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チェイリードの娘

 ソニエは声も出せないまま、目の前の男を見ていた。
 ――――人を殺した?
 ロイトナーは確かにそう言った。聞き間違いではないはずだ。
 とんでもない恐ろしいことを、彼ははっきりと彼女に言った。
 愕然としたままの状態で、投げかけられた言葉の意味のおぞましさに何度も震撼する。
 ざわざわと、妙な胸騒ぎが心臓を蝕んでゆくのがわかった。
「ヒルイズ侯と、レクシー公議会議員。このお二方の御遺体が、今朝、それぞれのお屋敷で発見されました」
 続くロイトナーの言葉に、ソニエは更に目を見開く。
 『遺体』という言葉が、この状況で非常に生々しく感じられて彼女に強い衝撃を与えた。
 彼が挙げた人物の名前は、どちらも聞いたことくらいはある。
 どちらもこのアラトリムでは有力な貴族だからだ。
「お二方はどちらも、昨夜の舞踏会に出席されていました」
「…………」
「そしてお二方の死因は、これだ」
 言いながらロイトナーは、懐から白い包み紙を取り出した。
 開いた包みの中には、茶色い粉末。ところどころに黒い粒が混じっているものだった。
「なにかお分かりですかな? これは、――毒薬です」
 ソニエはその物質を前に、再度の衝撃に見舞われていた。 
「正確には、ある植物から取れる種を磨り潰したものだそうです。……どういう類の薬草か、あなたなら御存知ですね?」
「それは……」
 青い顔で震え始めたソニエを前に、男は微かに笑みを浮かべた。
 獲物を追い詰めたような、そんな少し嗜虐的な笑みだ。
「よく御存知でしょう? なぜなら、あなたの花壇に同じ草が生えているのだから」
「…………!」
 ソニエはただ弾かれたよう顔をあげ、そして何度も首を横に振った。
「違います。私、私、そんなこと……関係ありません!」
 ありえない疑いだった。 
 殺されたという二人の人間については、ただ名前を知っているだけだ。会ったことすらない。
 顔も知らず、舞踏会の会場ですれ違ったかどうかさえわからないのだ。
 嘆願にも似たソニエの言葉を退け、ロイトナーは話を続けた。
「亡くなられたお二方は、帰宅後嘔吐し、そして昨夜のうちにお亡くなりになっている。そしてその嘔吐物と、昨夜の舞踏会で振舞われたワイングラスの一部から、この薬草のものと思われる物質が確認されているのです。……いや、たとえそのような物証が無かったとしても、彼らの死に方は通常ではありえない」
 男の言葉からは揺るがない確信が感じられた。
「確実に、毒だ。そしてそれは特殊な者しか知りえない毒。この国ではソユーブという地域でしか生息が確認されていない、特別な植物の毒なのです」
「…………」
 庭で育てている薬草の苗は皆、あくまで治療薬や薬湯として使うために持ってきた。
 それらの中には、手を加えることで毒薬になりうるものがあるかもしれないが、ソニエはその方法を知らない。
 まったく身に覚えの無いことで、彼らは自分を殺人者だと確信している。
 ――――殺人者。
 その響きだけでも恐ろしい。
 誤解だと訴えようにも、喉が震えて声が出なかった。
「ソニエ様!」
 ソファーの上で気を失いそうになったソニエのもとへ、扉付近に控えていたカレンが走り寄ってきた。
 彼女の顔も相当に青ざめている。
 カレンはきつく男たちを睨んで言い放った。
「あなた方は何をいい加減なことをおっしゃっているの! ソニエ様がそんなこと、ありえません! ほとんどお屋敷から出たことも無くて……、それなのにどうして、会ったことも無いような人間を毒殺しなければならないんですか!」
「……物証が毒だけならば、ここまで確信は抱きませんがね」
 カレンの言葉を受け流し、ロイトナーは苦笑を漏らした。
 左手を上着の懐に差し入れ、そしてまた何かを取り出す。
 今度は紙の封筒だった。
「…………!」
 その白い封筒を目にした瞬間、ソニエとカレンは同時に硬直した。
 これといった特徴のないありふれた封筒だ。
 しかしそれは、今朝の惨劇を思い出させるには十分な代物だった。
 男は封筒の中身を取り出し、その便箋を開いてテーブルの上に置いた。
 ソニエたちはそれに恐々と視線を落す。
 それは、ソニエが今朝受け取った恐ろしい手紙とは違っていた。
 違っていたが、そこに書かれた内容に、やはり戦慄する。
 
 ――――チェイリードの娘が災いを呼ぶ……

 書きなぐられたような字でたった一行、記されていた。
 最後のほうは文字が崩れ、ほとんど読解が困難な状態だ。
 ペンが横滑りしたような不自然な形跡もある。
「ヒルイズ公による、いわゆるダイイングメッセージかと思われます。亡くなる直前に、おそらく最後の力でお書きになられたものかと……」
 硬直しているソニエに、男は容赦なく言い募った。
「更にもうお一方、レクシー議員についても。彼は浴場のタイルに剃刀で傷を残しておられる。読み取れる言葉は、――『チェイリード』」
 これ以上はないという完璧な証拠をあげ連ね、男は満足げに畳み掛けてくる。
「……どうです? これらの証拠を、あなたはどう弁明なさいますかな?」
 ソニエはカレンの腕にしがみつきながら、今度こそ気が遠くなるような眩暈を覚える。
 そのソニエの背中を優しくさすり、体をソファーにもたれかけさせてから、カレンは何かを思いついたように一度部屋を退出した。
 慌しく戻ってきた彼女の手には、一枚の白い封筒があった。
 触るのもおぞましいというように指先でつまみながら、それを男二人の前に投げ捨てる。
「カレン、あれは……」
「ええ、そうですわ。今朝のアレです。すぐにでも燃やして処分してしまおうかと思ったのですけれど、何かあったときのため、証拠になるかと思って取っておきましたの」
 カレンは気丈に強気な態度を崩さぬまま、ソニエの傍らに寄り添った。
 ロイトナーが怪訝そうな顔で封筒の中身を取り出して便箋を開く。
 同時に男二人がぎょっと顔をしかめた。
 アランドは露骨に顔を引きつらせて目を背けている。
「これは……、いったい、なんのまねですかな」
 苦々しくいいながら、ロイトナーは便箋を畳み、ソニエのほうへ目をやった。
 それにはカレンが答えた。
「今朝、ソニエ様宛に送られてきたのです。とんでもない嫌がらせだと思ってましたけど、……どうです? ソニエ様が犯人だというのなら、それをどう説明なさるのですか!」
 カレンの強い物言いにも男は軽く眉をひそめるだけだった。
 アランドはさきほどから何かうなるように考え込んでいるのに対し、ロイトナーの方は大して動じた様子もない。
「いや、どうと、言われましてもね。これを別の第三者が送りつけたという証拠もない。ひょっとすると、御本人が御自分宛にお送りになられたとも……。消印は昨日、アラトリム中央配達局になってますし、時間的にも十分可能なのでは?」
「…………」
 絶望的な痛撃に打ちのめされるソニエとは対照的に、カレンは怒りも限界というように激しくロイトナーをにらみつけた。
「なんてことを……! ソニエ様が御自分宛にそのようなものを送られたですって!? 冗談じゃありません……。 どうしたらそのような血も涙も無い思考ができるのかしら……。この人で無し!」
 息を荒げながら、カレンは顔を真っ赤にして叫んだ。
 今度はソニエが彼女の肩を抱き、なだめるように軽く叩いた。
 それでも気持ちに余裕があったわけではない。
 顔色を失ったままの状態で瞳を揺らしつつ、なんとか気力を振り絞って男に向き直った。
「……ロイトナーさん、と仰いましたね。今は、ただ当惑するばかりで、それらの証拠について弁明する方法が見つかりません。けれど、わたしは亡くなられたお二方のことを存じ上げませんし、まして殺すなど……断じてありえないことなのです。それから……」
 ロイトナーの手にあるままの便箋を見やり、ソニエは呼吸を落ち着かせる。
「その恐ろしい手紙も、わたし自身がしたことではありません。信じていただけなくても真実なのです。どうか、今日はお引取りを……」
「…………」
 男は最後まで何かを探り出さんと、隙の無い視線をソニエに向けていた。
 しかしやがて深い息を吐いて退出に応じたのだった。



 ファルデロー邸を後にしながら、坂を下る馬車の中。
 ロイトナーは苦々しく舌打ちをする。
「あれが演技なら大したものだが……」
 深々とした嘆息を繰り返す彼の向かい側で、部下のアランドは延々と何かを考え込んでいた。
 ブツブツと一人で何か呟いている。
「どうした、なにか気になることでもあるのか」
 投げやりに言葉をかけながら、ロイトナーは再度深い溜息をついた。
 そして人差し指に顎鬚を絡めながら遠い目をしている。
 考え事をするときの彼の癖だ。
「ロイトナーさん、私はどうも彼女が犯人だとは思えません。なんだか、ありえない感じがするというか……」
 部下の発言に、ロイトナーは苛烈な目を向けた。
「貴様はまた! 直感だけでものを言うなといつも言っているだろうが!」
「は……はい、すみませ……」
 迫力のある顔で迫ってくる上司に怯えながら、アランドは逃げ腰になった。
「で、でも、私の勘は良く当たると、ロイトナーさんだって……ひっ」
 ぬっと顔を寄せられて、アランドは反射的に車中の壁際に逃れた。
 彼にとってこの上司はかなり恐い相手だ。
 鍛え上げられた体格といい、ドスのきいた声といい、強面でやたらと迫力のある目線といい、この男に追い詰められる犯人はさぞ不運だとさえ思うほどに。
「……フン。おまえの勘は気まぐれだ。肝心なときには役立たん」
 なさけない部下の姿にあきれ返りながら、ロイトナーは顔をそむけた。
 揺れる小窓から、遠ざかるファルデロー邸に目線を向ける。
「俺だって、あんなお嬢さんが犯人だとは本心じゃ思えんよ」
「では……」
「だがな、これだけのあからさまな証拠を、崩す方法が見当たらんのも事実だ。いったい誰がなんのために用意した? あの娘に罪をなすりつけるために、誰がここまで手の込んだ計画をなしうるものなのか。いっそわざとらしいとさえ感じさせる、こんな小細工まで……」
 とりあえず重要証拠として回収してきた、”蜘蛛の”怪奇文書をつまみあげながら、ロイトナーは顔をしかめる。
 アランドは彼の機嫌をうかがうような口調で問いかけた。
「……ロイトナーさん、あのお嬢さんのこと、まだ捕縛はしないんですよね?」
「馬鹿野郎、許可無く貴族をお縄にできるわけがない。知ってるだろう。国王様の許可がいるんだよ。それになにより、この件はもう少し調べる必要がある」
「やはり彼女の周囲を?」
「そうだ。人間関係は極端に狭いようだが、怪しい奴がわんさかいる。面白いくらいにな……」
 ニヤリと笑ったロイトナーに、今度はアランドが顔をしかめる。
「だけどロイトナーさん、厄介ですよ。彼女の周囲といえば、当然ながら貴族ばかりだ。上のほうがなんていうか……」
「わかっている。しかし何者かの小賢しい計画を暴かんかぎり、このままあのお嬢さんが犯人だということになってしまう。俺たちには真実を暴く義務があるんだよ」
「……それは、そうです。そうでした。こうなったらやるしかないですよね」
 アランドは決意しなおしたように深く頷いた。
 それから彼も、窓から遥か後方に見えるファルデロー邸に目を向ける。
「噂には聞いていたけど……、ファルデローの奥方があんな若い子だったとは、驚きです。せいぜい十七、八くらいですよね。なんだかまだ子供のような……」
 ロイトナーも神妙な顔をする。
「まあ、貴族には貴族の事情があるんだろうさ」
「確かファルデロー家の当主は二年ほど前に交代していて、今はあのセディック=ファルデロー、でしたね」
「…………」
 ――――セディック=ファルデロー。
 その名に、ロイトナーの顔が若干険しくなった。
 アランドもまた、しばしの間、言葉を飲みこむように沈黙する。
 やがてロイトナーが低い声で呟いた。
「これは、捜査のし甲斐がありそうだ……」
 


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