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チェイリードの娘

 夕闇に溶け行くアラトリムの大街道を、幾台もの馬車が走っていった。
 行き着く先はどれも、小高い丘の上に立つ大公家のお屋敷である。
 このアラトリムを事実上支配する、最高位の貴族の館。
 そこに招かれるという事実だけでも、相当に栄誉なことだった。
 ソニエが大公の屋敷に足を踏み入れるのは初めてのことだ。
 緩やかな坂道を登りきってからも、正面玄関に辿り着くまでの道は長かった。
 そびえ立つ石製のアーチ門に圧倒され、幻想的な光を放つ蝋燭と一体化した数々の彫像に目を奪われた。
 手入れの行き届いた前庭の草木が、幾何学的な姿を夕暮れの闇の中にさらしている。
 ソニエはそれらを見るたびに、故郷ソユーブの光景との違いに驚いていた。
 ソユーブでは庭の草木や岩は、自然のままの形を楽しむものとされ、人為的にそれらの形を作りかえるという発想を持たなかったのだ。
 日頃から素朴さを好むソニエではあったが、その美しく洗練された都会の建築様式には目を奪われていた。
 おかげで隣で仏頂面をぶらさげているセディックの空気に、巻き込まれずにすんだのである。
 出発時に階段から降りてくるソニエを目にした時から、彼は不機嫌さを露にしていた。
 原因はソニエの装いにある。
 前日に彼がよこした衣装箱の中には、見たことも無いような豪奢なパーティー用ドレスが入っていた。
 真紅のレースに覆われた目にも鮮やかな、隅々まで最高級の素材を用いた代物である。
 派手という表現を通り越し、身分不相応とでもいえそうな、来て歩けば一晩で舞踏会の有名人にでもなれそうなドレスだった。
 ソニエが好んで着用する衣装のセンスからは、あきらかにかけ離れていた。
 とてもそんなものを着用する気にはなれず、故郷から持ってきた淡いブルーのドレスを選んだ。
 対してセディックは、いつにもまして目が眩みそうなほど派手な格好だ。
 眩いダイヤがふんだんに縫い付けられた純白のスーツに、金茶まだら色の、全身を覆う毛皮のロングコート。おまけに豹皮の肩掛けまでくっついているのだから、まるでどこぞの王族のような装いだ。
 若さと容貌で補えている部分が際どい均衡を保ってはいるが、一歩間違えれば滑稽な舞台役者のようだとソニエは思う。
 そんな彼の隣に並ぶならば、たしかにあの真紅のドレスがお似合いなのかもしれない。
 しかし悪趣味な道化につきあう気分になどなれなかった。
 相手との極端なアンバランスさのせいで、ソニエは必要以上に質素で慎ましやかに見えてしまう。
 セディックとその後ろを少し離れて歩くソニエは、はたから見れば舞台の上の大王と召し使いの女のようだっただろう。
 そんな状況を、人目もはばからず嘲笑する者が現れた。
「嫌だわ。舞踏会の華は貴婦人でしょうに……。殿方にはレディを美しく着飾って差し上げる義務がおありだとは思わなくて?」
 クスクスと含み笑いを隠しもせず近づいてきたのは、女王とでも称すべき豪勢なドレスをきた美女だった。
「ねえ、セディック、あなたって気の利かない人だこと」
 女性はごく自然にセディックの腕に自分の腕を絡め、チラリとソニエに目を向けた。
 光を乱反射するラメがふんだんに使われた、エメラルドグリーンのドレス。
 大胆なほど背中が開いたデザインで、深く開いた豊満な白い胸元を、思わずひきつけられそうな大きなダイヤの首飾りが飾っていた。
 たとえその派手な衣装がなくとも人目を引き付けてやまないであろう、その色白の金髪美女の顔を、ソニエは初めて間近に見た。
 シェリル=フォン=マラドーム。
 マラドーム家のシェリル嬢といえば、アラトリムの社交界において知らぬ者はいないだろう。
 アラトリムで大公の次に位置するといってよい家柄、公議会の議長を代々務めるマラドーム家の三女である。
 数年前に代替わりがあり、現在は彼女の兄・アルグランがアラトリム公議会の頂点に立つ。
 その家柄だけでも輝かしい装飾品になりうるが、妖艶さと可愛らしさを併せ持ったシェリルの美貌は、アラトリムの男たちの目を引き付けてやまなかった。
 セディックのかつての三人の愛人を退け、彼を夢中にさせてしまったというのは他ならぬこのシェリル嬢である。
 マラドーム家といえども三女という立場は随分と気軽なものらしく、他の貞淑な姉達とは随分違っているようだ。
 二年前、二十四歳にして夫を亡くしたシェリルは今なお若さと美貌を持て余し、自由奔放に社交界を渡り歩いている。
 半ば公然とセディックとの愛人関係を保っているのも、そのような事情によるものである。
 煌びやかな装いといい、華やかな美貌といい、ソニエよりずっとセディックのエスコートが似合っていた。
「今夜はまた女神のごとき美しさだね」
 白い手を取り挨拶のキスをするセディック。
 その様子を満足げに見やり、シェリルは目を細めてソニエを見た。
 己が勝者だと確信した者の目だ。
 柔らかい笑みを浮かべた表情の奥に、鋭く冷たい塊がある。
 目の前の光景を他人事のように見ていたソニエには、とっさに返すべき表情が思い当たらなかった。
 いつのまにか衆目が自分たちに集中していることに気付き、しだいに不快な感覚が胸を襲った。
 感じるのはシェリル嬢への苛立ちではなく、このような場で妻に恥をかかせる無神経な男への怒りである。
 望みもしない舞踏会でえもいわれぬ羞恥を与えられ、公衆の面前で愛人と寄り添うセディックへの激しい不快感が募った。
 美しい愛人との逢瀬を楽しみたいのならば、最初からソニエなど連れ出さなければよいのだ。
 同伴させた以上は、恥をかかせぬよう取り計らうのが紳士としてせめてものマナーではないのか。
 今更ながらに己の不遇な結婚を嘆いてもどうにもならないが、早くも舞踏会へ足を運んだことを後悔していた。
「はじめまして。チェイリードのお姫様。わたくし、シェリル=フォン=マラドームと申します」
 そつのない動きで、シェリル嬢はソニエの前に来た。
 今更語らずとも知らぬ者などないであろう、その名を語る。
 己の愛人と妻を二人にしたまま、セディックは無責任にも別の招待客の輪の中へ入っていった。
 差し出されたシェリル嬢の手をそのままにするわけにもいかず、渇ききった社交辞令の握手を交わした。
「……ソニエ=フラン=チェイリードです」
「まあ、噂どおり奥ゆかしい方。さすが旧家の姫君ですわ」
 にっこり笑うシェリル嬢の顔は、美しくも独特の激しさを叩きつけられているような印象を受ける。
 ソニエは早くこの女性のもとから離れたかった。
 その、まさに格好のタイミングでラッパの音が鳴り響く。
 高らかな音色とともにホール中央の階段から降りてきたのは、屋敷の主・大公夫妻である。
 高い天井をもつ広大なホールは一瞬静まり返り、そして招かれた群集は一斉に腰を沈めてお辞儀をした。
 大公夫妻は既に老齢といって差し障りなく、落ち着きと貫禄、そしてその身分に相応しい品位を感じさせた。
 会場が再びざわめきを取り戻すと、近くの者から順々に大公夫妻への挨拶を始めた。
 その傍ら、楽団がメロディーを奏ではじめ、ホールの空気は徐々にダンスムードへと移り変わってゆく。
 セディックは相変わらず見知らぬ客人との話に花を咲かせていた。
 ソニエは隙を見つけると素早くシェリル嬢から離れ、一人中庭の方へと歩いていった。
 人の多さにはあまり免疫がない。
 群集の熱気に酔いかけて、外の空気を求めたのだ。



 大公のお屋敷は中も立派で、至る所に芸術性の高い彫刻や絵画が飾られていた。
 見たことの無い都の王宮とはこのようなものなのかもしれないと、想像を膨らませるには十分すぎた。
 中途半端に飾り立てた、統一性の無いファルデローの屋敷とは比べ物にならない。ソニエは思わず失笑した。
 シルクのカーテンが張り巡らされた回廊を抜けた時、彼女を呼び止める者がいた。
「―――ソニエ?……ソニエ=フランだね?」
 振り返った先には、長身で白髪混じりの初老の男が立っている。
 一瞬不審げな表情で見返すも、すぐにソニエの顔に喜びと驚きが浮かんだ。
「……ケスパイユ候? おじ様!?」
「おおソニエ! やはり私の可愛いソニエだ!」
 男は両手を広げて歩み寄り、ソニエは歓喜の声をあげてその胸に飛び込んだ。
「おじ様! ……嘘みたい! こんなところでケスパイユおじ様に会えるなんて……!」
 子供のように無邪気に抱きついたソニエを受け止めながら、男は優しげに目を細めた。
 ラドカ=サム=ケスパイユ。
 ケスパイユ候と称される名門貴族のその男は、ソニエにとって特別な人間だった。
 彼女がまだ幼い頃から、ソユーブに出入りをしていた親族の一人なのだ。
 先代のチェイリードの当主、つまりソニエの祖母は優秀な女性であったが、多少気難しいところがあり、人間嫌いの噂で通っていた。
 孫娘のソニエのことはたいそうな可愛がりようだったが、他の縁者に対してはなかなか難しかったらしい。
 そのため祖母の代に疎遠となった親族は多数いると聞いている。
 その中の一人が、このケスパイユ候である。
 ケスパイユは本来ソニエの父方の親族であるため、チェイリードに通ずる血縁ではない。
 しかし父が生きている時代には頻繁にチェイリードの屋敷に訪れていた、ソニエにとって非常に親しい大人だったのである。
 彼は考古学をおさめ、その筋では名が通り、既に国内で数多くの著書も発表している。
 あちこちへ発掘の旅へ出かけては、その土産話をソニエのもとに持ち帰った。
 外の世界を知らないソニエに数々の御伽噺や都の逸話、異国の話などを聞かせては、幼い彼女を喜ばせた。
 寄宿学校へ入らなかったソニエに読み書きを教えたのも、このケスパイユ候である。
 父の死後数年、老化とともにソニエの祖母の人間嫌いに拍車がかかる中、ケスパイユとチェイリードの屋敷とは疎遠になってしまったのだが。
 しかしとても長い間、彼は幼いソニエにとって父親代わりとでもいうべき近しい存在であった。
「夢みたい……。おじ様に会えるなんて……。素晴らしいわ」
「四年ほど前から、こっちに屋敷を構えたのだ。わたしもそろそろ年だ。いい加減どこかに腰を下ろしたくなってね」
 頬を紅潮させて喜ぶソニエの肩を暖かく抱きながら、彼は柔らかい表情を更に緩ませた。
「美しく成長したね、ソニエ。サジェトが生きていればどんなにか誇りに思ったことだろう」
 サジェトとは、ソニエの父である。
 ケスパイユはソニエの父親の従兄にあたる。
「おじ様は少しも変わらないわ」
「そうかい? 嬉しいことを言ってくれる」
「ああ、でも髪のお色が少し白くなってしまったけれど。でも相変わらずとても素敵よ」
 柔らかい物腰に気品ある仕草、そのスラリとした体型もあいまって、ケスパイユは若い頃はなかなかに見栄えのする紳士であった。
 その面影を十分に残しながら、彼は喜びの表情をにわかに曇らせた。
「ソニエ……、可哀想な娘。おまえがまさか、あのファルデローの餌食になっていたとは……」
 ファルデローの名に、ソニエの顔からも笑顔が消えた。
「おじ様、そのことは……」
「いいんだ。おまえは何も言わなくていい。何もしてやれなかった私を、どうか許しておくれ。おまえのお婆様の命令で、長い間ソユーブに足を踏み入れることはできなかったんだ」
「おじ様は何も悪くないわ。お婆様は、愛していたけれど、とても気難しい方だったもの……」
 ケスパイユは遠くを見やるようにしながら、穏やかに語りかけた。
「ファルデローの噂はあちこちで聞いている。同時に、不幸なお前の話もね。わたしがもう少し近くにいれば、あのような親子におまえをくれてやったりはしなかったものを。あんなろくでもない一族におまえを嫁がせるなど……」
 ケスパイユの声に苦渋と後悔の影が滲む。
 ソニエは俯き、弱々しくなりそうな声になんとか力をこめた。
「おじ様、私は望んでファルデローへ嫁いだのよ。わたし、なによりソユーブが大切だったから」
「だがおまえは屋敷に不自由に幽閉されていると聞く。ソユーブへ帰るどころか、外出さえ制限されているのだと……」
 ソニエは少し驚いた。
 そんな噂まで世間に流れているのだろうか。
 確かに飛ぶ鳥を落とす勢いといわれるファルデロー一族は、父親の代から何かと世間を騒がせている。その大半がよくない噂ではあるが。
 その目立たない妻の噂まで飛び交うとは、それもこれもチェイリードというある意味偉大すぎる名前が呼び起こす災害のようなものかもしれない。
 古くから特別な家柄として栄え続けてきたその家名は、この国では知らぬ者はいないほど有名だ。
 しかし今となっては、栄光は過去のもの。
 ただ好奇の対象として噂される以外に価値はない。
 ソユーブを遠く離れたこの大都市で、誰もソニエのことを知らないのに、誰もが”チェイリードの娘”という存在を知っている。
 ときにひどく気味が悪かった。
「このアラトリムで再会できたのも何かの縁だろう。私はおまえのためなら何でもするよ。困ったことがあれば、すぐに連絡しなさい」
 優しく包み込むようなケスパイユの言葉に、ソニエははっと目を見開いた。
「まさか、今朝のあの花束って……」
「花束?」
 期待の目でケスパイユを見上げるソニエだったが、ケスパイユは不思議そうにそれを見返すだけだった。
 とたんに予想が外れたのだと悟り、表情が萎む。
「あの青い薔薇の花束、おじ様ではなかったの?」
 ソニエの言葉に、ケスパイユは何度か瞬きをしたが、すぐに意味ありげに微笑んだ。
「花束か……。おまえにそれを贈ったのは私ではないが、真犯人に心当たりはある」
「……え?」
 彼の言葉の意味がわからず、ぽかんとするソニエの耳元で、ケスパイユは囁いた。
「今夜、おまえは二つめの再会を果たすだろう。少し遅れたが、私からの十八歳の誕生日の贈り物だよ」


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