忘れない 5
まだ情緒不安定だったあたしの手を、アオイは優しく引いてくれた。
あたしたちが始まり、長い時間を一緒に過ごした、この町を。
夏の星座を見上げながら、二人で歩く。
家を飛び出して来た時には気付かなかったけれど、
山江川の細い支流の川べりに、ちらほらと蛍の光が浮かんでいた。
「しっかし、父さんの顔ときたら、傑作だったなぁ」
アオイが思い出したように笑い出した。
「自分の娘を自分の息子に取られる父親? なんつったらいいか……、息子の不祥事への嘆きと、
娘をたぶらかした男への怒り? 二つが交じり合ったようなすげー顔で俺を見てた」
なかなか見られるもんじゃねぇな、と思い出し笑いを続けるアオイ。
ちょうどお父さんとお母さんのことを真剣に考えていたあたしは、その発言についカっとなった。
声を出して笑う彼の手を振り解く。
「笑い事じゃないよ!」
目に涙をためて、仁王立ちになってアオイを睨んだ。
「笑い事なんかじゃ……」
こんな時までお気楽なアオイに、あたしは腹が立ったんだけれど……。
「――わかってるって」
「え……」
アオイは妙に落ち着き払った様子であたしを見返すだけだった。
悟りでも開いたかのような静かな目をしている。
「父さんとは……、長丁場になるかもな」
さっきまでチャラついていた顔が、ふっと変わる。
急に大人の男の人になったような気がした。
あたしは気付いた。
アオイが考えなしにあんなことを言い出したわけじゃないこと。
彼の中には、ちゃんと覚悟があるんだってこと……。
「ナツもさ……」
アオイは再び、離れていたあたしの手を取り、包み込むように柔らかく握る。
「ナツも、時間が欲しかったら言ってくれ。俺は2年間、目一杯覚悟する時間があったけど、ナツは違う。
さすがに不公平だからな。待つ覚悟ならできてるよ。……5年でも10年でも、覚悟はできてるから」
そう言って、もう一方の手の指であたしの涙をぬぐった。
「つっても、他の奴には絶対渡せないんだけどな……」
なんともいえない表情でアオイは笑う。それからさっきと同じように、あたしの手を引いて歩き始めた。
あたしはもう、彼に逆らうことができなかった。
もともと忘れようとして忘れられなかった自分の感情を、再び抑えるなんて到底無理だった。
(これが、夢じゃないというのなら……)
「今更、何言ってんの。……アオイ、自分で言ったくせに」
「……え?」
立ち止まったあたしに引っ張られるように、アオイも歩みを止めた。
あたしの封印してた気持ちが、動き出す。
他ならぬアオイによって引きずり出されていく。
もう二度と忘れることなんてできないくらい、後戻りできないくらい、一気に膨れ上がっていく。
「さっき自分で言ってたじゃん。あたしがアオイのことどれだけ好きか……、ちゃんとわかってる、って……」
「…………」
「時間なんて、覚悟なんて……、ほんと今更だよ。あたしがアオイ以外の人、好きになれるはずがないって、
知ってるくせに……!」
「…………」
自分でも言ってることが恥ずかしくて、アオイの顔なんてまともに見てられない。
そっぽを向きながら投げやりに言ったあたしの言葉に、アオイは一瞬固まって――。
それから、突然あたしをガバっと抱きしめた。
「……ちょっ、アオイ! ほんとやめてよ! 近所の人に見られたら……!」
さっきから立続けに続く衝撃のせいで、あたしの心臓はボロボロなのだ。
それに、よくよく考えると、あたしの体は汗臭いはずで。
昼間からたくさん汗をかいて、お風呂にも入ってないのに……。
アオイはもがくあたしの体を簡単に押さえつけ、首の後ろでおかしそうに笑い声を押し殺していた。
その振動が伝わってくる。
「いいじゃん別に、誰に見られたって。ナツが俺を誘惑するから悪い」
「してない! 誘惑なんてしてない! この痴漢っっ!!」
「……痴漢って……。それはないだろ……」
「うるさい! この変質者ーーー!!」
ひとしきり騒いで、落ち着いて、あたしたちはようやく家路についた。
自宅前まで戻ると、家の前で心配そうに帰りを待つお父さんとお母さんの姿があった。
お父さんはアオイの言った通り、ものすごく不自然で複雑な表情を浮かべている。
あたしたちを見ながら何か言いたそうに口をヒクヒクさせていた。
ショック症状が相当凄まじいらしい。
結局その夜、お父さんの口からまともな言葉は出てこなかった。
それに比べると、お母さんのほうは随分落ち着いていた。
手を繋いだままのあたしたちを、少し目を細めて見つめ、そして平然と言う。
「スイカ、ぬるくなっちゃったじゃない。二人ともさっさと中に入って食べちゃいなさい」
ずっと顔が赤いままのあたしと違って、アオイは憎たらしいくらい平常通りだった。
何事もなかったようにお母さんに笑いかけて、家の中に入っていく。
ただ……。
最後まであたしの手を握ったまま、しつこく放そうとはしなかった。
アオイがこの町を出た二年前の春。
あの日から別れていたあたしたちの道が、再び一つになった。
これからは、あたしの居場所はアオイの後ろじゃない。
アオイの背中を追いかけて進むんじゃない。
あたしの居場所は、アオイの、――隣。
一緒に戦って、一緒に並んで歩いていける場所。
――――アオイ、あたしはこの夏を忘れないよ。
あたしたちが迎えた、二度目の始まりの季節。
ここからまた、二人の新しい物語が幕を開けるんだ。
これまでの日々、たくさんの思い出も生き続けるから……。
だから、いつもあたしの前にあったアオイの背中も、あたしは絶対に忘れない。
― FIN ―
2008.8.24. from sayumi
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