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チェイリードの娘

39

 アリュースとの別れをした日の夜、セディックは屋敷に帰らなかった。
 どうやらアリュースが訪れた後、すぐに外出していたらしい。
 その夜だけでなく、それから四日、彼は一度も戻らなかった。
 レオンにきいても、行き先は語らない。
 ソニエは夜中に何度か、主のいない部屋に足を踏み入れた。
 既に施錠さえされていない、無防備な部屋。
 整然と、しかし寒々しいほどに生活の匂いがしない部屋。
 そのまま二度と住人が戻ってこなかったとしても、不思議ではないくらいに。
 ここは彼の居場所ではないのだろう。
 もうずっと、おそらく、ファルデロー家に入った時から、彼にとっての安息の場所はこの屋敷になどないのかもしれない。
 この部屋にこもっていた数日間、セディックはなにを考えていたのだろう。
 心細さに打ちひしがれながら、嫌な予感がソニエの心をよぎる。
 ――――『おまえは、ソニエを憎んだはずだ』。
 セディックに向けられたケスパイユの言葉が、脳裏に聞こえる。
 ソニエを守り、その災厄を振り払った今、彼の心に残ったのはひょっとして、彼女への憎しみだけなのではないかと……。
 体の奥底に震えが走った。
 ――――そうなの? セディック……。
 自分の体を抱きしめるように小さくなり、腰を折って床に膝をつきながら、ソニエは何かに縋るように祈った。
 ――――たとえそうでも、かまわない。
 ――――お願い。帰ってきて。
 

 ソニエがそう強く念じて瞳を閉じたとき、都合の良いタイミングで、かすかに玄関扉の開く音がした。
 この部屋からは随分遠いはずの場所の物音を、ソニエの耳はしっかり捕らえた。
 弾かれるように顔をあげ、立ち上がる。
 セディックの部屋を飛び出して、暗い廊下を走った。
 薄い寝間着のふわふわとした裾が、何度も足に絡まりそうになりながら、走った。
 階段を登ってくる音が聞こえる。
 ソニエが階段上のホールにたどり着いたとき、ちょうどセディックが上がって来たところだった。
 だが、様子がおかしい。
 手すりにもたれかかるように、少しぐったりしゃがみこんでいた。
「……セディック!?」
 その声に驚いたらしく、セディックはばっと顔を上げる。
 天窓から入り込む月の光。 
 その微かな明るさの中、赤い髪の隙間からのぞく双眸がソニエを映した。
 それは大きく見開かれ、幽霊でも見るかのように彼女を見ている。
「…………」
 セディックの反応に戸惑いつつも、ソニエはそばへ寄って、彼の体を支えようとした。
 胸の傷口が開いてしまったのではないかと、心配したのだ。
 彼の腕をとり、自分の肩にまわす。
 体が近付いたとき、微かにアルコールの匂いがした。
 既に酔いは覚めているらしく、さほどきついものではない。顔色を見ても、それは明らかだった。 
 青白い顔でなすがままになり、終始呆然とソニエを見ていたセディックは、掠れた声でつぶやいた。
「――どうして、まだここにいる」
 この言葉にソニエは動揺した。
 そのときのソニエは、彼が自分を責めているのではないかと思い違いをしていた。
 だから、どういうつもりでそれを聞くのかという少し恨めしげな目線を、間近にある顔に向けてしまった。
 けれどその顔はただ純粋に驚きをたたえ、いまだ信じられないというように彼女を見返すだけだ。
 ――――あ……。
 なんとなく彼の考えていることをソニエが理解すると同時に、彼もまたそれを口にした。
「……あの、男は……?」
 怪訝そうな顔で見つめられて、少し空しい気持ちを味わう。
 彼は、ソニエがアリュースに連れられてここを出て行ったと思っていたのだろう。
 そんな風に思わせていたことが少し悔しくて。
 あのとき、あの炎と煙に巻かれた惨劇の地下室で、多少の気持ちは伝わったと思っていたのに。
 けれどそれは一方的な思い込みにすぎなかったわけで、実際、直接口にできずにいたソニエには、彼の思考を非難する資格もない……。
 暗い顔で黙りこんだ彼女の様子を、どう解釈したのかわからない。
 深い溜息をついて、セディックはソニエから腕を離した。
 自分の足で立ち上がり、部屋へ向かって暗い廊下を歩いていく。
 慌ててその後を追い、けれど一定の距離を縮めることができず、少し離れて後ろを歩いた。
 部屋までついてきたソニエを特に責めることもなく、セディックはソファに腰掛けると左胸の傷に手を当てていた。
 暗い部屋で、扉付近に佇むソニエの位置からは彼の表情は見えない。
 けれど、傷むのかもしれない。
 そう思いながら、おそるおそる彼のそばに歩み寄る。
 近寄りはしたものの、言葉が見当たらず、馬鹿みたいにその場に突っ立っていた。
 ――――包帯を替えましょうか。
 ――――薬をつけましょうか。
 いくつか話しかける言葉を考えるが、そのどれもが、ここで自分が言うにはひどく不自然に思えた。
 突っ立ったままのソニエに言及することはなく、しばらくセディックは無言だった。
 雲間から月の光が差して、窓から鈍い光が入り込む。すると、その表情が明らかになる。
 彼は、何かを強く悔いるような顔で目を伏せていた。
 やがて、その口から予想もしない言葉が飛び出す。
「――同情なら、迷惑だ。そういうものは本気で虫唾が走る」
 心底嫌悪するように顔をしかめながら、苦々しく言い放った。
 ソニエは彼の思考が悲しくてたまらず、たどたどしくも胸の苦しみを言葉にした。
「違うわ。そんなんじゃない。そんなんじゃ……」
 その震える声に、何かを感じ取ったのかもしれない。
 一瞬セディックの顔がぴくりと動いたようにも思えたが、すぐに眉間の皺が深くなる。
 何かを振り切るように立ち上がり、窓のほうへ歩いていった。
 窓枠に両手を付きながら、不自然なくらい冷たい声をよこした。
「離婚という行為に抵抗を感じるのか。……それなら、夫の不貞や横暴の数々を公表でもすればいい。最初から仕組まれた婚姻だったのだと。ファルデローの悪名も手伝って、世間はみなおまえに同情するさ……」
 最後のほうは、自嘲的な響きが混じっていた。
 ソニエは思うように返事を返せない自分に苛立った。
 彼の発言を真っ向から否定して消し去りたいのに、言葉がひとつもうまく出てこないのだ。
 そのかわりに、投げかけられる言葉に反応するように、油断すれば涙ばかりが溢れそうになる。
 少しでも声を出せば堰を切ってしまいそうな感覚が迫っていた。
 彼女が持て余す感情に目を向けようとはしないまま、セディックは一方的に言葉を投げる。
「俺には何も無い。財産も何もかも、すべて失った。自分一人どうにかする当てはあるが、おまえにしてやれることは、もう何もない。だから……」
 ――――ソユーブへ帰れ。
 彼はついに、ソニエにそう告げた。
「…………」
 さすがにこれ以上、黙っているわけにはいかない。
 涙が溢れるのを承知の上で言葉を発した。
「『すべて』……? 本当に? ――わたしに対する気持ちも、なくしてしまったの? それとも……」
 まくし立てるように質問を重ねながら、喉がつまりそうになる。
「それとも、最初からそんなもの無かった? わたしの思い上がりだった? 憎しみしか、もう残っていない……?」
 最後の声は嗚咽交じりだっただろう。
 セディックの頭が微かに動く。
 しかしそれきり振り返りもせずに彼は言った。
「……一つ、教えといてやる」
 冷たい声は、わざと突き放すようにも聞こえて、どこか空々しい。
「俺は、おまえの幸せを願ってわざと身を引くとか、そういう殊勝な考えでいたわけじゃない。結局全部、自分のためだ」
「…………」
「期待を壊すようで悪いが、結局俺は自分のことだけ考えて生きている。ずっとそうやって生きてきた。自分の利益のためだけに見境無くやってきた人間に、人一人の人生が背負えると思うか。……そんな自信はとてもじゃないがもてない」
 言葉を挟む隙を与えず、たたみかけるように、若干興奮したような声が続く。
「奇麗事とは程遠いだろう。俺は自分にとって利益にならない人間は切り捨てる。おまえのこともそうだ。……もう、必要ない。これ以上そばに置いていても、俺には何の益もない」
 ソニエから激しく顔を背けながら、セディックは言い捨てた。
「そういうことだ。……しょせん、そういう人間なんだよ」
 最後のほうは苦しげなうめきにも似ていた。
 彼は自分で気付いていないのだろうか。迂闊にも、その声と言葉内容との食い違いが、隠そうとしている本心の存在を知らせてしまっていることに。
 ソニエはもう見逃したりなどしなかった。
 セディックの言葉が切れると、涙をぬぐいながら口を開いた。
「わたしは、あなたに、背負ってもらおうとなんて思わない。お互いに支えあえたら幸せだろうとは思うけれど……」
 言いながら少しずつ窓際へ、彼のすぐそばまで歩み寄る。
 そして震える両の手をおそるおそる、窓枠に置かれたセディックの左手に重ねた。
「あなたがわたしへの好意を失ってしまったのなら……、いいえ、最初からそんなものがなかったのだとしても、わたしはわたしの意志で、あなたのそばにいたいの……」
 自分のものより一回りは大きなその手を、両手でぎゅっと包み込む。
 こんな風に、まともに手と手が触れ合うのは初めてだった。
 手だけじゃない。平常の状況で、ソニエが彼に触れたことなど、この二年間で数えるほどしかなかった。
 思いのほか冷たい感触に、なんともいえない物悲しさを覚えながらも、必死に心の内を吐き出した。
「受け入れてくれるだけでいい。そばに置いてくれるだけで構わない。他に何も望まない。……ただ、側にいたいのよ」
 その言葉に動じるように、あきらかにセディックの体が震えた。
「――だって、他に、思いつかないの」
「…………」
「この、胸に溢れてくる苦しい想いの名前……。他に思いつかない……」
 思いつかなかった。
 ――――『愛』と呼ぶ以外に。
 セディックの反応を恐れながら、ソニエは彼の手に両手を重ねたまま、刑の宣告を受ける人間のように小さくなっていた。
 しかしセディックはその手を引き剥がし、ソニエから離れた。
 まるで何かに抗うように。
「駄目なんだよ。……俺は、俺という人間は、自分で思っている以上に執着心が強くて、感情的で、あっさり冷静さを失う。手にしたものも激情に任せて壊してしまうだろう……」
 その声はさきほどよりも更に余裕を失い、無防備に様々なものを曝け出していた。
 低く、何かを抑え込むような苦しみを感じさせる。
 けれどソニエだって苦しかった。
 ここで拒絶されたまま終わってしまうのかと思うと、別れが迫っているのかと思うと、胸が千切れそうになる。
 なんて、原始的な欲求だろうと思った。
 ――――離れたくない……。
 ただこの男から離れたくなかった。
「あなたの言葉はいつだって、まるで、自分を嫌えと訴えているかのよう……。でも……」
 ソニエは行き場の失った両手を胸の前でぎゅっと握った。
 このどうしようもない想いを、せめて真っ直ぐ見つめて欲しい――。
「わたしは、かまわないの。あなたの好きなだけ、壊せばいい。……いいえ、いっそ……、壊して……」
 感情のままに口から飛び出した言葉が、空中を経由して音声として耳に戻ってくる。ソニエは早くも身の置き所がなくなった。
 なんてことを言うのだろうと、自分でも思った。
 とんだ見当違いで、相手を失笑させるだけだったとしたら……、きっともう立ち直れない。
 自分でとんでもない爆弾を投げてしまったような気がして、瞬間的な沈黙に沈みこむその空間で、心底脅えた。
 ――――けれど。
「…………っ!」
 うつむいて小刻みに震えていたソニエの体が、すごい勢いで引き寄せられる。
 ぶつかるように飛び込んだ胸の中、すさまじい力で抱きしめられた。
 激しく飛び上がる心臓。
 その胸の広さを、腕のぬくもりを感じるよりも早く、別の部分に熱を押し付けられた。
「……んっ…、っ……」
 呼吸もできない。
 荒々しい口付け。
 唇と唇、そして更に深い部分で、互いの熱が絡み合う。
 いっそ攻撃的なほどに激しい。 
 こんな行為を、ソニエは知らない――。
 熱くて熱くて頭がおかしくなりそうだった。
 もつれ合うようにしながら足が後ろへ後退し、壁にぶち当たる。壁に背中を押し付けられ、そこに閉じ込められて、上からなお激しく貪られた。
 脳芯にまで伝わる熱が足の感覚を失わせて、ガクンと膝が折れ曲がる。
 崩れ落ちそうになる体を、下りてきた腕が支える。
 激しい呼吸を繰り返すソニエの、熱に染まった体を抱きとめて、セディックはその肩に顔をうずめた。
 熱い息が首元にかかる。
 体内から湧き上がる熱と、軽度の酸欠から、意識が朦朧としていた。
 耳のすぐ近くで、うめくような男の声を聞く。
「……憎んだんだ。俺は、確かに」
 激しい脈動を繰り返す心臓の音と、少し苦しい呼吸の音。
 その向こうから、語りかけてくる苦しそうな声。
「あの男が言ったとおり、俺は自分のしたことに動揺し、いつもどこかでお前を憎んでいた。あのとき、お前にさえ出会わなければ、と……」
 ――――『あのとき』。
 彼は覚えているのだろうか。
 あの、窓ガラス越しの、ほんの刹那の邂逅を。
 ぶつかり合った視線の衝撃を。
「だが、それでも……」
 ソニエを抱きしめる力が一際強くなる。
「…………!」
 このまま壊されても、その激情を受け止めたいと、本気でそんなことを考えた。
 体の芯から麻痺してしまったかのように、しばらく身動きが取れなかった。
 腕の力が緩んで体が解放されると、彼女の呆けたような赤い顔と潤んだ目を、同じように揺れる薄い色の瞳が映し出していた。
 冷たさを感じさせる色なのに、たしかに熱情の渦が見えた気がした。
 やがて、ふっと物寂しそうな笑みを浮かべて、セディックは言う。
「逃げ出すなら今しかないぞ。今ならまだ、離してやれる」
「…………」
 ソニエはそっと手を伸ばし、自分を見下ろす顔に手を触れた。
 震える足に力を入れなおして、ゆっくりと、いっぱいいっぱいに背伸びをする。
 慣れない動きで両腕を相手の首にまわし、おそるおそる顔を近づけた。
 その唇に、自分の震えるそれを掠るようにくっつけて、すぐに逃げるように目の前の胸に顔をうずめた。
 それでも、精一杯の意思表示のつもりだった。
 顔から火が吹き出そうに熱い。
 震えながら抱きついていたソニエの体に、セディックの腕がゆっくり回される。
 彼の腕も少し震えているようだった。



 静かな部屋で、自分の心臓の音だけがうるさく耳に響く。
 真上から見下ろしてくる顔を直視することは難しかった。
 けれど逃げまいと、極限の緊張状態に耐えながら、瞳をそらさない。
 セディックが薄く笑っていた。
「引きつった顔で硬直しないのか? あのときのように……」
「…………」
 彼が言っているのは、ソニエがファルデロー家にきた最初の夜のことだ。
 だしぬけに寝台の上に組み敷かれたソニエは、恐怖のあまり硬直して痙攣し始めた。
 苦々しい顔でそれを見たセディックは、すっかり興ざめしたような顔で去っていったのだ。
 それ以来二度と、彼は夜にソニエの部屋を訪れることはなかった。 
 一度たりともソニエには触れようとしなかった。
 子供っぽい田舎育ちの自分に興味など無いのだろうと、単純に考えていたけれど。
 今見下ろしてくるその同じ瞳には、あきらかに激しい熱が感じられた。
 おそらくソニエの体に宿っている熱と同じ種類のものが……。
 初めて触れた肌のぬくもりは、気が遠くなるほどに心地よくて。
 深部から溢れ出してくる、とてつもない感情の奔流に恐々と身を任せた。
 襲い来る未知の波に何度も意識を飲まれそうになりながら……、強烈な腕の力で抱きしめられ、耳元で繰り返し自分の名前が囁かれるのを聞いた。
 抗いがたい熱とともに、込み上げてくる狂おしいほどの愛しさが、その瞬間のソニエの全てだった。



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