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チェイリードの娘

番外編 ―後編― 

 ファルデロー家の本邸にある、彼の自室の窓からは、自身が作らせた悪趣味な庭が見えた。
 自嘲的な思いをなすりつけるかのように、彼は己の屋敷を、姿かたちを、馬鹿みたいに虚飾で彩っていた。
 自分たちが何より洗練されていると信じきっている、貴族の嘲笑を聞くのが面白かった。
 身のほど知らずにゴテゴテと飾り立てられた屋敷の庭の、その片隅で細々と。 少女は小さな花壇をしつらえて、故郷から持ち込んだと思われる薬草を日々育てていた。
 そこにいるときだけは、その横顔も穏やかで、愛しそうな目をその植物たちに向けている。
 遠く離れた故郷を思い出しているのだろう。
 彼の部屋から、いつもその姿が目に入った。
 彼女を目にするたびに、込み上げてくるのは、意味のわからない濁った感情だった。
 憎しみと苛立ちと、そして……、どうしようもない恋しさと。
 十も年下の少女に、どうかしていると思った。
 この少女は実は魔女で、自分に不可解な呪いをかけているのではないか、とさえ。
 あの鳶色の目が涙で濡れて、絶望に染まり行く様を見るたびに、ゾクリとした喜びを覚えた。
 そして同時に、胸が激しくきしむのを感じていた。
 めちゃくちゃに踏みにじってしまいたいという衝動と、決して汚してはならないという強烈な思想。
 その二つは延々と彼の中でせめぎあい、決着がつくことは無かった。
 おかしな苦悩をもたらし、彼の進む道を狂わせた少女が、憎くもあったのだ。
 だから八つ当たりまがいに、顔を合わせるたびに意味なく傷つけた。
 なんの利益にもならない己の言動に戸惑いながら、心の隅で確かに彼女を恨みながら、義父とは違う種類の狂気に冒されていった。
 ――――もう、どうとでもなればいい。
 最初のうちは足掻いていたが、やがて悟るしかなかった。この愚かな情動には、どうやっても逆らうことなどできないのだと。
 知らないうちに歯車は回り始めていた。 
 止める術を知らないのだから、今更後戻りなどできないのだから、何が何でも貫き通すしかなかった。
 彼女に害をなす存在は片っ端から葬ってやる。
 何を犠牲にしても成し遂げる。
 たとえ、少女本人を傷つけたとしても……。
 それだけが唯一の道だった。
 禁忌を犯した男に、救いをもたらす唯一つの。


 生まれた瞬間から失うものなどなかった人間が、たった一度だけ、神にも縋りたい思いを味わった。
 それは同時に、これまで崇めてきた価値観を否定し、自身の滅亡さえ意味するものであったけれど。
 それでも構わないと、本気でそんな愚かしいことを思ったのだ。
 そして――――。


 都会の街から隔絶されたような、北の大地。
 更に北方にそびえる高山の一つ、トゥザルクという霊峰には、文明から取り残された呪術師の集落があった。
 そのずっと向こう側から流れてくる澄んだ風が、絶えずこのソユーブに吹き抜ける。
 丈の短い草は揺れ、やけに広い空に浮かぶ薄い雲は、滑らかに流れ続けていた。
 この土地に移り住んで間もない頃、彼女は言った。
「ここに吹く風は、この地に生きる人間を守ってくれているのよ」、と。
 また”言い伝え”か、数えていたらキリが無いないなと、彼は鼻で笑った。
 いっそ書き連ねて本でも出版したら観光客が押し寄せるのではないか、などと投げやりな冗談を言うと、彼女は苦笑していた。
 ただの言い伝えではない、本当のことなのだと、強く主張しながら。
 なるほど、それはおそらくは、本当に真実なのだろう。
 このソユーブという土地には確かに、何か常識的な理解の域を超えるものが存在する。
 かつて一族が保有していた”呪術”などとは、もっと別のものだ。
 決して不快なものではなく、今の彼には不思議と自然に受け入れられるものであった。
 春の匂いが色濃くなった緩やかな風を受けながら、セディックは目指す先へと歩いてゆく。
 長い間地表を隠していた雪は、少し前に溶けたばかりだ。
 今はまだ若い緑の葉しか見えない、広大な薬草畑。
 向かう視線の先、温かな陽だまりの中に、一人の女の姿があった。
 畑の片隅で、なにやら嬉しそうに地面を見つめている、栗色の髪の女。
 ソユーブに来てすぐの秋に、彼女が植えた新しい種子。
 雪解けとともに芽吹いたその花の、小さな白い蕾が、どうやら開花の瞬間を目前に控えているようであった。
 目を輝かせてそれを見つめる表情は、アラトリムの屋敷で花壇を見つめていた時とは対照的に、豊かな生気に満ち溢れている。
 その姿を確認したことで、少し前まで不安と焦燥感に覆われていたセディックの心は、まるで暗雲が引き上げるように晴れ渡った。
 彼が間近に近付くより早く。
 ヒュウっと少し強い風が大気を震わせ、白い帽子が舞い上がった。
 ――あ、と軽く声をあげ、彼女は手を伸ばす。
 風に乗り、目の前まで飛んできたそれを、セディックは片手で捕らえていた。
 帽子を追って、女はこちらを振り返る。
 風に乱れる長い髪を抑えながら、驚きと喜びの入り混じった瞳で彼を見た。
「――セディック!」
 若干紅潮した顔で、真っ直ぐに駆け寄ってくる。
「どうしたの? 帰りは二日後のはずでしょう?」
「……早く切り上げた。そのくらいの融通はきく」
 指にひっかけた白い帽子を手の上で弄びながら、セディックは憮然と答えた。
「でも……」
 喜色に輝いていた顔が、何かを思い出したようにふっと曇る。
「大公夫人の御用だったのでしょう? 引き受けたお仕事なら、きちんと最後まで済ませないと……」
 ソニエは心配げに言った。
「人使いの荒い人なんだ。いちいち言うことを聞いていたら、いつ戻れるかわかったものじゃない」
 ソユーブへ移り住んだあと、かの夫人は何度かセディックに仕事の依頼を持ち込んだ。
 司法庁との裏取引で、アラトリムの産業界を追放された身なのだから、もちろん表立った仕事ではない。
 かつて役人の目を盗むために調べ尽くした法律や、業界に張り巡らせた人脈に関する知識が、どうやら思わぬ形で役に立っているらしい。
 正直なところ、報酬の交渉さえ意のままにならない仕事など好んで引き受けたくはないのだが、なかなかそういうわけにもいかなかった。
 色々と弱味があるせいで、アラトリム大公家の老婦人にはなにかと頭が上がらない。
 子供の頃から、愚鈍な旦那の方とは違って、彼の表面的な仮面をあっさり見破る女性だった。
 ゆえにあまり近付かないほうが身のためだと判断し、長らく顔も合わせないようにしていたのだが。
 例の一件に関し、セディックが何より欲した知識と力を、よりにもよってその夫人が持っていたのだ。彼女を頼る以外に、方法はなかった。
「だけど……」
 しぶとく渋い表情を浮かべるソニエに、彼は軽く意地悪い顔で問う。
「なんだ、遅く帰ったほうがよかったのか?」
 とたんに彼女は、生真面目な顔で首を横に振った。
「違うわよ。わたしなら大丈夫だったのに、って、そう言いたかったの。だって、ただの風邪だったんだもの……」
「だが、あれから三日、熱が下がらなかったんだろう。おまえのよこした手紙は嘘ばかりで信用できない」
 セディックの言葉に、ソニエは一瞬言葉をつまらせる。
 そして至極苦い笑みを浮かべた。
「……レオンなのね。黙っていてって頼んだのに」
「忠実な執事を甘くみないことだ」
 若干横柄な口調で返しながら、彼は自分を見上げてくる女の瞳を見ていた。
 この娘は、知らないのだろうか。
 彼のもっとも恐れるもの、この世で唯一失うことに怯えているもの、それを握っているのが他ならぬ彼女自身なのだと……。いったいどこまで理解しているだろう。
 まっすぐに彼を見る、その鳶色の瞳が、もはや恐怖や憎悪に染まることは無い。
 決して手に入れるはずのなかったものが、手にいれてはならなかったものが、今セディックの腕の中にあった。
 汚れた手で触れることに怯え、自分のものにすることを恐れ、一度は無様に逃げ出そうとさえした。
 けれど結局抗うことなどできず、いざそれが手中に納まったとき、彼は眩暈がするほどの恍惚感に溺れた。
 世界が変わってしまうほどの衝撃を味わったのだ。
 幸福という言葉の意味すら知らずに生きてきたのだと、初めて気付いた。
 今まで鼻先で失笑してきた、愚か者だと分類してきた人物の顔が、いくつも頭に浮かぶ。
 ――――ああ、そういうことか。
 こうやって人は”腑抜け”になっていくのだろう。
 ぼんやりとそんなことを思い、どこかで自分を冷たく観察しながら、それでも心は馬鹿みたいに満たされていた。
 すっかり浄化されたように、穏やかな熱情となって心を満たすこの想い。
 ときに苦しく、それでも決して手放すことなどできはしないのだろう。  



 手の上で弄んでいた帽子を、目の前に立つ女の頭にフワリと乗せる。
 柔らかい髪を整えてやり、微かにその頬の触れた時、ソニエは目を細めた。
 彼の手をとり、自分の両手で包みこむ。
「相変わらず冷たい手……。でも、とても好きよ」
 愛しそうな表情で彼女は話した。
「おかえりなさい、セディック。本当はずっと……、早く会いたいって思っていたわ」
「…………」
 柔らかなぬくもりに溶けゆくものを感じながら、彼はついその白い手を強く握り返していた。
 それに答えるように、ソニエは微笑みを返す。
 彼女相手には、どうしたって他の女に浴びせかけたような甘ったるい言葉がうまく出てこない。
 だが、自分だけを映すその大きな瞳を見つめながら、知らずに彼も穏やかに笑っていたのだろう。
 いまだに幼さを残す彼女の頬が淡く染まり、この上なく幸せそうな表情を浮かべていた。
 無意識に引き寄せた細い体が、胸の中におとなしく身を預けてくる。
 それだけで満たされた。
「――もうすぐね。春になって温かくなったら、みんなでここでお昼を食べましょう。レオンやメグ、屋敷の皆も午後の仕事はお休みにして、リックの兄弟たちも呼んで……、きっと楽しいわね」



 あの幸福な夢を見た朝、彼の中に根を張っていた頑なな思想は崩れ去っていた。
 腕の中で眠る女の顔に、気が遠くなるほどの愛しさを覚えた。
 夢の中、白い花の咲き乱れる景色の中で、自分に向かって微笑んでいたその顔を、二度と涙になど曇らせたくはなかった。
 残念ながら……、世界が変わる衝撃のあとも、彼は博愛思想というものに縁がない。
 やはり思考は利己的なままで、ただ、一人の人間が幸せであればそれでいい。
 今はそれだけが全てで、彼の生きる意味となっていた。





 ― FIN ―


2007.9.23. from sayumi


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