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チェイリードの娘

10

 いっそ死んでしまいたいと思った。
 ただでさえ、牢獄に閉じ込められるように管理される日々。
 ソユーブの現状も確認できないまま、懐かしい故郷が遠のいていく。
 人を殺したなどと、そのような恐ろしい疑いが、どうして自分に向けられなければならないのか。
 もはや誰も信じられない。
 
 ――――『あなたの受け継いだものを利用して、よからぬことを企む者がいるはず。やがてその者はあなたに近づき、チェイリードの遺産を我が物にせんとするでしょう』
 
 大公夫人のあの冷たい囁きが何度も思い出された。
 考えたくはない。
 そんなことが現実だなどと、どうしたって信じられない。
 だが事態は着実に、ソニエを追い詰める方向へと動いていた。



 ベッドに横たわり、力なく虚ろな目を天井に彷徨わせていると、軽やかな足取りが聞こえた。
 階段を駆け上り、妙に浮ついた足取りでこちらへ向かってくる者がある。
 ソニエはゆっくりと起き上がり、ドアの方へ目を向けた。
「ソニエ様! お届け物ですわ!」
 予想どおり、ノックもそこそこに部屋に飛び込んできたのはカレンだった。
「どうしたの? ……それは」
 カレンが手に抱えていたものに気付き、ソニエは虚ろだった目を大きく開いた。
 瑞々しい青の花束。
 白いレースとリボンで束ねられている。
 それを見たとたん、暗澹としていた心に光が差し込んだ。
 重々しい鉛のようだった心の奥の部分が、少し軽くなる。
「さ、ソニエ様」
 花束を手渡しながら、カレンはなぜか嬉しそうに微笑んでいる。
 ここ数日沈みきっていたソニエに対する、彼女の気遣いが伝わった。
 甘い匂い。
 摘みたての薔薇の芳香が、鼻腔に優しく届く。
「……あら?」
 一本の薔薇に、白い紙が結ばれているのに目がとまった。
 カレンも同時に気付いたようだった。
「まあ、なにかメッセージのようですわね」
 ソニエはそれを解き、細く畳まれた紙を丁寧に広げていく。
 几帳面な文字が記されていた。

 ――――会いたい。
 ――――今日の午後、サロム通りの市場へ出てこられるかい?


 誰の言葉なのか、問うまでもなかった。
 ――――アリュース……。
 ソニエは感極まって、その文を胸元で強く握り締めた。
 今すぐにでもアリュースに会いたかった。
 会って、すべてを話して、そして救い出して欲しかった。
 あのたくましく成長した胸に、すべてを委ねてしまいたかった。
 焦がれるような想いが込み上げて、心の中で何度も彼の名を呼んだ。
「カレン、お願いがあるのだけれど……」
 ソニエが少しためらいがちに言うと、にこにこと嬉しそうな顔を浮かべていたカレンは威勢良く言った。
「ええ、わたくしにお任せください!」



 馬車で屋敷の前の坂を下ると、少しずつ街並みが近づいてくる。
 アラトリムの街は美しいと、ソニエは思う。
 故郷ソユーブのような、自然の美しさとは少し違う。
 計画的に整備された近代都市の造形は、田舎育ちのソニエには眩しく、初めてこの地にやって来た時は一瞬心を奪われかけた。 
 だがこの美しい街には、ソニエにとって美しい思い出が無い。
 ロドニック=ファルデローの死の知らせを聞き、息子のセディックに半ば強制的に呼び寄せられ、あの居心地の悪い屋敷に放り込まれた。
 あの日からこの街で重ねた日々は、ただ悪夢のようだった。
 故郷を想い、大切な過去を想い、そして目の前の現実をただ憂えた。
 そう、ここは美しい地獄だった。
 ――――けれど……。
 ソニエは手の中の一本の青い薔薇に目をそばめた。
「その薔薇を贈られた方は、とても優しい方なのでしょうね」
 その様子を見ていたカレンがうっとりとした顔で言った。
「……どうしてわかるの?」
「だって、その薔薇を見つめるソニエ様の目が、とびきり優しいからですわ」
 にっこりと笑うその顔が愛らしい。
 微かにそばかすの浮かんだ顔と、ハチミツ色の緩やかな巻き毛。
 彼女の屈託の無い笑顔は、いつもソニエの心も柔らかくさせる。
「そう、かしら……」
 ソニエは頬を赤くして俯いた。
 ガタガタと揺れが激しいのは、馬車が粗末なせいだ。
 ソニエたちが乗っているのは、ファルデロー家のあの豪奢な馬車ではない。
 商人が荷運びに使う、クッションもなにもない粗末な馬車だ。
 すべてはカレンのアイデアだった。
 いつもなら屋敷を出ようとすれば、当然のように執事のレオンが止めに入る。
 だがカレンの機転でソニエは今日、外出することに成功した。
 カレンはソニエの夏用の帽子を仕立てるためだといって、馴染みの針子を呼び寄せた。
 訪れたのは、ソニエと似た背格好の娘だった。
 彼女はカレンの親しい知り合いだったのだ。
 ソニエの身代わりをその娘に頼み、衣装を取り替える。
 カレンはさも商人の娘と連れ立って街へ下りるように装い、変装したソニエを連れて外に出た。
 身代わりになった少女については、カレンが後のことをうまく取り計らってくれるという。
 手並みは終始鮮やかで、ソニエは自分とさほど年の変わらないカレンのことを、尊敬の眼差しで見つめた。



 馬車から降りると、そこは初めて足を踏み入れる市場だった。
 貴族が行き交う気取った通りではなく、庶民が賑わい活気で溢れる、いわゆる下町だ。
 人の多さに圧倒されつつ、ソニエは辺りに目を向けた。
「ソニエ様、布をもっと深く被ってください……」
 すかさずカレンが横から彼女の顔を隠そうとする。
 ほとんど人付き合いがないのだから、そうそうソニエの顔を知っている人間がいるとは思えない。
 しかし用心は必要だとカレンは主張した。
 近郊の農村から来たという野菜売りの出店や、異国の香辛料の量り売り、西方の毛織絨毯の直売店など、とにかくいろいろなものがある。
 日頃目にしたことの無いものが、数多く並んでいた。
 無造作に陳列されている商品のどれもが珍しい。
「やはり豊かな街なのね……」
 思わず呟きながら、故郷の少し寂しい光景を思い出していた。
 祖先の開拓の成果もあって、ソユーブも薬草栽培に適した恵みある土地ではある。
 しかし、なにせ人があまり多くない。
 こことはあまりに違う世界だった。
 様々なことに目を奪われながら歩いていると、ソニエに声をかける者があった。

「――そこのお嬢さん、よくないものが憑いてるね」 

「え……」
 ひしめく雑踏の中、なぜかその声は明瞭にソニエの耳に届いた。
 女性の声だ。
 その先に目を凝らすと、人の行き交う路の脇に埋もれるように、茣蓙(ござ)を敷いて座っている人物がいた。
 古びた布を頭からすっぽり被っており、鼻から下しか見えない。
 声からして女性には違いないようだが、年齢も人種も何もわからなかった。
 その女性のほうに目が釘付けになりながら、しばらくその場に立ち尽くす。
 やがて吸い寄せられるように近づいていった。
「ソ、ソニエ様?」
 不審に思ったカレンが追いかけてくる。
 ソニエはその女性の前に立った。
 そんな彼女を下から見上げ、女性の口が弓形に軽く笑みをつくる。
 整った唇に引かれた紅の鮮やかさに目を引き付けられた。
 近くで見ると随分若い。
 布の下からのぞく白い顔は下半分のみだが、張りのある肌からもまだ二十代を超えない年齢と思われる。  
 纏っている衣装は色褪せた麻の服だったが、腕や指、首に宝石のようなアクセサリーを多くつけていた
 どことなく異国情緒を漂わせている。
「あの、わたしに、何か憑いてるって……」
 恐る恐る切り出したソニエに、女性は笑みを浮かべたまま答えた。
「憑いてるね。悪意に満ちた呪いがあんたに纏(まと)わり憑いてる。……驚いたよ。まさかこの街で、あんたのような人間に出くわすとは……思ってなかった」
「呪い……」
 ここ数日、同じような言葉を何度浴びたことかわからない。
 あの老婆のことを思い出して、ソニエは眩暈を覚えた。
「ソニエ様、早く行きましょう。こんな怪しい女の言うこと、聞くだけ無駄です。インチキにきまってますわ」
 カレンはソニエの腕を強引に引っ張ろうとする。
 しかしソニエはそこを動けなかった。
 女性はカレンの暴言も気にとめず、変わらず笑みを浮かべたままだ。
 カレンの腕を解いて、女性の前に腰を下ろした。
「ソニエ様!?」
「ごめんなさい、カレン、どうしても気になるの。聞いておきたいの。……インチキだとしてもかまわないわ」
 言いながら銀の硬貨を三枚取り出して、それを女性の前に置く。
「お願い。その呪いとやらについて、詳しく教えてちょうだい」
 女性は目の前に置かれた銀貨に目をやり、そして再度ソニエを見た。
 真正面から見ると、布の奥に隠れた女性の瞳がうかがえる。
 深い闇色の瞳がこちらを面白そうに見ていた。
「なるほど。そんな庶民の為りをしてるけど、そういうわけか……。しかしあんた、その様子じゃ自分でも心当たりがあるんだね」
「…………」
 黙りこんだソニエに、女性はやはり笑みを崩さない。
「いいよ。教えてやる」
 一呼吸置いて、彼女は話し始めた。
「あんたに纏わり着いてるのは、人為的な呪い、人の怨念みたいなもんだよ。誰か、あんたに激しい妄執や恨みを抱く人物に接触した覚えはないかい?」
「妄執や恨み……」
 様々な人物の顔がソニエの脳裏に浮かぶ。
 あの奇妙なおぞましい手紙と、奇怪な殺人事件。
 確かにそれに該当する人物はどこかに存在するのだろう。
 ソニエの顔色が変わったのを、女性はしっかり捕らえた。
「心当たり、無いってわけじゃないみたいだね。……じゃあ、”呪術”っていったらわかるかい?」
「……呪術? そんなものが現実にあるの?」
「あるさ。それを生業にしてる一族だっている。この近代的なアラトリムじゃ、そんなものはすっかり衰えて過去のものだけどね。うんと北へいけば、いまだに呪術を崇めて外界から隔絶されてる民族だっている」
「その呪術を……、誰かがわたしにかけたということ?」
「そうとは限らない。その筋の力をもった人間は、相手に接触するだけで、自分でも無意識のうちにそんな呪いをかけてしまうことがあるんだ。あんたに憑いてるのはごく微弱な力。おそらく、相手も無意識なんだろうさ。……しかし、とんでもない”悪意”が感じられる」
「……わからないわ。わたし、人とはあまり会わないし、恨みをかった覚えは自分では無いと思うのだけれど。どうして……」
 ソニエは頭を抱えた。
 気が気じゃない様子で会話を聞いていたカレンが、ひどく渋い顔をしている。
 女性は苦笑交じりに答えた。
「そこまではあたしにもわからない。……しかし、まさかこの街でそんなものを……、見るとはね。この大都会に呪術師がいるってことも驚きだが。嫌だねぇ、同業者だったらややこしい」
 女性は脇にあった木箱に手を突っ込み、ごそごそと何かを探し始めた。
 ショックから立ち直れないまま、ソニエはたずねる。
「あの、この呪いは、放っておくとどうにかなるの?」
「いいや。意図的なものではないようだし、それ自体に特に害はないだろう。……けれど」
 言いかけて女性は一瞬言葉を切る。口元から笑みが消えた。
「けれど?」
 ソニエはつい、身を乗り出して女性の顔を覗き込む。
 女性は真顔でソニエを見据え、言った。
「それほどの悪意や妄執をあんたに抱いている相手が、この先何もしかけてこないはずがない。あんたは自分の身を心配したほうがいいね」
「…………」
 青ざめるソニエをよそに、女性は再度木箱を探り始めた。
 そして手の平におさまるほどの硝子の小瓶を取り出す。
「これをあんたに差し上げる。高名な呪術師から買い取った特別な薬だ。いざという時に使いな」
「……薬? なんのための?」
 女性は意味深な笑みを浮かべ、少し間を置いてから答えた。
「……毒薬さ。死後は体内に残らない特別な毒。その昔、王族が暗殺に使った代物だとか」
 ぎょっとして、ソニエは女性から見を引いた。
「そんな、そんなもの……。いらないわ」
 しかし女性はソニエの腕を取り、強引にそれを握らせる。
「あんたには多分必要なものだ。必ずしもこれを使うという意味じゃないが。……いいから取っときな」
「…………」
 手の中にある小さな硝子の瓶。
 固く詮がされていて、その周りが厳重に細い紐で巻きつけられている。
 中には無色透明の液体がほんの数量たゆたっていた。
「使わなければいつか返してくれたっていい。とりあえず今はあんたに渡しておきたいんだよ」
 毒などと……、ただでさえとんでもない容疑をかけられている状況で、そんなものに関わりたくはない。
 けれどソニエはその瓶を、手放すことができなかった。
 ほんのりと光を放つ不思議な液体から目が離せない。
 毒薬とは思えないほどに、美しい。
「そのぶんのお代はサービスしといてやるよ」 
 複雑な表情で黙り込むソニエをよそに、女性はソニエがさきほど置いた二枚の銀貨を懐に回収する。
 カレンが横から猛烈に抗議の声をあげた。
「サービスですって!? 二万レーテも巻き上げておいて、サービスですって!? なんて図々しい詐欺師なんでしょう!」
 女性は激するカレンのほうに顔を向け、そして含みのある微笑を見せる。
「元気なお嬢さん、そりゃないね。あたしだって商売なんだ。詐欺師とは聞き捨てならない。その薬はあんたが想像もつかないほど値の張るものに違いないし、それに自慢じゃないが”目”は確かなもんだよ。……なんなら、あんたのことも言い当ててやろうか?」
 えぐるような目線で女性はカレンを見上げる。
「あたしには色々見えてるんだよ。色々ね……」
 それこそすべてを見透かすような目だった。
 ぐっと言葉に詰まったように、カレンは引きつった顔で女性から遠ざかった。
 そして今度こそ有無を言わさぬ力でソニエの腕を引っ張る。
「いきましょうソニエ様。この女、なんだか気味が悪いですわ」
 腕を引かれるまま遠ざかりながら、ソニエは女性にたずねた。
「あなたは、あなたのその力は何なの? どこから来たの?」
 女性はヒラヒラと手をふりながら、にっこりと笑う。
「さえない呪術師のはしくれさ。ここよりずっと北の国から来た」
 そして口元から笑みを消して付け加える。
「くれぐれも気をつけるんだよ、お嬢さん。……すぐ近くに邪悪な気配は潜んでる」
「…………」
 ソニエの心に滲み出す恐怖が、より深みを増した。


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