ナ ツ ア オ イ
この町で 2
北アルプスをのぞむ山間の町、『八重里町(やえのさとちょう)』。
町を東西に横切る『山江川(やまえがわ)』は川魚が集う清流で、釣りの穴場として一部の通な愛好家の間では注目を浴びたりしている。
坂が多くて、建物が少ない。畑や水田の間を縫うように、間隔をあけていくつかの小さな住宅街が点在している。
コンクリートで舗装された道はその住宅の集まる周辺だけで、あとは土とジャリの混じった田舎道ばかりだ。
交通はといえば、単線電車しか通ってなくて、八重里駅は夜には無人になってしまう。
古びた町役場の前に止まるバスは、一時間に一本。もちろん昼間のみ。
小学校は低学年と高学年、あわせて二クラスしかなく、中学校になっても、一学年たったの二クラスだ。
買い物をするとなると、農協がやってる朝市と、最近駅前にできた『スーパーゆかり』に頼るしかない。コンビニすら無いのだ。
単線電車で三駅むこうの『大山手市(おおやまてし)』まで行けば、大型のショッピングモールや映画館があるけれど、この町だけはいつまでも時代から取り残されたような場所だった。
あたしとアオイが通う県立大山手高校は、ちょうどこの八重里町と大山手市の間にある。
学校までは自宅から、歩けば六十分、自転車なら三十分かかる。
自転車通学が基本で、雨の日は歩くか、一時間に一本しか来ないバスに乗るか、あるいは時々お母さんの車で送ってもらったりもする。
電車通学というものには縁が無く、”通勤ラッシュ”だとか”痴漢”だとか、テレビで見るだけでいまいち実感がわかなかった。そして”定期券”というものにはなぜか妙に憧れていたりする。
都会に比べると相当不便な生活かもしれないけど、空気や水は本当に綺麗だ。
やたらと台風の被害を受けやすい点が問題だけど、夏でも夜は冷房はほとんど必要ないし、平和な町だから犯罪もない。
そんなたくさんの要素も含めて、あたしはこの町を気に入っている。
今年も夏がやってくる。
白い太陽と、底なしの青空。
青くさい草木の薫りに、涼やかな清流の音。
川辺に浮かぶ蛍の光、夏の星座が一面に輝く夜空……。
この町の景色が一番輝く季節が近づいていた。
人通りのない乾いたあぜ道を歩きながら、東の空に浮かぶ一番星を見て、あたしは少し心が晴れやかになるのを感じた。
――よし、明日も晴れそう。
軽くなった足取りで、”診療所”へ続く緩やかな石の坂を登った。
短い坂の上では、少し錆び付いた粗末なアルミの看板が出迎えてくれる。
――『広川診療所』。
古い民家を改造したような、小さな建物がそこにある。
あたしは自分の家に入るような慣れた手つきで、少し建て付けの悪い引き戸を引いた。
ちょうどおばあさんが一人、出てくるところだった。
「おや、ナッちゃん。今日もお届けかい?」
背骨の曲がった小柄なおばあさんが、にこにこしている。
「こんにちは〜、玉井のおばあちゃん」
あたしは閉めかけていた扉をもう一度開けて、おばあちゃんの通る道をあけた。
傘立てに置いてあった杖を取って手渡す。
小さく曲がった体を支えるようにして、戸の外まで付き添った。
「下まで一緒に行こうか?」
「大丈夫だよ。いいから早く、その弁当届けておやりよ」
おばあちゃんは、あたしが脇に抱えた布の包みを見て笑う。
「先生、今日も楽しみに待っとるよ、ほれ早く」
「わかった。暗いから足元、気をつけてね」
「はいはい。いつもありがとねぇ」
この人は、顔なじみの患者さんだ。
玉井のおばあちゃんは町役場の近くの家で一人で住んでいて、高血圧の治療に、週に何度かこの診療所に通っている。
七十八歳にして現役の農業従事者で、時々取れたての新鮮野菜を分けてもらったりしている。
もちろん無農薬なので、格別に美味しい。
おばあちゃんが無事に坂を降りるのを見届けたあと、あたしは再び診療所の中に入った。
小さな待合室では、受付の仲野さんが棚の中のスリッパを整理しているところだった。
あたしが入口の引き戸を閉めると、仲野さんはスリッパ片手に振り返った。
ふくよかな中年女性の仲野さん。
パートでこの診療所の看護士兼受付を勤めてくれている。
「ナっちゃん、玉井のおばあちゃん大丈夫だった?」
「はい、しっかりした足取りで下まで降りていきましたよ」
脱いだ靴を下駄箱に入れながら、あたしは答える。
「ありがとうね。あのおばあちゃん、絶対に人の手を借りようとしないから。せめて昼間の明るい時間に来てくれたら、少しは帰りも安心なんだけど」
困ったような顔で軽く嘆息しながら、仲野さんは止まっていた手を再び動かす。
玉井のおばあちゃんは朝や昼間はほとんど畑で農作業をしている。だから、夕方しか診療所に来ないのだ。
「そうですね。あ、手伝いましょうか?」
「いいのいいの。もう終わりだから。それより、早く届けてあげてちょうだいな」
にっこりとウインクでもしそうな笑顔で、仲野さんは奥にある診察室を視線で指した。
廊下を進み、診察室の扉を軽くノックする。
「はーい」と間延びしたような返事が返ってきた。
ガラガラと戸を引いて、あたしはひょいと顔をのぞかせた。
「お父さん、お疲れ様! お弁当持ってきたよ。お母さんから!」
タータンチェックのハンカチで包んだお弁当箱を、目の高さまで持ち上げて見せる。
「おっ、ナツー! 助かるよ」
カルテの山に埋もれていた顔が、ぱっとこちらに向けられた。
骨太の顔立ちには不釣合いなほど、ちょっと子供みたいな、ものすごく嬉しそうな顔をしている。
週に二回の夜間診療の日、お父さんは心からお母さんの手作り弁当を楽しみにしているのだ。
お父さんは、あたしの手からお弁当を受け取ると、もう片方の手であたしの頭をガシガシ撫でた。
「いつもありがとうな、ナツ」
別にあたしがお弁当を作ったわけじゃないんだけど、お父さんはいつもこうやってあたしの徒労を労ってくれる。
そんなに気を使わなくていいのに……って最初は思ったけど、別にそういうわけではないらしい。
気を使ってるわけじゃなく、ただ嬉しくてその気持ちがそのまま表に出ているだけなんだそうだ。
とにかく顔や態度に何でも出るタイプだから……と、これはアオイが言っていたことなんだけど。
お父さんは、ちょっと豪快だけど心の広い真っ直ぐな人で、とにかく優しくて明るい。
怒るときはガツンと怒るけど、でもそのあとはやっぱり優しい。
お母さんがお父さんに惹かれた理由も、今ならちゃんとわかる。
体が大きくて、包容力があって、子供思いで、きっとこんないいお父さん、他にはいない……。
互いに子連れ同士で再婚した、お母さんとお父さん。
あたしは小学二年生、アオイは三年生だった。
当時ぜんそくを患っていたあたしのために、お父さんは勤めていた東京の病院をやめて、四人でこっちに移り住むことを提案した。
出世だってできたはずの大病院をやめてまで、お父さんはあたしのことを優先してくれた。
なにより家族が大事。血が繋がって無くても子供は子供。大事な娘のためならなんでもする。そういう人なのだ。
それなのにあたしは長い間、お父さんに懐くことなく頑固にむくれていた。
別にお父さんが嫌いだったわけじゃない。
ただ新しい家族というものが受け入れられず、反発していたのだ。
あたしの本当のお父さんは、小学校にあがる前に病気で死んでしまって、顔もおぼろげにしか覚えていない。
それでもあたしには、そのお父さんの膝の上の温もりとか、繋いだ大きな手の暖かさとか、肩車してもらって見た花火だとか、そんな断片的な記憶が忘れられなくて……。
お母さんの行為が、ひどい裏切りのように思えてしまった。
女手一人であたしを育てていたお母さんの辛さも理解せずに、あたしは意地を張って抵抗していた。
そんなあたしの頑なな態度に、完全に途方にくれていたお母さんと、自分のせいかと心を痛めるお父さん。
あの頃のあたしは、相当お父さんを傷つけただろう。
そんな風に誰も寄せ付けようとしなかったあたしの中へ、無遠慮に立ち入ってきたのは、新しくできた兄・アオイだった。
「ナツ、ナツ、おーいナツ。……なんだよ。返事しろよ。むくれてるとブスになるぞ」
公園の隅で膝を抱えてうずくまっていたあたしに、アオイは無粋な言葉を投げつけてきた。
「ほーら、ブスだブス!」
あたしの両頬を引っ張って、ケラケラ笑う。
彼の手をパシっと振り払って涙目で睨んだ。
「ナツって呼ばないで! 馴れ馴れしく呼ばないで!」
一瞬きょとんとしたアオイは、またすぐにニヘラっと笑って、言った。
「馴れ馴れしくするよ。家族だもん。ナツは俺の妹になったんだ」
子供の頃からアオイには、相手の気を惹きつける何かがあったらしい。
あたしはその時、なんとなく彼が苦手だと感じた。
だからすぐに走って逃げた。
足の速さには自信があった。前の学校でも、クラスのどの男子にも負けたことがなかった、自慢の脚力だ。
なのに……。アオイはあっけなく追いついて来て、いきなりあたしの自尊心を傷つけてくれた。
しかもそれだけじゃない。
「わからない? ナツがそうしてると、ナツのお母さんが一番悲しむよ」
「…………」
ズキンと一番胸の痛むことを言ってきたのだ。
あたしは立ち止まって、手をぎゅっと握り締めた。
――お母さん、どうして……?
「お母さんは、もう、あたしのお母さんじゃない。あたしだけのお母さんじゃ……」
泣きべそをかいてしゃがみこんだ。
そんなあたしの前に、アオイは立っていた。しばらく何かを考えるように。
それからおもむろに、隣に腰を下ろして言った。
「ナツのお母さんはもう、ナツだけのものじゃなくなったけど、かわりにナツは新しい家族を手に入れただろ。得したなって、そう思っとけばいいじゃんか」
「……得?」
思いもかけない言葉に、あたしは泣くのを一度停止してアオイを見た。
「だって、ナツには新しく父さんもできたし、兄ちゃんも、ほら!」
自分の顔を指差しながら、ニンマリと笑いかけてくるアオイ。
「…………」
あたしはまた、顔をくしゃっと歪ませて泣いた。
――お兄ちゃんなんか、あたしはいらない……。
アオイはその後も、今思えば感心するほど根気よく、あたしにつきまとい、なにかにつけて行動に干渉してきた。
あたしは中々に強情で、そう簡単には心を開かなかった。
だけど、アオイとの出会いが大きな転機になったのは確かだ。
自分はすぐに友達がたくさんできたくせに、いつまでも新しい学校に馴染めないあたしにばかり構っていたアオイ。
同級生のヤジも無視して、あたしのことを最優先に守ってくれたアオイ。
少しずつ氷が溶けるように、あたしはアオイと一緒にこの町を走り回るようになった。
そしていつしか、アオイの背中を追いかけるようになった。
この町で迎えた初めての夏が過ぎてゆく頃には、広川家はゆっくりと、家族の姿を見せ始めていた。
「どうだ、学校は。なにか楽しいことはあったか?」
お弁当の包みを解きなから、お父さんは問いかけてくる。
こっちの小学校に転入したばかりの頃、長い間友達ができずにいたあたしのことを、今も心配してくれているのだ。
小学校高学年の頃には、すっかり町にうちとけて、ぜんそくも出なくなって元気に走り回っていたのだけど。
最初の頃のあたしの状態を、お父さんはどうしても忘れることができないのだろう。
あたしは申し訳ないという気持ちと、くすぐったいような嬉しさで温かい気持ちになった。
「楽しいよ毎日。これでテストがなければ天国なんだけどー」
舌を出して笑うと、お父さんも「そうかそうか」と快活に笑った。
お父さんは、アオイに似ている。
外見というよりは性格の根本的な部分が、とても似ている気がする。
最近とくにそう思うのだ。
(――アオイ……)
ふっと顔が曇ったあたしに、お父さんは目ざとく気付いた。
「どうした?」
「……あ、ううん。なんでもないよ」
「そうか? ……ナツ、何度も言うが、彼氏ができたらすぐにお父さんに言いなさい。お父さんに隠し事はナシだからな?」
真剣な目で話すお父さんに少し笑ってしまう。
「違うよ。そんなんじゃないよ。ただね、最近アオイがちょっと変わったかな、って思ったりして……」
あたしの口から飛び出した『アオイ』の名前に、お父さんは目をそばめた。
「何がってわけじゃないけど、なんかこう、時々遠く感じるというか……。ほんと時々なんだけどね! 気のせいかもしれないんだけど……。あー、なに言ってるんだろ、あたし……」
言葉をうまく選べなくて混乱しているあたしに、お父さんはなぜかニコニコ笑っていた。
「ナツは、ほんとうにアオイのことが大好きなんだなぁ」
「え? うん。大好きだよ?」
――『大好き』。
反射的に答えてしまった自分に苦笑する。
屈託無く答えられるのは、その質問に深い意味なんてないって、わかりきってるからだ。
お父さんは、昔からあたしたち兄妹の関係を、親として何より微笑ましく思っている。
仲のいいあたしたちを、いつも嬉しそうに見守っている。
「まあ、アオイもいちおう受験生だ。ガサツとはいえ多少は思春期でもあるからな。いろいろ大目に見てやってくれ」
「……うん、わかってる」
思春期という言葉は、アオイに重ねると妙に違和感があった。
近頃変わったように感じるとは言ったものの、基本的に子供がそのまま大きくなったような奴なのだ。
そういえばアオイに反抗期なんててあったのかな? ……なんてことを考えていると、診療所の扉が開く音がした。
続いて、何か話す仲野さんの声と、もう一つ、ここまではっきり聞こえるような大きな声。
お父さんが、「おっ?」と眉を上げる。
噂をすれば、だった。
ズカズカと足音がして、勢いよく診察室の扉が開く。
「父さんお疲れーっ。ナツいる?」
制服のままのアオイが顔をのぞかせる。
診察用の回転椅子に座っていたあたしに、その目がとまった。
「おーいたいた」
「アオイ、ノックくらいせんかい」
お父さんが憮然とアオイを見ている。
「なんで。いーじゃん別に。もう患者さんもいないんだし」
「おまえはちょっとデリカシーが足らんのだ。まったく、誰に似たんだか……」
「父さん、その質問、自分で自分の首締めてるから。気付いてね」
あくまで日常的な憎まれ口が飛び出してくるけど、これは反抗期とは違うような気がする。
アオイのよく動く活発な目は、お父さんの手元にある開けられたばかりのお弁当箱をとらえた。
「おっ、母さんの卵焼き発見! いただきぃ〜」
素早く手を伸ばして、卵焼きを摘み取る。
あたしは立ち上がってアオイの腕を掴んだ。
「ちょっと! それはお父さんのお弁当!」
「もう食っちゃったもんね〜」
口をもごもご動かしながら、アオイは手をヒラヒラとふった。
お父さんは深く溜息をついて、ちょっと悲しそうにお弁当を見ている。
あたしはアオイの腕をガクガク揺さぶった。
「ひどいじゃない! お父さん楽しみにしてたのに! 何しに来たのよ!」
「……うぐっ、な、何って……。家帰ったら、おまえ診療所行ったっていうし。もう外も暗いから、念のため」
「え……」
あたしはアオイを揺さぶる手を止めて、むせそうになっている横顔を見た。
アオイは優しい。
たぶん、理想的な”お兄ちゃん”だと思う。
悪戯好きだけど、いつもあたしのことを気にかけてくれて、自分のことよりもあたしを優先してくれる。
アオイに会ったのはもう、物心ついてからのことだったから、正直言うとあたしは彼を完全にキョウダイとして見てはいない。
それでもアオイは大切な家族で、そしてあたしにとってはそれ以上に……、特別な存在だ。
「あ〜、腹減ったな。中途半端に食うと抑えがきかなくなるぜ」
もの欲しそうな顔でじっとお父さんのお弁当箱を見ているアオイ。
お父さんは結構真剣な顔で、お弁当をガードしていた。
(うーん。食い意地のはった親子だ……)
「ナツ、さっさと帰って夕飯食おうぜ」
食料強奪は思いとどまったらしく、さっさと診察室を出て行くアオイ。
「え、あ、ちょっと待ってってば」
その後を、あたしは慌てて追いかけた。
「それじゃ、お父さん。お仕事頑張って!」
「おう。気をつけて帰れよ。母さんによろしくな!」
ひらひらと手をふりながら、お父さんはあたしたちを見送った。
もともと柔道の選手を目指していて、途中で進路転向して医者になったという、ちょっと変わった経歴のお父さん。
でも、体力勝負のお医者さんの仕事場には、お父さんのような人間はきっと貴重な存在だろう。
分け隔てのない優しさも手伝って、この診療所にはたくさん常連さんがいる。大山手市の市民病院に行かず、わざわざこの小さな診療所に人が集まってくる。
それはきっと、お父さんの人徳だ。
あたしはいつもとても誇らしい気分で、この診療所を訪れるのだった。
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