ナ ツ ア オ イ

忘れない 4



 何が起こったのか、あたしはとにかく混乱していた。
 気がついたらリビングを飛び出して、更に玄関から家の外へ走り出していた。

 ――――『ナツを俺にください』

 アオイの意味不明な発言が、あたしの頭の中をグルグル廻っていた。
 (あれは、なに? なんだったの……)
 唐突な台詞に、時間が止まったように食卓の空気が凍結した。
 額がテーブルにくっつくほどに頭を下げたまま、動かないアオイ。
 お父さんの手から、スプーンがポロリと滑り落ちた。
 お母さんは笑っていた顔ごと固まってしまったかのように、しばらく瞬きさえ忘れていた。
 あたしも隣のアオイに目を向けたまま、椅子の上で完全に動きを失っていた。
 そのまま、どれだけの沈黙が流れたのかわからない。
 やがて、時計の針の音がコチコチと耳に響いてきて、あたしの思考は時間がたつほどに錯乱し、 気付いた時にはその場から逃げるように飛び出していた。
 (なに?)
 (なにがどうなってるの?)
 ――アオイの言葉、いったいどういう意味なの!?

 
 目的地も無くただ逃走してきたあたしは、息を切らして立ち止まった。
 ハアハアと息を吐きながら、人通りの無い道の真ん中に座り込む。
 火照った体の熱を、夜の涼しい風がゆっくりと冷ましていく。
 三月橋の手前まで来ていたあたしは、もう一度立ち上がって橋の上まで歩き、欄干にもたれかかった。
 夏の空を見上げ、乱れたままの呼吸を整える。
 ――あれは何だったんだろう。
 もう、本気でわけがわからない。
 もしかして、あたしはアオイに会えた嬉しさのあまり、変な幻聴を聞いたのだろうか……。 ついにはそんな疑惑まで沸いてきて、あたしは頭を抱えた。
 そこへ、夜道の向こうから近付いてくる足音。
 橋のすぐ側までやってきて、それは止まった。
 あたしは、恐くて顔があげられない。 ぎゅっと頭を抱え、目線はずっと地面に縫い付けられたまま。
 やがてアスファルトの上の砂が擦れる音とともに、くたびれたスニーカーが視界に入った。
「……ナツ」
 名前を呼ばれる声にさえビクリと怯えて、あたしは顔を隠すように彼に背を向けた。
「……なに、アオイ。……なんだったの。あ、あたし、わけわかんないんだけど」
 アオイの気配があたしに近付いて、声が頭上から聞こえる。
「――ごめん」
 若干硬い響きの低い声は、夜の闇に溶けるように吸い込まれた。
 アオイはそのまま押し黙り、やがてあたしから少し離れて、橋の欄干に両手をついた。
 街灯を反射して流れる緩やかな川面を見下ろしながら、アオイもどこか落ち着きが無い。
「驚かせて悪かった。……でも、俺……」
 彼がためらいがちに口を動かすより早く、あたしは叫んでいた。
 アオイの背中にむかって。
「ひどいよ……!」
「……え」
「むちゃくちゃだよ、アオイ!」
 苦しい呼吸をもてあましながら、あたしは上ずった声で叫ぶ。
「あたしは……、必死に振り切ろうとして、妹になろうとして……。なのに、あんなにあっさり……」
 ジワリと、目に熱いものが浮かんだ。
 ぼろぼろ流れ落ちてくるそれは、紛れも無く二年ぶりに流す涙だった。
 アオイはこちらに顔を向け、少しばかり圧倒されたようにあたしを見ている。
 でもすぐに、落ち着いた様子で切り返した。
「ごめんな。……俺、ほんとは前から知ってたんだ。ナツの気持ち」
「…………」
 涙に潤む目を極限まで丸くするあたし。
 アオイは続けた。
「知ってたけど、絶対に意識したらダメだと思った。離れて消えるものなら、そのほうがいいと。 ナツにとっても、俺にとっても……」
 軽く目を伏せて、足元の地面を見る。
「……でも……、話にならねぇよな。消えるどころか、離れてすぐに俺のほうが耐えられなくなった。 どうしようもなく……、自覚するなり自己嫌悪にも襲われちまって……」
 かき上げた髪を、クシャリと手で握りつぶすようにしながら、アオイは顔をゆがめた。
 辛そうで、切なそうな表情。
 目が離せなかった。あのアオイが、あたしにこんな顔を見せるなんて……。
「それでも離れて暮らして、それぞれ別の環境に生きてれば、いずれは終わるもんだと甘く見てたけど」
 泣きそうなほど自嘲的な笑みを浮かべるアオイ。
「むしろ状況は悪化する一方だった。ぞっとするほど自己中な考えにも目覚めたりして、 ……俺、マジでおかしくなりそうだった」
「…………」
 アオイの口から飛び出す言葉の数々を、あたしはまともに消化できずに持て余していた。
 衝撃が一気に押し寄せてきて、とても対処しきれなかった。
 体が震えて、今にも崩れ落ちそうだ。
「あれだけ馬鹿みたいに”家族円満”にこだわってたのに。 いつのまにか、家族以上に失いたくないモノに捕らわれてたんだ……」
 真っ直ぐにあたしに向けられる、アオイの熱を孕んだ瞳。
 あたしは混乱するばかりで、状況を完全には把握することができない。
 ただ、顔が火照って、心臓が怪物みたいに暴れて手に負えなくて。
 ――どうすればいいのかわからない。
 初めての感覚だった。怒られて怒鳴られた、いつかの雨の夜とも違っていて。 だけど確かにアオイを恐いと感じて、あたしはただ、そこに立っているのがやっとだった。
 (恐いよ、アオイ……)
 ――これ以上何か言われたら、あたし、どうにかなってしまう……。


 そんなあたしの危機感をよそに、何を考えているのか、アオイは唐突に話を切り替えた。
 空を見上げながら、どこか遠い目をして。
「……果歩さ。あいつ、すげー可愛いんだよ。血が繋がってるとか繋がってないとか、 それまでは気にしたことなかったけど、やっぱ違うんだよな。 なんていうかこう、初対面のときから他には感じない親近感みたいなもんがあって」
「…………」
 ――この、タイミングで。
 アオイは微妙に人の神経を逆撫でするようなことを言い出した。
「やっぱ本物は違ったよ。ナツとは全然違った」
 別に果歩さんの話が嫌だったとか、そういうわけじゃない。
 果歩さんという存在は、アオイが東京に行ってしまってからはもう、 あたしの心をざわめかせるものではなかった。
 ”アオイの妹さん”という位置付けで、アオイへの複雑な感情とは別に、 ごく自然に認識するようになっていた。
 だから今更、嫉妬もなにも無いんだけれど……。
 あたしはただ、アオイのその言い振りが妙に癪に障ったのだ。
 冷めた目で彼を見る。
「……偽物で悪かったわね」
 ようやくまともに口が動いたかと思うと、出た言葉がこれだ。
 どういうつもりでアオイがそんなことを言い出したのか、その時のあたしはまともに考える余裕もなくて。 単なる無神経に思えるアオイの発言をただ受け止めて、感情が一気に冷え込んでいた。
 でも、その温度はあっけなく急上昇することになる。
 アオイが再び、あたしを見つめた。
「ナツは、妹だけど、妹じゃなかった」
 あたしの双眸を強引に捕まえたまま。
 その足が、一歩、また一歩とあたしのほうに迫ってくる。
「いつからか、なんてわからないけど……。 ナツは、ただ大切な存在だった。家族でも、家族でなくても、比べるものがない特別な」
「…………」
 あたしは間近に立つアオイの顔を見上げていた。
 さっき以上に熱のこもった眼差しが、まともに突き刺さる。
 それは記憶の中にあった、いつもあたしに向けられていた優しく温かなものとは何かが違っていた。
 再び声を失って、目を逸らすこともできずに、金縛りにでもあったように動けなくなる。
 どうしようもなく胸が荒れ狂う――。
「そばにいたくて、誰にも渡したくなくて……、自分だけが守りたいと思っちまう」
 アオイの手があたしの肩に置かれる。
 ただ目を大きく開いたまま、あたしは微動だにできずに見ていた。
 近付いてくる、アオイの顔。
 誰より大好きで、離れてる間も何度も夢に見た、懐かしく愛おしい顔。

「いつの間にか、そんな存在だったよ」
「…………っ」
 そのまま――。
 あたしは呼吸が止まった。

 ――神様。

 ――これって、どういう展開ですか。

 一瞬にも永遠にも感じられる時間。
 アオイの唇があたしから離れて、あたしは酸欠のあまり魚みたいに口をパクパクさせていた。
 そんな様子を、人の気も知らずに、どことなく満足げに見下ろしているアオイ。
 余裕さえ感じられる笑みに、あたしは今度はだんだん腹が立ってきた。
 (どうしてそんな、冷静でいられるの……!?)
 (頭おかしいんじゃないの!?)
 でも、あたしがアオイから離れようとすると、腕を掴まれた。
 思わず体がビクリとなる。
 ――強い、力。
 片手で安々と、あたしを逃がさないように、自分のほうへと引き寄せる。
「言っとくけど、無駄だから、抵抗しても。俺、ナツが俺のことどんだけ好きかちゃんと知ってるから」
「んなっ……」
「それに……」
 今度は、アオイの顔をまともに見る間もなかった。
「――んっ……」
 二度目の衝撃。
 間髪を入れず、アオイに口を塞がれて。 体も腰のあたりから引き寄せられたまま、身動きがとれなくて。 相手の思うままに翻弄されながら、一度目よりもやけに長い長い時間が過ぎ去った。
 そして、力が抜けてぐったり寄りかかるあたしを、アオイの腕が受け止めて抱きしめた。
 ――広い胸。
 あのイヴの夜、二度と包まれることがないと思った、今でも幻のように思えるアオイの腕の中。 あの時とは全然違う、強い強い力で封じ込められた。
「それに、例えナツが放せっつっても、俺が無理。――もう、絶対無理……」
「…………」
 あたしは考えを改めなければならなかった。 彼が冷静だなんて……、どうしてそんなことを思ったんだろう。
 アオイの心は震えていた。
 感情の塊を絞り出すような声が耳元に直接響くから。 彼の本当の気持ちが、触れ合う体から鼓動や熱と一緒に伝わってくるから。
 あたしはやっぱり、夢を見ているんじゃないかと思った。
 
 ――わけがわからないよ。アオイ。
 
 ――でも……。

 アオイの背中に恐る恐る手を回す。
 彼の肩越しに、夏の夜空があった。
 あのイヴの夜と同じように、涙で揺れる、ぼやけた星の光がたくさん見えていた。

 ――あたし、アオイと一緒にいていいの……?





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