PREV | NEXT | TOP

チェイリードの娘

 部屋から出ると、そのまま逃げるように小走りで廊下を進んだ。
 厚い毛織の絨毯が敷き詰められた廊下では、至るところに飾られた骨董物の壷や有名な絵画が惜しげもなく興を振舞っている。
 しかしそのようなものに目をくれる余裕もなく、ソニエはひたすら足を動かした。
 一刻も早くここから離れたかった。
 不快な気持ちが広がるのをとめられなかった。
 離れの建物から出て中庭へ続く回廊へ来たところで、一度立ち止まった。
 舞踏会の会場である大広間への入り口は、もう目の前に見えている。
 人々の談笑やグラスの触れ合う音が、しっとりとした音楽のメロディに乗って聞こえていた。
 ――――恐い。
 それがなにより今の彼女の感情をあらわすのに相応しい言葉だった。
 チェイリードという名が、急に恐ろしいものに思えてくる。
 ソユーブに、チェイリードに、祖母に、なにかソニエの知らない秘密がある。
 とてつもない秘密だ。
 そしてそれをソニエではなく別の人間が知っているのだ。
 どこの誰かもわからない何者かが、それを狙い、つけ入る機会をうかがっていると……。
 ソニエは胸を押さえて壁に寄りかかった。
 自分はただ、愛する故郷へ帰りたいだけだ。他に何も望まない。
 それなのになぜこうも奇妙な方向へと話が進んでいくのか。
 あまつさえ、アリュースを疑えなどと……。
 大公夫人の言葉をあっさり信じる気分にはとてもなれなかった。
 彼女はセディックと通じているのだ。何か裏があるように思えてならない。



「ソニエ!」
 ふいに名前を呼ばれ、ソニエはびくりとなった。
 しかし相手の顔を見るや、すぐにその強張りも解けた。
「アリュース……」
 回廊の壁際に立ち尽くすソニエのもとへ、彼は向かってくる。
 ――――『たとえば、幼馴染だとかね……』
 脳裏にさきほどの夫人の言葉がよみがえり、一瞬体が強張った。
「ソニエ、どうしたんだ? 飲み物をもって戻ってみると姿が見えないから。……ソニエ?」
 微かに青ざめていた彼女の顔を覗き込み、アリュースが心配げに尋ねた。
 深い色の瞳。誠実な眼差し。
 少年時代と変わらず、まっすぐできらきらしている。
 彼の中に見える懐かしい面影が、しだいにはっきりしてくるのがわかった。
 黙って彼を見上げたまま、ソニエは泣きたい気分になった。
 ――――どうして、私がアリュースを疑えるというの……。
 彼を信じずして、いったい誰を信じろというのか。
 アリュースの瞳に宿る光が、歪んだものだとは到底思えない。
 昔と変わらず、そこに浮かぶのは真実だけだ。
「ソニエ、いったい何があった?」
 涙さえ零しかねない、極限まで潤んだ瞳を前に、アリュースは少しうろたえているようであった。
 少し躊躇したあと、彼は腕を伸ばして遠慮がちにソニエの肩を抱いた。
「顔色があまりよくないね。あっちで少し休んだ方がいいよ。行こう」 
「ごめんなさい、アリュース。わたし……」
 彼に誘(いざな)われて歩き出したところで、今度は別の声がソニエの名を呼んだ。
 その声に、今度こそソニエは怯えた。
 立ち止まり振り返ると、さきほどの建物からセディックが出てくるところだった。
 若干和らいでいたあの嫌な気持ちが、再度心の中にざわざわとよみがえる。
 セディックの顔は厳しく、彼が何か口を開く前から、飛び出すであろう苦言が予測できた。
 側まで来ると立ち止まり、予想どおりに顔をしかめる。
「何をしている。すぐに屋敷に帰れと言ったはずだが」
「…………」
 大公夫人と謁見したあの部屋を出るとき、彼はソニエに命じたのだ。
 そのまますぐ屋敷に帰るように、と。
 いつものように一方的な命令だった。
 ソニエの体を支えるように立っていたアリュースは、そのままの体勢でセディックに向き合った。
 ソニエの角度からは、横髪に隠れてアリュースの表情はうかがえない。しかし彼女の肩を抱く腕の力が強まったように思えた。
 セディックはそんなアリュースに目をやり、それから再びソニエのほうへ目線を移す。
 嘲るような冷笑がソニエの眼に映った。
「まったく……、どこまでも失望させてくれる。よりにもよってこのような場所で男遊びか。愛人をつくるのは勝手だが、場をわきまえてもらいたいものだ。俺の立場を少しでも考えたことがあるのか、おまえは」
「セディック、やめてちょうだい、この人は……」
 ソニエの言葉をさえぎり、アリュースがセディックの前に出た。彼女を背後に庇うようにして立ちはだかる。
 その時垣間見えた横顔はとても険しく、強い瞳がセディックを睨みつけていた。
「ファルデロー殿、何か誤解をされているようですね。僕はただ、具合の悪い彼女をあちらで休ませようとしていただけだ。それをそのように下種な言い方で非難される覚えはない」
「……誰だ貴様は」
 セディックの薄青い目が細められ、アリュースに向けられる。完全に相手を見下した表情だった。
 それを強烈な視線で跳ね返し、アリュースは低い声で名乗った。
「アリュース=ラナ=アークレイ。デモントの第七公家・リード公にお仕えしています。ソニエ嬢とは古い知り合いで、今夜偶然に再会を」
「……偶然に再会? よく言ったものだ。最初から思うところがあってこの会場に潜り込んだのだろう。でなければ第七公家に繋がる者が、アラトリム大公の屋敷に入れるはずがない」
「…………」
 アリュースは一瞬、言葉に詰まった。
 この国に七つある公家(こうけ)は、それぞれが七つの大都市に配置され、その周辺地域を治めながら国王に仕えている。
 このアラトリムの大公は序列で表すならば第三公家と呼ばれ、東に隣接するデモントを治める第七公家とはなにかと不和が多い。
 確かに本来ならば第七公家に仕えるアリュースがこの夜会に招かれるはずがない。
 だが彼は今、アラトリムのケスパイユ候のもとにいる。
 おそらくケスパイユ候の計らいで、彼はここへ来ることができたのだろう。名も伏せているに違いない。
「なにか企みがあってのことか。まさかとは思うが、人の妻に手を出すためにこんなところへのこのこと潜り込んだとでも?」
 くつくつと嫌な笑いをこぼしながら、セディックは言った。
「セディックいい加減にして! 失礼にもほどがあるわ!」
 たまらずにソニエが声をあげる。
 しかしセディックは当然のようにそれを無視し、アリュースはアリュースで挑発を流せずに真正面から言葉を返す。
「……だとしたら、どうだというんです」
 これにはセディックの眉がピクリと動いた。
 ソニエも驚いてアリュースの背に目を向ける。
 黒い髪に覆われた後頭部は微動だにせず、まっすぐに正面に立つ男に向けられたままだった。
「ソニエは僕の大事な幼馴染で、結婚の約束をした仲だった。それがあなたの父親のせいで、すべて壊れた。あなたの父親とあなたは、親子揃ってソニエの人生を狂わせたんだ」
「…………」
「あなたに彼女の人生を弄ぶ権利などない。今宵この場所で我々が運命的に再会したとして、それをとやかく言う権利があなたのような男にあるとは思えない」
 セディックは大して興味のないような顔でアリュースの話を聞いていた。
 嘲るような目線をソニエのほうへ向けた。
「おまえもよくよく自分の立場を理解しない奴だ」
「……立場? そんなもの……。私はもう、これ以上あなたの言いなりになどなりたくないわ」
 ソニエは強い目線で真正面からセディックを睨む。
 常には無い大胆な反抗だった。
 セディックが忌々しそうに顔をしかめる。
 そして大きく息を吸い込み、有無を言わさぬ強い口調で彼女に命じた。
「いいか、三度目はない。屋敷に帰るんだ。――今すぐだ!」
 その鋭い語調に、ソニエは反射的にビクリと体を震わせる。
 この状況でもセディックの言葉は絶対だった。
 彼が形式上はソニエの夫であり、養い主であり、そしてソユーブの権利を握っているという事実が、否応なく彼女を服従させる。
 とても卑怯なやり方で、ソニエを縛り付けていた。
「ファルデロー、いい加減に……」
 怒気を露に言葉を挟もうとしたアリュースを完全に無視し、セディックは冷たい口調でソニエに釘をさす。
「逆らうことは許さん。言うとおりにするんだ。いいな」
 一方的に吐き捨てるように言い残し、セディックは背を向けて立ち去った。



「ソニエ! アリュース! 二人ともいったいどこへ行っていたんだ」
 アリュースに支えられるようにしてホールへ戻るなり、ケスパイユが彼らのもとへ歩み寄ってきた。
「すみません、おじ様……」
 ソニエの焦燥も露な表情に、ケスパイユは顔をしかめた。
 深く皺の刻まれた精悍な顔に、憂いが浮かぶ。
「どうしたんだ。何かあったのか」
 ソニエの隣に立つアリュースに目を向けて、彼は尋ねた。
 しかしアリュースもまた固い表情で押し黙っている。
 途方に暮れたように二人を見やりながら、ケスパイユは深い溜息をつく。
「お前たちを会わせたのは、少し早すぎたか……」
「――いいえ」
 すかさず言葉を返したのはアリュースだった。
 彼は唐突に、何かを思い切ったようにソニエの手を掴み、歩き出した。
「アリュ……っ」
「ケスパイユ候、すみません。彼女と話をしたいもので」
「お、おい……」
 一言言い残し、ずんずんとアリュースはソニエを引っ張っていった。
 ソニエの細い手首を握り締める手が熱い。
 熱く、強い力だった。
「アリュース、ちょっと……」
 唖然としたまま取り残されたケスパイユ候を尻目に、あっという間にホールを出て中庭へ突き進んだ。
「アリュース、手が痛いわ。どこまで行くの」
 人気の無い中庭の、円形の花壇の辺りにまで来て、ようやく彼は立ち止まった。
 そこで彼女の手首から手を放す。
 ソニエは強引なアリュースの行いに戸惑いつつ、彼の背に声をかけた。
「……あの、ごめんなさい。セディックが、本当にひどいことを……。あなたにまで嫌な思いをさせてしまって……」
 言い終わらぬうちに、アリュースは振り返った。
 その表情はしかし、予想に反して穏やかで、常の優しい瞳がソニエを見下ろしていた。
 同時に、そこにはわずかに悲しみが感じられた。
「きみが謝ることなんて何も無いじゃないか。わかっていて馬鹿らしい挑発に乗ったのは僕だ」
「でも……」
「むしろ僕は今日きみにあえてよかったと、心底そう思ったよ」
「アリュース」
「ソニエ、僕はきみがあの男のもとで辛い思いをするのを、黙って見てはいられない。僕は……」
 アリュースが言葉を続けようとしたところで、それを阻むものがあった。
「――ソニエ様」
 はっとして、二人同時に声の方を向く。
 ホールから届く光を背に受けて、シルクハットを被った初老の男が一人、立っていた。
「ソニエ様。お屋敷へ。馬車でお送り致します」
「……レオン」
 ファルデロー家に先代から仕える執事、レオンだった。
 彼はセディックの命に従い、常々屋敷内でもソニエを監視している。
 一見して穏やかな表情の老人だが、セディックの忠実な僕であり、時々垣間見せる威圧感も相まってソニエは逆らうことができない。
「旦那様の御命令です。奥様」
「…………」
 苦い顔で相手の顔を見据えながら、ソニエは深く息をついた。
 用がすめば、大公夫人の話がすめば、もはやこの公の場にいることさえ許されないというのか。
 自分は愛人と夜明けまで楽しみながら、ソニエには一切自由を与えないというわけだ。
 そうまでしてソニエを屋敷に閉じ込める理由は、やはり大公夫人の話と関連しているのだろう。
 しかし夫人が話したような内容をそのまま信じることはできない。
 ことにセディックに関しては、嫌々にソニエを手元に置いているというのが態度から明らかだ。
 どうやら逆らえない相手らしい大公夫人に、何か含まされているのかもしれない。
 何かを企んでいるというのなら、むしろそれは大公夫人やセディックのほうなのではないかと、疑念を抱かずにはおれない。
 けれど今は、彼らに逆らうすべなどなかった。
「アリュース……」
 ソニエと同じく苦い顔で、彼は現れた老人を見やっていた。
「ごめんなさい、帰らないと……」
 アリュースは苦い顔のまま、ソニエに視線を戻す。
「ソニエ、きみはソユーブのために、いつもこんなふうにあの男に従っているのか」
「…………」
 ソニエは目を伏せた。
「……ソユーブの権利は今、あのセディック=ファルデローのものだから。一度も故郷へ帰らせてもくれないし、何を企んでいるのか知らないけれど、私の力ではどうすることもできない……」
「僕が、なんとかする」
「え、……あっ」
 一瞬のうちに腕を引かれて、アリュースの胸の中に倒れこんだ。
 ソニエの体を抱きとめ、彼女の耳元で彼は告げた。
 強い思いを感じさせる、押し殺したような声。
「今の僕には力がある。君もソユーブも、僕が必ず奪い返してみせるから」
「アリュース」
「待っていて。すぐに君を自由にするよ」
 ソニエはその言葉に、気の遠くなるような恍惚感を覚えた。
 アリュースにすべてを委ねてしまいたい衝動が駆け巡る。
 そしてその瞬間、ソニエはソユーブのために見知らぬ男のもとへ嫁いだ自分を激しく悔いた。
 たとえソユーブを失ったとしても、大切な人が側にいてくれたならよかったのではないかと……、そんな重要なことにようやく気付いたのだ。
 だがその雰囲気を断ち切るように、咳払いが響いた。
 当然、意図的なものだ。
 レオンが渋い表情を浮かべ、ソニエを急き立てている。
 二人は向かい合い、一度正面から互いの視線を絡ませたあと、ソニエが彼のもとから離れた。
 レオンに誘導されて正面玄関へ向かいながら、何度も後ろを振り返る。
 そのたびに、切ない目で彼女を見送るアリュースの姿があった。
 やがてその姿も見えなくなり、正面玄関へ着くなりソニエは待機していた馬車に乗せられる。
 レオンの指示で御者が馬を進ませ、馬車は大公の屋敷から遠ざかる。  夜の街道へ向かって坂を降りていった。


PREV | NEXT | TOP
Copyright (c) 2007-2008 sayumi All rights reserved.