相手を打ち負かそうと、あれこれと考えを巡らせる。
だが、ちらりと目に入った初めて見る自然な笑顔に、惹き付けられずはいられなかった。
寝顔も笑い顔も、ソニエが見慣れた彼の顔より、ずっと幼い印象だった。
ふいに笑いを止めたセディックは、何かを思い出すように遠くを見る。
そしてソニエを見つめ、眩しいものでも見るように目を細めた。
「……夢を見た。今朝、信じられないくらい幸福な夢を」
彼に向き直って、引き寄せられるようにその瞳を見る。
穏やかな光。
彼女を真っ直ぐに映す、静かなブルー。
ソニエは限りない愛しさを込めて微笑みを返した。
「――わたしもよ。何より幸福な、素敵な夢を見たわ……」
夏の終わり、北への旅路は少し肌寒いかもしれないけれど。
ともに愛しい大地へ旅立とう。
優しい風に包まれた、あの場所へ。
故郷が無いと言ったあなたに、見せてあげたいものがたくさんある。
きっと時間は優しく、ときに試練を与えながらも、ともに歩いていく未来を静かに見守っていてくれるに違いない。
――――帰りましょう。
故郷へ。
あなたの、わたしの、二人の……、新しい故郷へ。
― FIN ―
番外編がございます。よろしければTOPページの目次より御覧くださいませ。
2007.9.15. from sayumi
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