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チェイリードの娘

 目の前にいる青年は当然ながら、八年前の少年時代の姿とは随分かけ離れてしまっている。
 落ち着いてじっと見つめることで、その容貌の何もかもがあの懐かしいアリュースであると納得できた。
 少しはにかんだ笑みは、どこか懐かしい。
 ソニエは言葉らしい言葉も発することができないまま、瞬きも忘れて成長しきった彼の顔を見上げていた。
 アリュースは少し照れくさそうに、手にしていた花束をソニエの手に持たせた。
 触れた手のぬくもりが、夢ではないと教えてくれた。
「なぜ、あなたが……」
「会えてよかった。実は去年まで父上の手伝いで国外にいたんだ。帰国してからは王都でしばらく過ごして、先月このアラトリムに来た。そして偶然ケスパイユ候にお会いして、彼からきみがこの街にいることを聞いたんだよ」
「アリュース……、ほんとうに、あなたなの?」
 いまだ実感が頼りないソニエは、おそるおそる手を伸ばして目の前の青年の顔に触れた。
 細められた瞳の形が記憶の中のイメージと重なって、なぜか胸が苦しくなった。
 しだいに懐かしさが溢れてくるが、この現実離れした状況にまだ頭が追いついていない。
 冷静な思考を取り戻しはじめると自分の行いが恥ずかしくなり、ソニエは触れていた手を引っ込めた。
「ご、ごめんなさい。私ったら……」
 引っ込められたソニエの手を、アリュースが追いかけるようにとらえた。
 真っ直ぐに彼女を見据えたまま、軽く手の甲に口付ける。
 鼓動が速くなるのを抑えられず、ソニエはどのような表情をすればよいのか戸惑った。
 あの懐かしい、結婚の約束まで交わしたアリュースだ。
 彼が今目の前にいる。
 懐かしくて嬉しいはずなのに、落ち着かない。
 今ここにいるのはアリュースには違いないが、やはりソニエの知るアリュースとは違う。
 すっかり成長し、ソニエより頭一つ分も背が高く、声も低くなり、手も一回りは大きい。
 ともに草原やら森の中ではしゃいだ幼い少年の面影は、その顔立ちや表情の中にかすかに残っているだけだ。
 しばらく見つめあったまま、互いの瞳は多くを語りながら、過去の想い出を回想していた。
 一瞬の間に記憶の中の時間は流れ、現在の現実へとたどり着く。
 それと同時に、それぞれの表情に陰りが浮かんだ。
「お互い、あの頃の予定とは全く違った未来を歩んでしまったわね……」
 ソニエは悲しい苦笑を浮かべてつぶやいた。
「……僕との約束を覚えていた?」
「忘れるはずがないわ。あなたは私の中でいつまでも特別な人。離れ離れになってからも変わらずに……」
「ソニエ、僕は父上の跡をついで、一人前になったら君を迎えに行くつもりだった」
「あなたも、ちゃんと覚えていてくれたのね。それだけで、すごく救われた気がするわ」
 本心からの言葉だった。
 信じ続けた約束は実を結ばなかったが、決して幻ではなかったのだ。
 アリュースはソニエの手を握っていた手に更に力をこめた。
「こんなことなら、帰国して真っ先に君を探せばよかった。もっと早くに君に会えばよかったのに。きみがまさかソユーブから離れるはずがないと、勝手に安心していたんだ。……僕は愚かだった」
「アリュース、愚かなのはわたしのほうなのよ。あなたとの約束より誇りより、ソユーブを選んでしまった。馬鹿なことをしたと思っているけれど……、どうしてもあの土地を手放すことなんてできなかった……」
「…………」
「お父様やお婆様、そしてあなたとの想い出も全てあそこにあるわ。何を犠牲にしても、ソユーブだけは守りたかったの。許して……」
 涙を溢れさせた瞬間、腕を引かれてアリュースの胸に抱き寄せられた。
 強く抱きしめられ、抱えていた花束が押しつぶされそうになる。
「いいんだ、そんなこと言わなくていい。ソニエ、きみは何も悪くない」
「……アリュース」
 温かい胸は、ソニエの中に切なく熱い想いを呼び起こした。
 人のぬくもりをこのように直接感じたのも、随分久しぶりのことだと気付く。
 不思議と心が落ち着き、安心感が全身を包んだ。
 しかしアリュースの体は震えていた。
 歯を強く噛み締め、ソニエを更に強く抱きしめる。
「ファルデローを、絶対に許さない」
 怒りと憎しみの入り混じった、押し殺したような声が頭上から聞こえた。
「あの親子がきみからソユーブを奪った。僕からきみを奪った……」
 泣いているのかと思うほど、彼の声と体は震えていた。
「アリュース……」
 離れていた八年もの月日は、決して二人の絆を風化させはしなかったのだ。
 ソニエは今、色褪せることなく心に眠っていた、アリュースへの想いを自覚した。
 頬を熱い涙が伝い、彼の上着を濡らした。



 ――――「嫌! 遠くへ行ってしまうなんて、絶対に嫌!」
 聞き分けのよい子供だったソニエが、その日だけは泣き叫んで大人を困らせた。
 出会いから三年。ソニエが十歳、アリュースが十一歳の夏。
 アリュースの父親の異動の季節。
 別れの朝はやってきた。
 それは最初から、確実に訪れるとわかっていた日だった。 
 彼の出立前、大人の目を盗んで二人はサテラの花畑へ逃げ込んだ。
 ほんのひと時の、しょせんはチェイリードの敷地内での、けれど精一杯の駆け落ちのつもりだった。
「アリュースは平気なの? 私と離れても平気なの? 私は平気じゃないわ。絶対に嫌よ……」
 鼻をすすり涙をボロボロと流しながら、ソニエは花畑の中でうずくまった。
 アリュースは彼女の前に腰を下ろし、向かい合った。
「平気なわけないよ。ずっとここで一緒にいたい」
「だったら! そうしましょうよ。ずっと私と一緒にいて。今からお婆様にお願いしに行きましょう」
「でも僕は、父上の跡を継がなければいけない。たくさん勉強して父上と一緒に色んな場所に行って、一人前にならなくちゃいけないんだ」
「……じゃあ、私も一緒にいくわ。連れて行って」
「無理だよ。きみはこの大農園の跡取りなんだよ。きみがいなくなったら誰がソユーブを守るのさ。そんなことしたらきみのお婆様だって、きっとひどく悲しむと思うよ」
「…………」
 くしゃっと顔を歪ませるソニエの肩に、アリュースはそっと手を添える。
「ソニエ。きっとまた、必ず会えるから」
「…………」
 泣き咽びながらうつむいてしまったソニエを、アリュースは悲しそうに見つめた。
 やがて彼は立ち上がり、花畑の中央へと歩いていった。
 何をする気なのだろうと、その後姿を泣きながら見守っていたソニエ。
 再び彼女の前に戻ってきたとき、彼は手に一輪の花を持っていた。
 青いサテラの花の、とびきり綺麗に花開いた一輪だ。
 それをソニエの手に握らせて、彼女を立ち上がらせた。
「……父上の後を継いで立派な大人になったら、そのときは、僕と結婚してくれる?」
 ソニエが顔をあげると、アリュースは頬を染めながら、けれどひどく真剣な表情をしていた。
「突然こんなこと、変かもしれないけど……、ずっと考えてた。僕は君が好きなんだ」
「アリュース」
 ソニエの涙は見事におさまり、代わりに頬がアリュースと同じ桃色に染まった。
「私だってアリュースが大好きよ。内緒だけど、お婆様よりも大好き」
「ソニエ!」
 アリュースは満面の笑みを浮かべ、ばっとソニエを抱きしめた。
「必ず、迎えにくるよ。立派になって、また必ずソユーブに戻ってくる」 
「……約束?」
「うん、約束。僕は約束を破らない。知ってるよね?」
 涙の乾いたソニエの顔に、やがて花もほころぶような笑みが浮かんだ。
「ええ。よく知ってるわ。……約束ね」
 初めての口付けは、昼食のデザートに出たシャーベットの味がして、お互いおかしくなって笑い出してしまった。
 二人を見守るように鮮やかに咲き誇っていた花達とともに、すべてが美しい思い出になった。
 決して実現しなかった、未来。
 このまま記憶の宝箱にしまわれたまま、終わってしまうものだと思っていた。
 今日、この夜までは――――。


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