PREV | NEXT | TOP

チェイリードの娘

 大広間に戻ると、そこはほどよく盛り上がっていた。
 ダンスに興じる人々や、至る所で輪を作って会話に花を咲かせる人々。
 ソニエとアリュースが二人して中庭から戻っても、誰も気付きはしなかった。
 大広間の人々の中に、セディックの姿は見当たらない。
 シェリル嬢は別の貴族の男性とダンスの最中だった。
 夫の姿が見えないことに胸を撫で下ろしていると、アリュースに軽く手を引かれた。
 ソニエを彼の正面に立たせるようにし、アリュースは畏まった動きでお辞儀をする。
「私と躍っていただけますか」
 どこぞの騎士を真似たような仰々しい仕草がおかしくて、ソニエは笑った。
「ええ、よろしくてよ」
 このような軽いふざけ合いもまた、かつての楽しい遊びを思い出させてくれる。
 今は楽しさに加え、胸のときめきもあった。
 アリュースはソニエの手をとり、ホールの中央へと導いていく。
 さっきまで居心地の悪かった豪奢なダンスホールが、今はひどく幸せな空間に思えた。
 煌びやかな装飾も、眩いシャンデリアも、着飾った人の群れも、全てが嫌な威圧感を失っていた。
 ゆったりとした音楽に合わせてステップを踏む。
 近すぎる距離に少し照れくささを感じながらソニエが見上げると、アリュースは真っ直ぐに彼女を見つめていた。
 思いがけず真剣な視線に、ソニエの胸は高鳴った。
 そのまま彼の瞳に捕らえられ、目をそらすこともできず、見つめあった状態のまま二人はメロディに身を任せた。
 少年の頃の面影を確かに残しながらも、彼はすっかり立派な青年だった。
 握り合った手も大きく、肩幅や胸も広くたくましい。細身ではあるが、女のソニエとは全てが違っていた。
 表情もすっかり大人びて、気の強さを秘めつつも瞳は穏やかで、時に包容力さえ感じさせた。
 ソニエに向けられる眼差しには、あの頃のような優しさだけではなく、情熱めいた光がある。
 しだいに息苦しさをおぼえ、頬を真っ赤に染め上げたまま、ソニエはうつむいた。
 ダンスを続けながらも、触れている手から何か未知のものが流れ込んでくるようで、ソニエの体温は上がるばかりだった。
 曲の演奏が途切れたところで、二人の足は止まった。
 顔を上げられずにいると、アリュースは彼女の額に触れて気さくに笑う。
「熱があるのかい? なにか冷たいものでも取ってこようか」
「あ、いえ、わたし……」
 なんとか見上げると、そこには緊張を解かせるような優しさだけの穏やかな瞳があった。
 口ごもっているソニエの額を軽く撫でるようにして、アリュースは彼女から離れた。
「そこで待っていて。飲みものを取ってくる。少し休憩しよう」
 のぼせ上がったような表情でただ見ていると、彼は一度振り返り、一言小さく呟いた。
「その熱、僕が原因なら嬉しいんだけど」
「…………」
 彼女の反応を見ずに人垣の向こうへ消えていくアリュースを、ソニエはますます熱に浮かされた状態で見送っていた。
 このような気持ちは、初めてだった。
 幼いアリュースとの日々でさえ、このように胸が燃えるような感覚は味わったことはない。
 いつだって穏やかな温もりに包まれて、ときに小さなときめきを感じるだけだったのだ。
 


 アリュースが戻るより早く、ソニエの熱は冷めた。
 後ろから急に、腕をぐいと引っ張られる。
 思わずよろめいた足元を整えて見上げると、眉間に皺を寄せた冷たいセディックの顔がった。
「さっきはどこへ行っていた。まさか自分の務めを忘れたわけではないだろうな」
「……あ、ごめんなさい。古い知り合いに、偶然出会ってしまって……」
 一気に青ざめた表情で、ソニエは俯いた。
 ひょっとして先程のアリュースとのダンスを見られていたのだろうか。
 ダンスくらい決してやましい行いではないはずだが、彼の叱責を恐れてしまうのは、ソニエの中に抱いてはいけない感情が芽生えていたからかもしれない。
 しかし予想に反してセディックは何も言わず、ただ彼女の腕を引っ張った。
 相変わらず労わりも何も感じられない仕草だった。
「大公夫人が会いたいとおっしゃっている。そのために連れてきたんだ。わかっているだろうが、くれぐれも夫人のご機嫌を損ねないようにするんだ。いいな?」
 一方的に命令口調で並べ立て、彼は早足で進む。
 掴まれた腕の痛みに顔を歪ませながら、ソニエは小走りでセディックの歩みに従った。



 大公夫人は、美しく斑のない白髪とシャンと伸びた背筋が印象的で、気品と威風を漂わせた人物だった。
 さきほどパーティの始めに遠目に見た姿となんら変わらない。
 知的な青い瞳は切れ長で美しく、若い頃は相当な美女だったことをうかがわせる。
 だが髪の色や瞳の色に加え、笑みを見せない無表情がどこか冷たさを感じさせた。
「お初にお目にかかります。ソニエ=フラン=チェイリードです。お招きに与り、大変光栄に存じます」
 お辞儀をして挨拶を述べる間、終始緊張感が体を固くしていた。
 顔を上げた時に見た夫人の表情にはやはり変化がなく、脇に立つセディックはどことなく苦い表情でこちらを見ている。
 しばらく続いた沈黙は居心地の悪いもので、ソニエの心臓は嫌な高まりを繰り返した。
 やがて静寂の中に、思いがけない笑い声が上がった。
 見れば大公夫人が口元に扇を当てながら、どこか乾いた笑いをたてている。
「…………」
 それは嘲笑ともとれる笑い方で、無表情の時よりも更に冷たさを感じさせた。
 状況が飲みこめないソニエと、仏頂面のまま突っ立っているセディック。
 大公夫人は笑いをおさめた後も、暗い楽しみを味わうような表情を浮かべていた。
「よく、参られました。チェイリードのソニエ嬢。以前からあなたには会っておきたいと思っていたのです」
 夫人は含み笑いを隠しもせずに、言葉を続けた。
「薄情な夫に従わねばならない、どこまでも不遇な方。そんな名高い旧家の姫君に興味を抱かずにはおれません。意にそまぬ婚姻に、今も深い憂いを抱いているのでしょう?」
「…………」
 たちの悪いからかいのように聞こえて、ソニエは眉をひそめた。
 横に立っていたセディックがさすがに口を挟む。
「夫人……」
「あなたは黙っておいでなさい。わたくしはソニエ嬢とお話がしたいのです」
「しかし……」
「賭けはわたくしの勝ちですよ。セディック、あなたを不憫に思わないでもありませんが、自業自得といえなくもない。それがよくわかりました」
「…………」
 彼らの会話の意味は理解できないが、伝わってくるのは、ソニエにとって決して気持ちのいいニュアンスではなかった。
 ただセディックが面白いくらい抑圧されているのが、興味深い光景ではあった。
 わかりやすく媚びるならまだしも、先程からずっと苦虫を噛み潰したような顔のまま、彼は夫人の言葉を聞いている。
 それは彼のいつもの取り入り方とは随分違っているように思えた。
 やりとりを見る限り、セディックと夫人はかなり親しい間柄のようにも思えたのだが。
 いずれにしろ目の前にいる老齢の淑女が、彼に対して相当な発言力をもっているのは明らかだった。



「確か、ノガロイテよりも更に北でしたね。ソユーブは」
 唐突に飛び出した故郷の名に、ソニエは思わず大公夫人を凝視した。
 ノガロイテとは、ソユーブよりやや南西に、つまりこのアラトリムに多少近い位置にある地方都市の名だ。地方とはいえ流通で栄え、商業都市としてそれなりににぎわっている。
 しかし遠い。そのノガロイテでさえ、このアラトリムからは馬をかけても半日はかかる。
 その地を引き合いに出すことで、ソユーブがいかに辺境にあるかを強調することができるというものだ。
 だがそのようにソユーブの話を切り出した夫人の意図は、ソニエには理解できない。
「……はい」
 他に返す言葉もなく、相手の言葉を黙って待つしかなかった。
「国境近く、人口も疎らな寂しい荒野。冬になれば降り積もった雪で人足も途切れてしまう、決して豊かな土地とはいえない場所。かつては誰も好んでかの地に住まおうとは思わなかったと聞きます」
 夫人は特に返答や意見を求める風ではなく、ただ淡々と語っていた。
 ソニエはやはり、ただ黙って話を聞くしかなかった。
 確かにソユーブに対する夫人の所見は一般的に的を射ているが、話の先がまったく読めなかった。
 ソニエに構わず夫人は続ける。
「けれどその土地に好んで居着き、かつて密やかな繁栄を築いた一族がいました。――”チェイリード”。その名はこの国において闇に埋もれた最大の秘密を抱えている。……どういうことかご存知ね?」
 徐々に話が核心へと迫っていく。
 穏やかに、けれど見えない威圧感でもって相手を制する話し方だ。
 緩んだ口元とは裏腹に感情をまったく垣間見せない瞳が、ソニエを萎縮させる。
 ようやく夫人の話の筋が読めたとき、ただ嫌な予感を感じた。
「あの……」
 口を開きかけ、ソニエは一瞬セディックにちらりと目を向ける。
 彼は微動だにせず、無機質な目でソニエを見下ろしていた。
 常の嘲笑や仏頂面などは消えうせている。
 セディックと夫人の繋がりが、思いがけずソユーブに関するものなのだと気付き、ソニエはまた戦慄した。
 大公夫人ともあろう者が、ソユーブやチェイリードに関心を抱く理由。
 それはソニエにとってひどく不吉な感じがしたのだ。
「ソユーブに、なにを……。確かにチェイリードは秘密を抱えた一族です。けれど、今はその多くが失われ、残った末裔は何の力も持たないわたしだけ……。今更、興味をお持ちいただくことなど……」
 細い声で恐る恐る返したソニエに、夫人は意味ありげな笑みを見せる。
 口の端を上げるだけの微笑み。
 瞳は相変わらず鋭くソニエを観察しているが、穏やかな声色のまま彼女は言った。
「あなたは知らないのですね。かの土地に眠る、とてつもないチェイリードの遺産を。遺産といっても、金貨や宝石などではありません。とてつもないとは、そのような目に見える代物ではなく、人を、国を、歴史を、大きく揺るがすもの」
 ――――遺産。
 広大な薬草農園と、古びた屋敷、そして鬱蒼としたクローザの森と、その先にあるコーネル谷。
 それがソニエの知るソユーブのすべてだ。
 商業を営むセディックにとっては薬草畑くらいは多少価値のあるものかもしれないが、大公夫人が興味を抱くほどに何か特別なものがあるとは思えない。
 確かにチェイリードにはかつて、毒薬や劇薬の技術があったと聞いている。
 しかしそれらはとうに失われ、ソニエに伝えられたものは手軽な薬草の調合法だけだ。
 夫人の言葉はそれらとは別のものを指しているように聞こえたが、ソニエには彼女の語るものの正体がまったくわからない。
「おっしゃっている意味が、わかりません」
 弱々しく返すソニエに、夫人はまた笑った。
「そうでしょうとも。だからこそ、そのように無防備でいられるというもの」
「……無防備?」
 ますます意味がわからないソニエは、ただ不信感を募らせる。
「あなたはチェイリードの血を引く、唯一の子孫。その意味を、当人であるあなたが何も知らない。先代の当主から何も伝え聞いていないとは驚きです」
「先代……、祖母は、何も……」
 ソニエは目を伏せて、晩年の祖母のことを思い返した。
 彼女はソニエに、チェイリードの薬師一族としての歴史を語り聞かせたことはあった。
 しかしそれ以外の重要な何かを聞かされた記憶はない。
 あえて挙げるなら、ソユーブを離れてはならない、と、そのことだけをソニエに義務として強く言い聞かせていた。
 もっとも、言われるまでもなく、ソニエが自らソユーブを離れたいと思うことなど一度も無かったのだが。
「ソニエさん、わたくしがあなたにお会いしたかった理由は一つだけ」
 夫人の言葉に、ソニエは再度顔を上げた。
 蝋人形のように整った夫人の顔はソニエに向けられたままだ。
 何かを見定めるような青い目線が突き刺さる。
 対照的に声だけは変わらず穏やかで、その温度差が余計に彼女の緊張を煽った。
「あなたに伝えたかったのです。――お気をつけなさい、と」
 ソニエは出てきた言葉の意味を図りかねた。
 夫人の言葉はなにかと揶揄的で、意図を汲み取ることができない。
 紅の引かれた薄めの唇が意味深に吊りあがる。
「あなたの受け継いだものを利用して、よからぬことを企む者がいるはず。やがてその者はあなたに近づき、チェイリードの遺産を我が物にせんとするでしょう」
 そこで夫人は銀細工の椅子から立ち上がり、静かにソニエの前に歩み寄った。
 シャランと二連の腕輪が音を立てる。
 夫人はソニエより身長が高かった。
 細いながらもすらりと伸びた背筋と立ち姿が、常人にはない威厳をかもし出している。
 その身に見えない青い炎を纏っているようで、ソニエは圧倒される。
 動くこともできない。
 夫人は視線を逸らさないまま、ソニエの手をとった。
 予想通り体温の感じられないひんやりとした感触が、汗ばんだ手にゾクリと伝わる。
 ソニエ自身も夫人から目がそらせないまま、ただ立ち尽くしていた。
「わたくしはあなたを、よからぬ者達から助けたいと思っているのですよ」
 思いがけない囁きに、瞳を大きく開いた。
「妙な者の甘言に惑わされないことです。けれど恐れる必要などありません。あなたの処遇は、わがエルブラン家でよしなに取り計らいましょう」
「おっしゃってる意味が、わたしには全く……」
「今は自分の身を護ることだけを考えればよいのです。何か異変があればすぐにわたくしに知らせなさい。それから、むやみにチェイリードの名を語らぬことです。仮にもファルデロー家に嫁いだ身でしょうに」
 ソニエの手を軽く握ったまま、夫人は続けた。
「わたくしは、チェイリードに縁がある身。ソユーブの地をよからぬ者に荒らされることを快く思いません」
 これには心底驚いて、つい言葉を挟んだ。
「……お待ちください。チェイリードに縁があるとは、どういう……」
 夫人はすうっと目を細めた。
「……遠い昔のことです。あなたが知る必要もないこと」
 ソニエの問いを退け、夫人はまた思いがけないことを言った。
「近づいてくる者に注意なさい。簡単に心を開いてはなりません。特に、古い知り合いだとか……、そう、たとえば、――幼馴染だとかね」
 ソニエはぎょっとして体を強張らせた。
 アリュースのことを言っているのだろうか。
 まさか今日再会したばかりの彼の情報が、この夫人の耳に入っているとでも……?
 いや、ひょっとするとすべてを見られていた可能性も否めない。
 すべてはこの大公家の屋敷で起きた出来事だ。
 監視するつもりなら決して不可能ではなかったはずだ。
 ――――監視。
 そう考えるとソニエはぞっとした。
 思わず夫人の手をふりほどき、数歩後ろへ下がった。
「おい!」
 意図せず無礼をはたらく格好になり、すかさずセディックが声をあげる。
 しかしそれを夫人が制止する。
「よいのです。話は終わりました。ソニエさん、下がって頂いて構いませんよ」
「…………」
 ぴしゃりと話を切ると、表面的な笑みを浮かべながら夫人はソニエから離れた。
 ソニエの態度に機嫌を損ねたというふうではない。
 ただ要件がすむともはや関心がないとでも言わんばかりに、なんの余韻も残さず会話に幕を下ろしたのだった。


PREV | NEXT | TOP
Copyright (c) 2007-2008 sayumi All rights reserved.