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チェイリードの娘

 珍しい熱帯の植物が植樹された中庭は、心なしか湿度が高く感じられた。
 月明かりの下でもなお色鮮やかな花園の中を、ソニエは期待と不安の入り混じった奇妙な興奮とともに歩く。
 今朝感じたのと同じ、久しく味わったことのない感情の高まりだった。
 ケスパイユは意味ありげな言葉とともにソニエを送り出しただけで、詳しいことは何も言わなかった。
 ソニエの向かう先に何が……いや、誰が待っているのかなど想像もつかない。
 やがてオレンジの光にライトアップされた東屋が目に入り、ケスパイユの教えたユリノキの大木はほどなく見つかった。
 行けばすぐにわかるという彼の言葉どおり、他に見間違えようもないほど立派な樹木だった。
 花開く季節には少し早いが、涼やかに垂れ下がる葉の束が、さやさやと音をたてて夜風に揺れている。
 その木の真下へと回り込み、周囲をぐるりと見回した。
 人影らしきものは近づいたときから見当たらず、落胆とも安堵ともいえる溜息をつく。
 気持ちが落ち着いてくると、ソニエは固い幹にゆったりと背をもたれさせた。
 幾重にも重りあう葉の隙間から月を見上げながら、この夜の思わぬ幸運に目をそばめる。
 まさかあの懐かしいケスパイユに会えるとは、予想だにしなかった。
 子供時代からの彼女を知る人間が近くにいる。しかもかつて父親の姿さえ重ね合わせた馴染みの深い相手なのだ。
 ソユーブですごした日々が間近に蘇ったような気がした。
 居心地の悪いこの街で、孤独に苦しむことはもうないのだ。ソニエにとってなにより心強いことだった。



 細い枝先を揺らす肌寒い風に軽く身震いをした。
 袖の無いパーティー用のドレスを身に付けているだけでは、肩掛けをしていても夜風にこたえる。
 この場所へ誘われたのも、おおかたケスパイユお得意の謎かけか何かなのかもしれない。ソニエはしだいにそう思い始めた。
 彼は昔から謎かけやらゲームの類で人を楽しませることが得意だった。
 この場所と、今朝の花束と、さきほどの再会と……。それらにどのような結びつきがあるのか思考を巡らせた。
 今はもう子供のソニエではない。
 かつてのように簡単には降参しないことを、しっかり彼にわからせるのだ、と軽く意気込んでみる。
 ちょうどソニエが美しい蒼い薔薇の花を思い浮かべた時、彼女の視界に幻影がよぎった。
 正確には、幻影のように花弁がハラリと降ってきた。
 ――――青い、花。
「…………!?」
 ソニエは唖然と、足元に散った幾枚かの美しい花弁を見た。
 今まさに思い出していた、青い薔薇の花だ。
 更に、一枚二枚と頭上から降ってくる。
 我に返って太い木の枝を見上げるのと、彼女の目の前に大きな影が落ちてきたのは、ほぼ同時の出来事だった。
「っ…………」
 体重を感じさせない軽やかな物音しかなかったものだから、一瞬何が起きたのかさっぱりわからなかった。
 恐る恐る目を開けば、目の前には見知らぬ人影が立っている。
 月の光が視界を照らし、そこにいる男の姿を少しずつ露にした。
 肩先で揺れる黒髪と、軽く着崩した若々しい正装姿。
 スラリと背の高い青年が目の前にいた。
「…………」
 呆然と青年を見上げていると、彼はまっすぐにこちらを見つめながら口を開いた。
「――――ソニエ?」
 飛び出したのが自分の名前だったものだから、ソニエは更に目を丸くして青年を見る。
 思わず後退しかけてドレスの裾に足を絡めてしまう。
 バランスを崩したソニエの体を、青年の腕が素早く支えた。
 とっさに青年から身を離そうとするソニエに、彼は自ら一歩離れて彼女を安心させようとした。
「ごめん。驚かせてしまった」
「…………」
 警戒姿勢をとかないままのソニエに対し、青年はひるまず言葉をかける。
 まだ幼さを残した人懐こい笑みが、ソニエの緊張を緩和させた。
「……どなた、でしょう」
 声に震えが混じってしまったことを恥ずかしく思いながらも、できるだけ毅然と相手を見据えた。
 青年は少しためらうような仕草の後、背後に持っていた何かを差し出した。
 目の前に差し出されたものは、今朝受け取ったものと同じ、瑞々しく青い薔薇の花束だった。
 ソニエの視線が、花束と青年の顔の間を行き来する。
「これ……、ひょっとして、あなたが今朝の……」
「あの青い花畑は、きみの何よりのお気に入りだったから。今もきっと、この色の花が好きなんだろうと思って」
「…………!」
 その瞬間、ソニエの目が青年に釘付けになった。
 青年の、深いブルーの瞳。
 ――――サテラの青い花畑。
 故郷ソユーブにおける、数々の思い出の場所の中でも、格別の存在として彼女の記憶の中にあった場所。
 そこは初夏になると淡いブルーの小さな花が一面に咲き乱れる。
 秋には薬草として収穫するサテラという花が、一年に一度、花畑を青い海のように染め上げるのだ。
 地平の果てまで広がる美しい絨毯の上を、躍るように駆け回った少女と、彼女を見守るようにそばで微笑む少年がいた。
 手を繋いで寝転がりながら、幼い二人が誓い合った将来。
 夢幻のように消えてしまった未来像だけれど、面影の中の少年の横顔は今もソニエの中に生きている。
 その遠い日の残像が、今目の前にいる青年の顔へと重なった。
「……アリュー……ス……?」
 口から零れ落ちた懐かしい名前に、ソニエ自身が驚いていた。
 あまりに遠ざかっていた記憶が、急に鮮明によみがえってくるのだ。
「アリュース、なの……?」
 青年は相好を崩して深くうなづいた。
「ソニエ。やっと、会えた」
 そして彼は彼女に一歩近づいた。



 アリュースは、王都から派遣された辺境方伯の息子だった。
 この国における辺境方伯とは、地方を監督するために中央から派遣されてくる高級官吏のことである。
 その地方の実権がほぼまるまる与えられるため、国王の信頼厚い貴族にのみに与えられる名誉職だ。
 彼の父親は本来デモントという街で第七公家に仕える伯家の出身だったが、王立アカデミーを卒業後、長いこと当時の皇太子に仕える宮中伯の地位にあったらしい。
 そんな経緯から国王の信頼も厚く、辺境方伯に任じられた。
 全国各地を転々と回り、地方の現状を監視する任を努めるようになったのだ。
 辺境方伯に着任すると、家族そろってその地域に移住することになる。 
 任期は三年と決まっており、三年たてばたいがいは他の地方へと異動を命じられる。二度と同じ土地に巡ってくることはない。
 したがってソニエがアリュースとすごした期間は、七歳の春からちょうど三年だった。
 風に揺れる涼やかな黒い髪をして、濃いブルーの瞳が印象的な少年だった。
 彼は本が好きで、ソニエと遊ぶときもいつも分厚い本を片手に抱えていた。
 本から得た豊富な知識を、よく語り聞かせてくれたものだ。
 様々な知識に精通していたぶん大人びた部分もあったが、年相応の純粋な子供らしさも併せ持っていた。
 ソニエとともに荒野を駆け巡ったり、木登りや崖下りに精を出したり、かなり無茶なこともやってのけた。
 好奇心が旺盛で、どんなことにも首を突っ込まずにはいられない、本性はとてもやんちゃな少年だったのだ。
 ソニエが七歳、アリュースが九歳の春。彼は赴任してきた父親とともに、チェイリードの屋敷に挨拶に訪れた。
 二人が初めて出会ったのもその時だ。
 あまり同世代の子供と接したことがなかったソニエにとって、最初から彼は気になる存在だった。
 父親の横で姿勢よく立っている品の良い少年を、祖母の後ろから穴が開くほど観察した。
 男の子を間近で見るのは初めてだったので、物珍しさもあった。 
 果たして彼は遊び相手になりうるのかと、幼い期待で胸を膨らませた。
 ソニエが勇気を出して笑いかけると、彼もまたぎこちなく笑顔を返してくれた。
 そのどこか不器用な微笑みが、今思えば彼の多くを物語っていた。
 ソニエはアリュースに父親が作ってくれたブランコの場所を教え、彼女の秘密の遊び場にも招き入れた。
 その日から二人はかけがえのない友達になり、誰も間に入れないほどの強い絆で結びついていった。
 それが、幼い恋の始まりでもあったのだ。
 やがて結婚の約束を交わすことにもなった運命の相手。
 彼にまつわる記憶は、今も心の奥に大切にしまわれている。


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