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チェイリードの娘

 翌日の朝まで、ソニエはほとんど一睡もできなかった。
 原因は多くある。
 まず、舞踏会の夜はあまりに多くの出来事がありすぎた。
 アリュースやケスパイユ候との再会。大公夫人との謁見。そして、別れ際のアリュースの言葉……。
 だが、それだけではない。
 彼女の睡眠を妨げていた最大の原因は別のものだ。
 馬車で屋敷に送り届けられるなり、玄関ホールでとんでもないものが待ち受けていた。
 使用人の寝静まった静かな空間に、佇む人影が一つ。
 闇に紛れるように、不気味としか言いようの無い気配を放ちながら、老婆はソニエの前に姿を現した。
 ファルデロー家の奇妙な同居人。
 夜毎おかしな笛の音でソニエを悩ませる、甚だ迷惑な老人だった。
 だがいつもなら、老婆はほとんど自室から出てこない。
 自らソニエの前に姿を現すことなど、今まで一度も無かったのだ。
 近くで見ると、彼女の姿はより奇異なものであった。
 腰は曲がりきり、小さな体が余計に収縮して見える。
 もともとは結い上げられていたであろう白い髪は振り乱れ、しわくちゃの顔や骨ばった肩の上にざんばらに降りかかっている。
 ズルズルと床を引きずるおかしな形の衣装は相当古びているが、どこかの民族衣装のようにも思えた。
 しかしその老婆が醸し出す異様な雰囲気は、その身なりによるものばかりではない。
 ソニエをすくみ上らせたのは何より、彼女の目だ。
 暗がりでもわかるほどに、老婆の大きな瞳は赤い光を宿している。
 決して見間違いではなく、そのように見えた。
 思わず後退するソニエに向かって、気がふれたように老婆は叫んだ。
「呪いじゃ! あさましい呪いの気配が纏わりついておる!」
 異質な光を放つ目を剥き出しにして、年老いた女は何を勘違いしたのか、ソニエを指差しながら甲高い声をあげる 。
「わたしには見える……。おまえは呪われておる! 呪われておるのだ!」
「…………」
 ただ怯えるよりほかに、ソニエにはどうすることもできない。
 老婆の狂乱する姿が恐ろしく、耐え切れずに耳を塞いだ。
 やがて騒ぎを聞きつけた使用人たちが一人二人と起き出して、深夜の屋敷に灯りがともる。
 老婆は駆けつけた使用人によって取り押さえられ、自室へと連れて行かれた。
 その間中しつこく何度も同じ言葉を叫び続け、部屋に入れられた後は例のおかしな笛を吹き始めた。
 耳をつんざくような老婆の笛の音は、いつにも増して激しく屋敷中に響き渡る。
 ことに老婆の居室の真上にあるソニエの部屋では、響く騒音は半端なものではない。
 一晩中耳を塞ぎ、ベッドの上で体を丸めながらソニエは長い夜に耐えた。
 


 朝の光が差し込む頃、いつしか笛の音は途切れ、ソニエはうつらうつらと浅い眠りの中を彷徨っていた。
 目覚めた時は既に日が高く、頭には重々しい痛みがあった。
「お目覚めですか、ソニエ様」
 召使いのカレンが部屋の扉を叩く。
「……ええ、起きているわ、カレン」
 返答と同時に扉が開き、カレンが朝食のトレーを持って入室する。
 頭を抱えているソニエを見ると、慌てたように駆け寄ってきた。
「ソニエ様、どこか具合でも? ……まあ、昨夜のドレスのままじゃありませんか!」
 昨夜はとても着替える気力もなく、ベッドの中でひたすら奇怪な笛の音に悩まされ続けた。
 通いの使用人であるカレンはそのことを知らない。
 彼女は夜になれば郊外にある自宅に帰り、夜明け前にこの屋敷に通ってくるのだ。
「……また、あの老婆のせいですのね」
 ソニエの様子から事情を察したように、カレンは顔をしかめた。
「なんなのでしょう、あの迷惑な方は。いったい旦那様は何を考えてらっしゃるのやら……」
 カレンが差し出したグラスを受け取り、ソニエは水を飲み干した。
 喉にひんやりとした潤いがもたらされ、幾分か気分が楽になる。
「そういえば、昨晩はソニエ様お一人でお戻りに……?」
「ええ、そうよ」
 昨晩、やはりセディックは帰宅しなかったらしい。
 ソニエにとってはどうでもいいことだが、カレンはなにやら気遣うような目線を向けてくる。
 その彼女の手にあった小さな封筒のようなものに、ソニエは気付いた。
「……カレン、それは?」
「あ、はい、今朝ソニエ様宛に、届けられた郵便です」
 カレンが差し出したのは、ごく一般的な手紙の封筒だった。
 ありふれた形状の代物だが、宛名のみで、差出人の名は書かれていない。
「……なにかしら」 
 蝋の封印をとき、中の便箋を取り出した。
 四つおりに畳まれた妙に厚みのある便箋は一枚きりだ。
 それを開いた瞬間、ソニエは戦慄した。
「…………っ!」
「……ソニエ様?」
 不審に思ったカレンが、紅茶を注ぐ手をとめて、再度駆け寄ってくる。
「どうされましたか?」
 言いながらソニエの手元をのぞきこみ、そして彼女も目をむいた。
「な! ……なんですの、これ!」
 ソニエの手はガタガタと震え、そして手にした便箋を投げ捨てた。
 手放したあとも、手が軽く痙攣している。
 全身に冷たい汗をかきながら、ソニエは震えた。
 カレンも顔を青く引きつらせたまま、投げ捨てた便箋をおぞましげに見やっている。
「……なんてひどい。いったいどこの誰がこのようなことを……」
「…………」
 言葉もなくガクガクと震えるソニエの肩を抱きながら、カレンがかろうじて言葉を吐く。
 便箋を開いた瞬間に目に入ったものは、おぞましいものだった。
 おそらく、蜘蛛(クモ)だ。
 ただの蜘蛛ではない。巨大な、そして毒々しい色をもった蜘蛛の死体が、押し潰されて紙の真ん中に張り付けられていた。
 その横に数行の簡潔な文章がある。
 人の手で記されたものではなく、印刷用の文字型を一つ一つインクで押していったような無機質な字が並んでいた。
 
 ――――呪われた娘。災いの血を引く娘。災厄とともに滅ぶがよい。
 


 その日の午後。
 ショックで臥せっていたソニエは、思いも寄らない知らせを聞いた。
「ソニエ様……、お休みのところ失礼致します」
 遠慮がちに部屋に入ってきたカレンが言いにくそうに告げる。
「あの……、司法庁の方がいらっしゃって……、ソニエ様にお話をうかがいたいと……」
 ――――司法庁。
 日頃聞きなれない響きにいぶかしい思いを抱く。
 街の秩序と治安を守るための行政機関。そんな役職にある人間が、いったい自分に何を聞きたいというのだろう。
 ソニエはかろうじて簡単な着替えを済ませ、髪を軽く結ってから階下に下りた。
 応接間の一つに足を踏み入れると、そこには見知らぬ男が二人、ソファーに腰掛けていた。
 どちらもビシリと詰襟の官服を着用し、短い円筒形の制帽を頭に乗せている。
 ソニエに気付くと、二人同時に帽子を取って立ち上がる。
 そして深々と折り目正しく頭を下げた。
「どうも、突然お伺いしたりして御無礼をお許しください。わたくし、司法庁アラトリム支局、副長官のフラウ=ロイトナーと申します」
「同じく副長官補佐、カザンティ=アランドであります」
 一人は額がやや後退しかけた中年の、もう一人はまだ二十代くらいの年若い男だった。
 二人とも礼儀正しく、しかし向けられる視線は何かを探るように、厳しく彼女を観察している。
「ソニエ=フラン=チェイリードです。どうぞ、おかけください……」
 ソニエは遠慮がちともいえる声で彼らに着席を促した。
 彼らが何用でこの屋敷に……、ソニエのもとを訪れたのかはまだ、想像もつかない。
 しかしカレンの話によると、彼らは司法庁長官の正式な許可状を携えてきたという。
 本来、犯罪捜査に携わる司法庁の役人といえども、貴族系の屋敷に許可無く立ち入ることは許されていない。
 ファルデローはまだ正式には貴族の称号はもたないが、このアラトリムにおける権勢を考えれば、その扱いはほぼ同格にあった。
 そしてそのような許可状はそうそう簡単に出されるものではない。
 徐々に近代化が進む時代とはいえ、いまだ貴族の権力は社会の隅々にまで根を張っているのだ。
 つまり中級役人の彼らが許可状を携えているということは、それだけでただ事ではないということを示していた。
 隙の無い動きでソファーに腰掛け、彼らは遠慮のない目線をソニエに向けた。
 職業ゆえのものだろうか。
 とくにロイトナーと名乗った中年の男のほうの視線は鋭く、相手の些細な動きも見逃すまいとするようだった。
 しかしそのような責めを受けるいわれのないソニエは、ただ小さくなって萎縮していた。
「あの、いったいどのようなご用件で……」
 その問いかけに重なるように、軽いノックとともにカレンが入室してくる。
 テーブルの上に、運んできたミントティーのカップを並べた。
 その作業をギョロリとした目線で追いながら、ロイトナーという男が答えた。
「実は、ファルデロー夫人にお伺いしたいことがありまして、お伺いしました」
「なにをです……?」
「はい。まず昨夜、あなたはエルブラン大公の屋敷で行われた舞踏会に、出席されていますね?」
「……ええ、たしかに。……それが何か?」
 ソニエの返答に、男は目をそばめた。
「もう一つ、あなたは確か、北東部のソユーブという地域のご出身とうかがっておりますが、それは事実に相違ないでしょうか」
「……はい、ソユーブはわたしの故郷です」
 ロイトナーはこめかみをピクリと震わせ、右手で顎鬚(あごひげ)をいじりはじめた。
 薄くなりかけた頭髪は白髪交じりで、鼻の下と顎に生やされた髭にもまた、同じように白いものが混じっている。
 瞳だけが黒々と、爛々とした光を讃えてソニエに向けられていた。
「聞くところによると、ソユーブのチェイリードといえば、色々と特殊なお家柄だそうですな」
「昔のことでしょうけれど……」
「しかしあなたは、チェイリードの秘術……つまり、”薬”の知識を継承していらっしゃる。少なくとも一般の人間よりは薬学に精通していらっしゃるとお見受けしますが」
「……なにが、おっしゃりたいのですか」
 なされるままに不可解な質問に答えるだけの行為に、しだいに不安と苛立ちが募った。
 今度は、アランドという若い方の男が口を開く。
「さきほど、お庭のほうを拝見させていただきました。端の方に小さな薬草畑が。あれは、あなたが育てられたものですね? どれもこのアラトリムでは見られないものばかりですが」
「そう、ですが……」
 驚いた。
 彼らはソニエに顔を合わせる前に、既に無断で庭まで調べていたのだ。
 なるほど許可状がなければとても許されることではない。
 司法庁の上層部が彼らにそれを与えた理由、そして彼らがぶつけてくる一方的な疑念の正体。
 ソニエにはまったく見当がつかない。
 だが、居心地の悪い感覚はしだいに強くなった。
 二人の男は顔を見合わせ、同時に何かを頷きあう。
 ロイトナーが黒く光る目を向けながら彼女に言った。
「残念ながら、証拠が完全に揃ったことになります。――あなたが人を殺したという証拠が」



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