この町で 1
アオイはあたしの太陽だった。
空の匂いと透明な光が満ちたこの町で。
新しい世界の色を教えてくれたのは、アオイだった。
夢中でしがみついた広い背中と、あたしを救い出してくれた温かな手。
開いた扉の向こう側、たとえ遠く離れた場所へ続いていても……。
あたしはずっと忘れない――。
◇
この世には抗いがたい運命というものがあるけれど。
――これもその”運命”なのかな?
田舎育ちの人間が都会に憧れるのは、どうにも避けられないことらしい。
とくに青春真っ只中の高校生ともなると、ほぼ無条件といっていい。
まるで川魚が大海を夢見るかのように、誰もが都会という未知の世界に焦がれている。
「見てこの白いミュール、超かわいい! すっごい欲しい!」
ショートカットの快活な女子高生が声をあげた。
手元には、いわゆるティーンズ向けのファッション雑誌がある。
「あー、唯に合いそう。足細いし高めのヒール似合うよね」
ズズズッと。
紙パックのフルーツ牛乳をすすりながら、あたしはお人形のように華奢なモデルさんが履いているキラキラのラメラメミュールに目を向けていた。
こういうファッション雑誌はまあ、テレビと一緒で世間の流行を取り入れるためのバイブルのようなものだ。
綺麗なモデルの子が着てるからこそ可愛く見えるんだろうけど、わかっていても、ついつい同じものが欲しくなる。
個性が無くなりそうとか、商戦に乗せらてるよな、とか、思わないではないのだけれど。十代の女の子にはなかなか、その圧倒的な魅力に抗うことは難しいのだ。
「いいなぁ……東京のコは。お店もたくさんあるし、街もオシャレだし……」
少し遅れてお弁当を食べ終えた女の子が、うっとり夢見るように話す。
ほわわんと、瞳を上に向けるおっとり少女。さらさらロングヘアーの彼女の名前は、池内春香(いけうちはるか)。
春香の頭の中はきっと、砂糖でできたおとぎの国だ。
あたしやもう一人の市橋唯(いちはしゆい)とは、少しばかり毛色の違う性格の持ち主である。
サッパリ姉御肌で言いたいこともはっきり話すタイプの唯と、少し引っ込み思案だけれど誰にでも思いやりのある春香。
二人とも、中学校以来のあたしの大事な親友だ。
昼休みに毎日机をつきあわせては、三人で飽きずに無駄話に花を咲かせている。
退屈な授業中は睡魔との戦いなので、この時間と放課後だけが平日における一番楽しい時間だった。
「そういえば唯のお姉さん、東京の大学行ってるんだよね?」
ふと思いついてたずねると、唯ではなく春香の目がキラキラした。
「そうそう! そうだったよね唯ちゃん! ……どう? やっぱり東京は違うって言ってた?」
「んー」
唯はポリポリと、ボブに近いショートヘアの頭を掻いた。人のことは言えないけれど、あまり色気のある仕草とは言えない。
「まあねぇ。東京行ったとたん、すっかり垢抜けちゃって。やっぱ都会にいると洗練されるのかなぁ。そういうのはあるかもねぇ」
やる気のなさそうな答えだけど、唯の東京への関心も、お姉さんの影響でそれなりに高まってはいるらしい。
あたしたちの会話には最近、なにかというと『東京』という言葉が頻繁に登場する。受験の年が近付くにつれ、唯も春香も東京の話題に敏感になっているようだ。
特に春香は、東京に対して尋常でないほど憧れを抱いている。
「あぁ、あたしもあっちの大学受けたいよぉ」
ふるふると頭を震わせながら、悔しそうに嘆く春香。彼女の家は結構厳しい家柄で、お父さんが長女の春香を溺愛してるものだから、東京で一人暮らしなんて絶対に許してもらえないんだろう。
あたしたちはまだ高校二年生になって数ヶ月だ。
進路はぼちぼち考え始めてもいいかなぁ、くらいのノリでしかない。
まったく、世間で言う受験戦争だなんだの時代に、随分とのんきなものだと思う。
というのも、ここいらでは受験生といっても、塾や予備校に通っている人間はほんの一握りしかいないのだ。
それこそ東京や大阪方面の大学に進学する人くらいだろう。
地元で就職したり、家業を継いだりする人も多い中、都会に比べるとそういったことにまだ無頓着な部分が多い。
「ナツは? ナツんとこは、東京受験許してもらえるの?」
唯に話をふられ、あたしはぱっと顔をあげた。
「あ……、うん。許してはくれると思うけど。でもあたしは……」
言いかけたところで余計な邪魔が入った。
「はっ。おまえらみたいな芋娘、どこ出ていっても変わんねーよ。県民の恥さらしみたいなマネしてくれるなよ」
唐突に話に絡んできたのは、クラス一デリカシーの無い男。通称、キング・オブ・ザ・ノンデリカシー。略して『ノンデリ男』。
ちなみに名付け親は唯だったはず。
あたしたちは一斉にげんなりと顔をしかめた。
「……竹井。勝手に会話に入ってこないでよ。図々しい」
「そんなだからいつまでたってもモテないのよ、あんたは」
連携プレーで迎撃するのは、あたしと唯の二人組だ。
春香は少し苦笑いを浮かべて、でも止めに入ることはなく戦況を見守っている。
唯は立ち上がって竹井の正面に立ちはだかった。
彼女のほうが身長が高いので、あきらかに竹井のほうが不利のように見える。
「まったく、中学のときから進歩がないんだから。つーかあんた、修学旅行の写真集計サボったでしょ。
最悪っ。なんで同じクラスなわけ? なんで同じ班なわけ? なんで出席番号同じなわけぇ? ……もう、マジうっざいからどっかに転校してくんない?」
犬のフンでも踏んだような顔で、唯は言いきった。
竹井とは中学一年から同じクラス、しかもなぜか出席番号が隣同士という、なにかと因縁のある唯。彼女は、あたし以上にこの竹井に容赦がない。
「し、知るかよ。ウザイのはこっちだっつーの。嫌ならてめえが転校しろや……」
竹井の語調があっけなく弱々しくなっている。
哀れノンデリ男、竹井裕輔。いつも懲りずに絡んでくるくせに、彼はどうにも根性が無い。唯に気迫負けして、いつも悔しそうな顔で遠ざかっていくのだ。
今日も例に漏れず、じっとりとした目つきで自分の席に戻っていく。
勝てないなら余計なちょっかい出さなきゃいいのに……。
竹井はあたし達三人、というより『唯がいる時』には必ずといっていいほど悪態をつきにやってくるのだ。
わかりやすい。そして多少気の毒でもある。
唯はフンッと鼻をならして、まるで害虫を蹴散らした後のような充足感を味わっている。
あたしと春香は顔を見合わせて、苦笑を交わしあった。
「……で、話に戻るけど、ナツ、あんたは東京受験もありなの?」
唯は、掃除が終わったあとみたいに手をパンパン叩いていた。ついてもない埃を払いながら席に戻ってくる。
そのちょっとババくさい仕草を見ながら、あたしは答えた。
「あたしね。あたしは、東京もいいけど、この町だっていいなって思うの。うん、あたしはここ、好きだなぁ……」
あたしの返答に、唯と春香はとくに意外というようでもなく、むしろ納得したような顔をする。
「ナっちゃんはちっちゃいころ東京にいたんでしょ? 一度でも都会ッ子の経験あるからそういう風に感じるのかも」
「そうそう。生まれた時からこのド田舎だと、いい加減外の世界を見たくなるって」
「そういうもんなの?」
こういうことに関しては、あたしの価値観は唯や春香と少し違っているらしい。
確かにあたしは、小学校低学年まで東京に住んでいた。そのことが関係しているのだと、唯と春香は思ってるようだけど……。
――ズズズズッ。
紙パックから最後の一滴を搾り取るように、フルーツ牛乳のストローを吸い上げた。
あたしはこの町、八重里町(やえのさとちょう)が好きだ。
東京に比べると確かに不便だけど、この町以上に安心できる場所なんてありえない。あえて出て行きたいとも、外の世界が見たいとも思わない。
こういう感覚は、”郷土愛”っていうのとも少し違う気がしている。
あたしがこの町を好きだと思う一番の理由は、過去に東京に住んでいた経験があるからではなく。
それはきっと――。
「おーい、ナツ!」
唐突に教室内に響き渡る大きな声。
どきっとして振り返ると、後ろの戸口から、見慣れた顔の男子生徒が手を振っていた。
一瞬シンと静まり返った教室で、みんなが一斉に声の主に注目している。
しかしそんなものにも無頓着な様子で、彼はズカズカと教室の中へ入りこんできた。まっすぐに、あたしたちの机の前までやってくる。
そして手の平をぴらぴらと差し出すようにしながら、あたしに言った。
「英和もってる? 英和貸して、英和」
これは別に珍しい光景ではないので、少しずつ教室にざわめきが戻ってくる。
それでも一部の人間は、こちらにチラチラと視線を向けていた。
「また? わざわざ二年の教室にまで借りにくることないじゃん……」
あたしのほうは、実はこういう注目の浴び方が少し苦手だ。
だから少し顔をしかめて彼の顔を見上げる。
「なんで。おまえに借りた方が一番効率的だろ。家で返せばすむことだし、おまえも帰りの荷物軽くなるべ?」
人の苦悩も知らず、彼は淡々と話す。
あたしは溜息まじりに、机の中から分厚い英和辞典を取り出した。
「……涎(よだれ)つけないでよね。枕じゃないんだから」
「ラジャ〜」
にかっと笑って、彼はあたしから受け取った辞書を肩の上に抱えた。
光に透き通る、やや明るい色の髪。
健康的に日焼けした肌と、長く伸びた手足。
そして妙に人懐こい笑顔。
教室に入ってきたのが他の人間なら、ここまで妙な注目は浴びなかっただろう。
――広川葵(ひろかわあおい)。
この県立大山手高校の三年生。
あたし、広川奈津(ひろかわなつ)の義理の兄、だ。
辞書を手に入れてもすぐには立ち去らず、アオイはなんだか物ほしそうな目で、あたしたちの机の上をひょいっとのぞきこんでいる。
物色しているのだ……。あわよくば目ぼしい食べ物がないかどうかと。
過去にも何度かお昼時にやってきては、唯のサンドイッチや春香のプリンを頂戴したりしている。
(ほんと、恥ずかしい奴だなぁ……)
でも残念でした。今日はもう、みんな食べ終わっちゃってる。
少しがっかりしたような顔で、食べ物をあきらめたらしいアオイは別のものに注目した。春香が手にしていた、さっきのファッション雑誌だ。
「なになに、なに見てんのー?」
開かれたままのページに彼は目ざとく反応する。
「おっ、これってモデルのRIHOちゃんでしょ? ちょっと俺にも見してよ!」
「え……あの……っ」
身を乗り出してのぞきこんだアオイの真横には、すれすれの位置に春香の顔がある。
(ちょっ、近い! 近すぎるって!)
(春香の顔、真っ赤になってんじゃん!)
色々なことに無自覚なのが、アオイの最大の問題点だ。
春香とあたしの焦りも知らず、春香の手にあった雑誌の誌面を嬉しそうにのぞきこんでいる。
その隣で春香は可哀想に、顔を見事に真っ赤にしてあたふたしていた。
数センチの距離だ。そんなに顔を近づけられたら、普通の女の子なら春香と同じ反応をするだろう。
「……ん?」
”RIHOちゃん”を嬉しそうに眺めていたアオイの目が、ふと誌面から上がる。
少し離れた場所からこちらをジトっとした目で見ている男子。その姿をとらえた。
「いよっ! 竹井酒店の馬鹿息子じゃねーか。おまえ、留年せずにちゃんと進級できてたんだなぁ!」
アオイはどこかの悪ガキみたいな顔で笑いながら、大きな声で叫ぶ。
「誰が馬鹿息子だ! 誰が留年だ! 誰が!!」
怒涛の勢いで突進してきて、竹井は猛烈に反論した。
その竹井の頭をひょいっと腕の中に抱えて、アオイはグリグリと拳をめり込ませている。
「いででででっ! 放せよシスコン!」
「おっ、なんだお前、また縮んだんじゃねーの?」
アオイは竹井の頭をいじくりながら、やけに楽しそうだ。
しかし竹井の方は赤い子鬼のような顔をして抵抗している。
「縮んでねーー! 順調に伸び続けてんだよ! つうか遠まわしに自分が伸びたって自慢したいだけだろあんた!」
「あ、わかる?」
アオイは悪びれもせずにケラケラと笑い、あたしたちは呆れてその光景を見ていた。
竹井を巻きこんだあたりで、またもや教室中が注目している。
アオイは目立つのだ。
あたしから借りた辞書を片手に、笑いながら颯爽と教室を出て行くまで。きっといくつもの女子の視線が彼を追っていた。
「広川先輩やっぱりカッコイイよね。気さくで感じいいし。あんなお兄さん、マジうらやましい」
唯の言葉に、春香も激しく頷いている。
二人とも、過去に色々食料をかっさらわれているのに、心が広い……。
あたしは雑誌の中の”RIHOちゃん”を食い入るほど見ながら、「そう?」と適当な返事を返す。
唯たちの会話内容よりも、その美少女モデルのほうに意識が囚われていた。
(こういうのが、アオイのタイプなんだ……)
華奢で足が長くて、顔がちっちゃくて、まるで神様に特別愛されて生まれてきたみたいな女の子。こんな可愛い子が、この世の中には案外たくさんいるものだから、まったくやってられない。
アオイの前にもいつか、こんな可愛い子が現われるのだろうか。
家族より大切なものを見つけて、あの家を離れていくのだろうか。
「…………」
あたしは急に、この”RIHOちゃん”が憎々しく思えてきた。
「……ちょっとナツ聞いてる? ……ナツ、顔が般若みたいになってるよ?」
「えっ!」
唯に不審そうに顔をのぞきこまれ、ようやく我に帰った。
いけないいけない。般若は可愛くない。
「で、えっと、なんの話?」
「だからぁー、広川先輩といつも一緒にいる友達のひと? あの人もカッコいいねって話」
RIHOちゃんに無意味な敵意を燃やしていた間に、話はえらく進展していたらしい。
「ああ、高梨先輩ね。うん。あの人は落ち着いてるし、優しそうだし、いい感じだね」
あたしは雑誌をパタリと閉じて、その上で頬杖をついた。
雑誌のモデルに敵意を燃やしたところで何の意味もないのに……、しょうもないことを考えてしまった。
最近つまらないことにも敏感になりすぎている気がして、自分でもちょっと嫌になる。
アオイが絡むだけで、どうしてこんなふうに焦ったような気持ちが前に出てくるんだろう。
そういえば、いつからだっただろう。
――――あたしがこの町を好きな理由。
それは、馬鹿みたいに単純なことだ。
アオイがいるこの町が、アオイとすごしたこの町が、あたしは愛しくてたまらない。