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チェイリードの娘

番外編 ―前編― 

 この薄汚れた世の中。
 生まれ落ちた瞬間から、失うものなど何もなかった。
 信じられるものといえば、自分自身の意思が通うその体だけ。
 理不尽で、しかしひどく単調な原理のはたらくこの無慈悲な世界で。
 秩序の隙間をかいくぐり、ただ成り上がることだけが、生きる意味だった。
 長い間、そのためだけに生きてきた――。



 孤児院という場所は、物心のつかない時代から、容赦のない競争原理がものをいう。
 他の人間を押しのけてでも、自分の手を伸ばす。ライバルを出し抜いて自分だけが上を見る。
 そうしなければ、日の当たる場所など永遠に手に入らない。
 本質的に争いを好まないタイプの人間には、そこは地獄にも等しかっただろう。
 だが、彼は違った。
 十歳のとき。
 頭のよさと手先の器用さを買われ、アラトリムで名のある老舗の靴屋に引きとられた。
 初めて見る外の世界。
 そこは思っていた以上にひどいものだった。
 豊かな繁栄の裏側に潜む、人間の欲と怠慢の渦。
 上下社会の病理が生み出した退廃ぶりは、庶民の世界にまで波及していた。
 秩序は、行き詰まった先の壁を打ち破るべくあがきながらも、いつのまにか方向を見失っている。
 周りの大人は、悉くくだらない人間ばかりだった。くだらない上に、無能だ。
 しかし、それでこそ彼が這い上がる隙があるというものだ。 
 孤児院にいる頃から要領よく立ち回ることには長けていた。だから同世代の男児の中ではもっとも良い条件の里親が見つかった。
 何事も器用にやりすごす方法を模索しながら、本性を隠して無邪気な子供のふりをするのがうまくなる。
 それは賢く生きるために不可欠な技芸だった。
 従順で素直な素振りを見せることで、得をすることが多いことは既に知っていた。知能の低い人間ほど、尊敬の眼差しや賞賛の言葉に敏感に反応するものだと。
 適当に持ち上げておけば、思わぬ利をもたらす者もいたし、馬鹿な人間も使いようによっては役に立つのだと学んでいった。



 雑然とした、庶民が行き交う賑やかなサロム通り。
 その一角にある老舗の靴屋で扱き使われながら、彼は少年時代の数年を過ごした。
 親方に気に入られ、一番上級の仕事を任せてもらうまでに時間はかからなかった。
 とにかく大人の意思を敏感に汲み取る少年は、実に合理的に必要なものを手に入れていった。
 だが甘い汁を吸ったぶん、ときにしっぺ返しのような反動がくる。
 髪の色が気に入らないだとか、くだらない理由をこじつけては何度も、三つ年上の跡取息子から理不尽な嫌がらせを受け続けた。
 そんな中でも虎視眈々と成り上がる機会をうかがいながら、いくつもの年月が過ぎ去ってゆく。
 彼の成長とともに、ゆっくりと着実に、自惚れと怠慢に沈み行く老舗の靴屋の経営。
 その遠くない将来の姿が、少年の目にははっきりと見えていた。
 近代化が進むこの街で、古い体制に固執するだけの商いは、いずれ大規模産業の波に飲まれ、あるいは国外から流入しつつある新手の買収屋の前にあえなく砕け散るだろう。
 傾いたものを立て直し、なおかつ収益を倍増させる方法なら、その当時の彼にもいくつか考え付いた。
 しかし、一生をそのちっぽけな世界で生きるのかと思うと、そして無能な跡取息子に扱き使われ続けるのかと思うと、考えるだけで吐気がしていた。
 自分の能力に、ふさわしい場所が必要だった。



 その当時、アラトリムで急進的に肥大しつつあった、ファルデロー家。
 成り上がり者の卑しい男が、手段を選ばずに一代で築きあげたという、巨万の富と権力。
 それはこの美しい街でひときわ醜く、しかし少年の目にはとても眩しく映ったのだった。
 その男なら、目ざとく自分の価値を見出し、それを評価することができるだろうと彼は考えた。
 持ち前の強運も手伝ったのだろう。
 靴の売り込みを口実に、彼はその男、――ロドニック=ファルデローに近づくことに成功する。
 あざとい小細工は功を奏し、男は少年に興味をもった。
 幸運にもロドニックには子供がおらず、どうやらこの先もそれを望めないらしかった。
 男はたった十四の少年を手元に招きいれ、事業経営の中枢に参画させた。
「――二年。二年だ。資産を倍に増やしてみせろ。そうすればおまえを正式に養子に迎える」
 その言葉を男の口から引き出した瞬間、すべては手に入れられたも同然だった。
 周囲が驚く早さで知識を吸収し、一年半で約束の計画を成し遂げた。更に、三年目には資産を三倍にした。
 なんといっても子供にすぎない彼は、身代わりとなる大人を実にうまく操ったのだ。
 厳重な法令の隙間を見い出しては、役人を敵にまわす取引を繰り返し、その裏で巧妙な贈賄を行い、貪欲な彼らを手なずける。
 数知れない商売敵を叩き潰し、敗者に絶望を与えながら、行く道を阻むものは容赦なく切り捨てていった。
 彼には確かに、格別に秀でた商才が備わっていた。
 ロドニックは年端も行かないその小賢しい少年に、自分と同じ哲学を見出し、狂喜していた。
「後継者はおまえしかいない」
 そうやってあっけなく、十六歳にして彼は……、セディックは自分の舞台を手に入れたのだ。



 富と権力は、この物欲にまみれた世界で絶対的な価値をもつ。
 それを手にしたとき、まわりの人間の態度は白々しいほど反転し、かつて自分を貶めた人間でさえ、手を揉みながら擦り寄ってきた。
 虚飾に満ちた栄光は、たとえ世間がどう評価しようとも、彼が自分でつかみ取った勝利に違いなかった。
 けれど、馬鹿馬鹿しいという思いも常に心の片隅にあった。
 拭いきれないその不快感を打ち消すように、あえて”出る杭”となって敵を探した。
 わざと敵を増やし、それを片っ端から叩き潰す。留めをさす瞬間だけはいつも爽快だったのだ。 
 ファルデローの悪評は、アラトリムだけにおさまらず、瞬く間に近隣の都市にまで広がってゆく。
 どこまでも手を汚し、手段を選ばずに、ただファルデロー家の権勢を増大させることだけを考えて、彼は過激な活動を繰り返す。
 そうしてあっけなく、十年の時が過ぎ。
 老いた義父の代わりに、二十五にして彼は既に実質的な当主の座に居座っていた。
 ファルデローの全てを生かすも殺すも、いまやセディックの意思次第となっていたのだ。
 


 そんな時、既に第一線から退いていた義父ロドニックは、突然妻を娶りたいと言い出した。
 寝耳に水だった。
 年老いても変わらず女遊びは激しかったが、『結婚』などという言葉は口にしたこともない男だったのだ。
 しかも話によると、相手は落ちぶれた貴族の娘だという。
 親子以上に歳の離れているという少女を、彼は異常な執着でもって自分のものにしようとしていた。
 気がふれたような義父の様子に、内心眉をひそめつつも、セディックにとってどうでもいいことに違いなかった。
 事業の邪魔をしないのであれば、勝手にするがいい。
 年若い娘だろうと、老いた老婆だろうと、どのような女がやって来ようと、まったくもって彼の関心事ではない。
 ただ……、相続問題がややこしくなるのだけはごめんだ。
 今や現存するファルデローの財産は、そのほとんどがセディックの生み出したものだった。
 老いぼれたロドニックが、妻の甘言に惑わされて馬鹿げた遺言を残すようなことがあってはたまらない。
 念には念を入れ、その相手の女を調べておく必要があった。



 ひそかな調査の結果、セディックは思いがけず疑惑を抱くことになる。
 ロドニックの手の込みようは異常だった。
 何年も前から根回しをし、あらゆる方向から相手の少女を追いつめるように仕掛けてあった。
 巧妙に破産へと導かれ、多重債務を背負わされたらしい旧家の一人娘。
 ロドニックの綿密な計画に疑いを抱くこともなく、全てが仕組まれた罠だとも気付かず、娘は言われるままにソユーブの譲渡契約書、そして婚約証書ににサインをしたという。
 義父の、その婚姻に対する執着は、とにかく度を越していた。
 本来的に強欲な彼の性質を思量してもなお、ひどい違和感を感じさせるほどであった。
 しかしセディックは、そのソユーブという土地にも、掘り出した発掘品のような『チェイリード』という家名にも、少しも価値も見出せずにいた。
 どうにも煮え切らない、義父への疑惑だけが深まってゆく。
 ただ貴族の称号を手に入れるためだけに、果たしてそのような回りくどい罠が必要だろうか。
 義父がその辺境の土地に、そして齢十六の少女に固執する真の理由を、彼は当初まったく想像さえしなかった。



 ロドニックが相手のもとへ正式な求婚へ赴いたとき、セディックも同行していた。
 北の国境付近の、寂しい荒野。
 その名をソユーブという。
 ひどい片田舎の荘園で、確かにのどかで慎ましやかな美しさはあれども、さほど金になりそうなものがあるようにはとても思えなかった。
 自然豊かで素朴な景色は、見様によっては心休まるものがあるのかもしれないが、商業的にめぼしいものではありえない。
 雄大な薬草畑と、歴史を感じさせる大仰に古めかしい屋敷。
 どこかで見た絵画のような独特の風景には、見知らぬ国へ来たかのような錯覚を覚えることはあったが、ただそれだけだ。
 彼はなお、義父の真意をはかりかねていた。
 ――――こんな寂れた土地に、何の価値がある?
 いぶかしい思いを深めながら、それでもセディックは何かを見極めようとしていた。
 何か重要なものを見過ごしてはいないかと、周囲の景色を注意深く観察し続ける。
 そんなふうに、屋敷前の前庭で、彼がしきりに土地の様子をうかがっていた時――。
 ふと、人の視線を感じて顔をあげた。
 古い石造りの建物の二階の部屋に、女……、いや、少女がいた。
 窓ガラスの向こうから、こちらを見下ろしているのは鳶色の大きな目。
 視線がぶつかった瞬間。
 その色は一瞬で脅えにかわり、少女は逃げるように部屋の奥に身を隠した。
 ほんの刹那のことだった。
 都会の華やかさとは無縁の娘。
 洗練されたアラトリムの女に比べれば、随分と地味な印象を受ける。
 容貌についても、その時の彼の目からは、これといって特別取り立てるようなもがあるようには見えなかった。
 まず感じたのは、純粋な驚きだった。
 あれが、あの年若い少女が、義父が躍起になって手に入れようとした女なのかと。
 あの、あんな未熟ささえ感じさせる娘が……。
 拍子抜けするような気分を味わいながらも、他方で彼は不可解な感情を知ることになる。
 その時の光景は、自身が思っていた以上にセディックに強烈な印象を与えていた。
 時代に取り残されたような場所の、骨董品のような屋敷の窓の奥は、まるで別世界のようだった。
 汚れを知らず、神聖なほどに澄み切った世界。
 その静かな透明感は、こちらを見下ろしていた瞳と同じように。
 あまりに遠い。
 薄汚いものにまみれた”成り上がり者”には、どこまでも無縁で相容れない、まさに対極にでも位置するようなものなのだろう。
 セディックはなお眉をひそめた。
 ――――義父は何を考えている?
 年端も行かないあんな女を、いったいどうするつもりなのか。
 義父がどんなに狂い、おかしなことにのめりこもうと、彼には関係なかった。
 ファルデローの財産が失われないのなら、それでいい。
 ――――しかし。


 その後一度だけ、彼は義父に無断で、単独でソユーブへ足を運んだ。
 どうやら何か秘密があるらしい『チェイリード家』。
 そのことがどうにも気にかかる。
 旧家の秘密について多少なりとも調査を進めていたセディックは、義父の目を盗んで密かに真相を把握しておこうと目論んでいた。
 ファルデローから使用人が送り込まれ、名実共に所有者が入れ替わろうとしているその古い屋敷に、彼は無遠慮に足を踏み入れる。
 その時、屋敷内のどこにも、例の娘の姿は見えなかった。
 しかし何らかの収穫を得ずして戻るわけにはいかない。
 義父の真意に繋がる手がかりを、どのように些細なものでも捉えておこうと、屋敷内部やその周囲の土地をしらみつぶしに調べることにした。
 そして小高い丘の上から一面に広がる薬草畑を見た時……、彼は息を飲んだ。
 既に薬草の収穫を終え、侘しい色に埋め尽くされた、秋のソユーブ。
 その乾いた畑の真ん中に、少女が一人立ち尽くしていた。
 解いたままの長い栗色の髪が、ゆるやかに吹き付ける風の中に流れている。
 鮮やかな色を失ってしまった草木が同じ風によってざわめく中、少女は力なく、悄然と立ち尽くしていた。
 それ自体は別段、意外なものでもなんでもなかった。
 屋敷の使用人から状況は聞いていたし、常識から考えても、親子以上に歳の離れた男に嫁ぐ少女の気持ちが、晴れやかであるはずがない。
 彼の目の前にあるのはただ、不運な少女が気力を失っているだけの哀れな光景。
 ただ、それだけだ。
 やはり自分にはなんの関係もないことだと、言い聞かせるように自己確認をする。
 だが、そのまま立ち去ろうとしたセディックの目を、信じがたい”幻”が奪った。
 少女を遠目に見ていた彼の周囲に、ほんの一瞬強い風が吹き抜けた。
 そして……、ありえない風景が現われたのだ。
 ――――青い花。
 一面に埋め尽くされた、切ないほどに優しい色の花。
 さきほどまで枯れ木の色をしていた薬草畑が、瞬間的に美しい色に染まり、立ち尽くす少女を包み込むように満ち溢れた。
 ほんの一瞬のことだった。
 変わりなく立ち尽くす少女に、それが見えていたとは思えない。
 瞬きをした次の瞬間にはもう、すっかり味気ない休閑期の農地の風景に戻っていた。
 青い色など跡形もなく消え去っている。
 セディックは何度も目をしばたかせながら、瞼に焼きついた一瞬の幻影に戸惑っていた。
 長い間、その場から動くことができなかった。 



 強まりゆく彼の中の動揺と同時進行で、あきらかに狂いはじめていく義父。
 妄想めいたことを口走るようになり、夜中に古美術商から買った刀剣を振り回して暴れるようなことが幾度となくあった。
 厳重な口止めをすることで世間から隠し続けていたことだが、その当時、彼は何人もの若いメイドに大怪我を負わせたりもしていた。
 常人の理解を超えたロドニックの振る舞いは、日に日に度を増していく。
 例の少女との婚姻の日が近付くほどに、彼の中に潜むおぞましい気配は表立って異変を見せ付けた。
 ――――そして……。
 義父の、狂気に満ちた信じがたい企みを。
 ついに知ってしまった瞬間――。
 セディックの中に、感じたことも無い衝動が沸き起こったのだ。
 ロドニックの書斎に隠されていた、古い”呪術”に関する書物。
 女の肢体を切り裂いて、その肉と血を貪る、想像を絶するような儀式の図。
 『チェイリード家』という、闇に通ずる特殊な一族に流れる血脈の秘密……。
 まさかそんな馬鹿げたことが、と何度も考え直す。しかし調査を進めるうちに、背筋が凍りつく感覚が常に彼に張り付くようになった。
 義父がおかしな組織にのめりこみ、狂ったように何かを崇めていることは、以前から薄々感づいていた。
 気付いていたが、どうでもいいことだと判断していた。
 この先も、おそらくセディックには関係がないはずだった。
 だが……、そのためにあの少女を手に入れるのか。
 目を覆うようなおぞましい儀式のために、あの何も知らない娘を犠牲にするのか。
 古い書物に描かれた禍々しい絵柄と、狂気を孕んだ獣のような義父の目、そして、何の疑いも抱かず婚姻を承諾したあの少女……。
 それらを頭に思い浮かべた時、セディックはなぜか、どうしようもなく胸が押し潰されるような思いを味わった。
 窓の向こうから、脅えた目でこちらを見ていた、やけに頼りなげな姿が頭をちらついた。
 あの目が、あの姿が、なぜか心に棲みついて離れなくなっていた。
 更に、丘の上から見た不可思議な幻影――。
 それは彼の哲学から離れ、不可解で、理の無い、説明しがたい衝動だった。
 明確なことは、ただ一つ。
 自分がここで決断をしなければ、行動を起こさなければ、あの娘は義父の狂った欲望の餌食になるのだろう。抵抗するすべなど知らず、ただ、なされるがままに……。
 そう、他ならぬ自分だけが義父の凶行を止めることができる。
 そのことだけが歴然とした事実だった。
 だが、冷静に考えなおしたとき、あまりに馬鹿げた己の思考に愕然とした。
 ――――なぜ、自分がそんなことをしなければならない?
 目を背け、知らぬふりを貫けばいい。
 どうせ義父の余命は長くはあるまい。余計なことに関わらなければ、このままファルデローの財産は予定通り全て自分名義に書き換わるのだ。
 不運に見舞われた田舎娘がどうなろうと、知ったことではない。
 しかし……、どうしても忘れ去ることができなかった。
 忘れようとすればするほどに、あの少女を襲うであろう、おぞましい光景ばかりが繰り返し頭に浮かぶ。
 意志に反し、心の奥底から押し上げてくるのは、理解に苦しむ感情の渦。 
 まるでなにかの呪いのように、それはやがて夢の中にまで現われ、そして――――。
 彼の中で、ついに何かがはじけたのだ。



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