チェイリードの娘
11
腕を引かれながら見慣れぬ下町の界隈を進む。
呪術師の女性から相当遠ざかると、ようやくカレンはソニエの腕を放した。
「まったく……、ソニエ様ってば世間知らずなんですから、だからあんな怪しい女に……」
いまだにブツブツ不平をこぼしている彼女をよそに、ソニエはいたたまれない重い気持ちに苛まれていた。
――――恨み、妄執、悪意。
そんなものを誰かがソニエに抱いていて、そして彼女を陥れようとしている。
呪術師などという、にわかには信じがたい前時代的な存在が、どうして自分を狙うのか……。
もう、何がなんだかわからない。
いったいどこの誰が、そんなことを考えているのだろう。
ソニエの脳裏に、この街で彼女を知る人物の顔が何度も浮かんでは消えていった。
そして、唐突に思い出されるのは大公夫人の言葉だ。
連動するように、もっとも疑いから排除したい青年の顔が浮かぶ。
――――『たとえば、――幼馴染だとかね』
大公夫人はどういうつもりで、あのようなことを言ったのだろう。
――――アリュース。
ありえない。
最もありえない。
……そう思いたい。
思考の渦に捕らわれて、ソニエは頭を抱えるようにしてその場にうずくまった。
「ソニエ様!?」
カレンが慌てて彼女の肩を抱く。
「――ソニエ!」
同時に、後方から彼女を呼ぶ声がした。
人の群れをかきわけながら、黒髪の青年がこちらへ近づいてくる。
くすんだの色の外套をまとい身なりを隠してはいるものの、いかにも貴族らしい品格ある姿形は、確実に人目を引いている。
「ソニエ様、あの方ですのね? ……よかったですわ!」
カレンは立ち上がり、青年を迎えるように彼のほうへ顔を向ける。
その声に激しく反応しつつも、ソニエはとっさに背をむけたまま、振り向くことさえできなかった。
青年はソニエのもとに辿り付き、そしてうずくまっている彼女の前に腰をおろす。
「やっぱりソニエだ。よかった。来てくれたんだね」
言いながら、深く布を被ったソニエの肩に手をのせる。
彼女の顔をあげさせて、そして彼は驚いた。
「ソニエ? どうした……」
自身の体を掻き抱くようにしてうずくまりながら、ソニエは真っ青な顔でアリュースを見上げていた。
不自然に引きつった表情が、彼を驚かせている。
「アリュース……」
震えるような声で彼の名を呼ぶも、目の前の青年の顔を見ていることが耐えられなかった。
思わずすっと目をそらす。
アリュースは不可解そうに、彼女の顔を覗き込んだ。
「どうしたんだ?」
「…………」
その視線から逃れるように立ち上がる。
無理矢理にでも心を落ち着かせようとした。
「なんでもないの……。ごめんなさい。ちょっと人ごみに酔ってしまって……」
ソニエに続いて立ち上がり、アリュースは心配そうな顔で彼女を見た。
「あっちに馬車を用意させてあるから。そこまで歩けるかい?」
その曇りのない視線が、今のソニエには痛い。
――――ああ、わたしという人間は……。
最も疑ってはいけない人間を、疑ってしまった瞬間。
その瞬間の鋭い痛みはまるで心にトゲが刺さったかのようで、アリュースの瞳を見るたびにうずいた。
アリュースの用意した馬車は、サロム通りを離れて大街道に出た。
しばらくそのまま真っ直ぐに南へ向かい、その途中で東に逸れて湖のある方向へと進んでいく。
晴れやかな午後、馬車の中に入る日差しは澄んでいて温かい。
やがて現れた湖面は、きらきらとダイヤモンドを散りばめたように光を乱反射していた。
アラトリムの南東部に位置する小さな湖、ファーネル湖だ。
美しい空色を映し出す鏡のような湖面と、その周囲の青々とした森林地帯。
それらを囲むようになだらかな丘陵が横たわり、一面鮮やかな緑の草に覆われている。
貴族の邸宅がいくつも点在する地域だ。
アラトリム中心部から少し馬車を走らせるだけで、このような景観が開けてくる。
自然豊かな美しい風景は、ソユーブに似ていなくもなかった。
しかしそんな美観にも目を向けることができず、ソニエはずっと馬車の中で俯いていた。
膝の上に乗せた手を強く握り締めながら、息苦しく耐え難い思いに捕らわれていた。
――――アリュースを疑うなんて……。
己の心が許せず、そして同時に、それでもどこかで疑いを捨てきれない自分に戸惑い、嫌悪していた。
そんなソニエを、横に座ったアリュースはずっと気遣わしげに見つめていた。
彼女の固い表情から何かを感じ取ったのかもしれない。
声をかけることもなく、ただ見守るような目を向けていた。
やがて馬車は湖の北側にある森へ分け入り、威風ある白い建物の門前に止まった。
そこはケスパイユ候の屋敷だった。
ソニエの身を案じ、アリュースとの間柄に心を痛めた彼が、二人のために場所を提供してくれたのだという。
アリュースのアラトリムでの滞在先は中心部に近すぎる。
人目につかない場所というならば、ケスパイユの屋敷は絶好の隠れ場所だった。
ソニエの手をとり馬車から下ろすと、アリュースは彼女の手を握ったまま屋敷の中へ入っていった。
出迎えの使用人たちは皆いっせいに、ソニエの身なりに顔をしかめている。
当然といえば当然の反応だった。
ファルデロー邸を抜け出すために、商人の娘の服を借用してきたのだ。
若干困惑した様子の使用人たちの間をくぐりぬけ、中庭に面した応接間へ通される。
扉を開いた瞬間、眩い光が目に差した。
湖に面したその部屋は、壁一面に絵画をはめ込んだかのように、完璧な景色が広がっている。
涼やかに澄んだ風が頬を撫でる。
眩しさに目を細めつつも、その美しい景色に心を奪われずにはおれなかった。
光に満ち溢れた部屋の中で、立っていた初老の男が振り返った。
舞踏会以来の懐かしい顔が、ソニエに向かって優しく微笑みかける。
「おじ様!」
ソニエはアリュースのもとから走り、ケスパイユのもとへ駆けて行った。
はしたない行為かもしれなかったが、顔を見ればそうせずにはおれなかった。
ソニエを抱きとめ、ケスパイユは穏やかな眼差しで彼女を見る。
「よく来たね、ソニエ。あれからずっと心配していたんだ」
「おじ様、わたし……」
ケスパイユの顔を見ると、こらえていたものが溢れ出そうになった。
深く皺の刻まれた顔。
柔らかく情の深い瞳。
白い色の多くなった髪が、幾分年月の経過を感じさせるものの、彼の印象は昔とほとんど変わらない。
娘のようにソニエを慈しんでくれた大きな存在が、変わらずそこにあった。
彼女の言葉を遮り、ケスパイユは穏やかに言った。
「いいんだよ。何も言わなくて。全部わかっているよ」
「…………」
憂いを滲ませた顔のまま、ソニエは首を横に振った。
「わたし、もう、何がなんだか……」
悲壮な顔のソニエをなだめるようにその肩を抱き、ケスパイユは彼女をソファーに座らせた。
ソニエが巻き込まれた怪事件のことを、アリュースは既に知っていた。
当然、ケスパイユもだ。
理由は単純だ。
司法庁長官はケスパイユの旧知の人間であったこともあるが、数日前に長官が直々に彼のもとへ話を聞きに来たのだという。
ソニエに関わりのある人間を、洗いざらい調べているといったところだろう。
アリュースのもとへも、同庁の人間は訪れていた。
事件について、彼らは相当神経質になっているらしい。
司法庁が完全に自分を容疑者として扱っているのだとわかって、ソニエはショックを受けた。
彼女のもとを訪れた二人の官員の態度からそれはわかっていたことだが、それでも受け入れがたい事実には違いなかった。
「まったく、奴らの捜査はどれここれも見当違いも甚だしい。長官に一喝してやったよ。まかりまちがってもソニエを犯人だと公表するなら、大臣に話しておまえの首を切るよう手をまわしてやるぞ、とな」
ケスパイユは苦々しい声で吐き捨てる。
ソニエの隣に腰掛けたアリュースもまた低い声でうなった。
「……許せない。どうしてソニエなんだ。どうしてソニエばかりがこんな理不尽な目にあわなければならない」
「アリュース……」
ソニエはためらいがちに彼に目を向ける。
紺青の瞳に浮かぶ怒りの色は、押し殺していても相当なものだった。
膝の上で握られた拳がわなわなと震えている。
アリュースは本気で感情を煮えたぎらせていた。
他ならぬソニエのために、だ……。
ソニエの中にチクリとした痛みが起こる。
やりきれない思いで泣き出したい気分だった。
「――ソニエ、おまえはしばらくここに身を寄せなさい」
「え……」
ケスパイユは紅茶の入ったカップを手にとりながら、彼女の向かい側に腰をおろす。
一口飲み、そしてカップをソーサーの上に戻した。
「いつまた司法庁の馬鹿共がおまえを苛めにくるかわからん。ここにいれば奴らも手を出せまいて。それに……」
発言を躊躇するように、一度ケスパイユは口を閉ざした。
片手を額にあて、うなるように深々と息を吐く。
言葉の続きが気になるソニエは、その先を促すように彼の顔をじっと見つめた。
隣のアリュースも同じようにしている。
ケスパイユは更に一呼吸おいてから、重い口を開いた。
「司法庁絡みだけでなく、あのファルデローの屋敷は危険だ。あそこはおまえにとって、おそらく敵の本陣のようなものだろう」
「……どういう、ことですか?」
「おまえの夫、セディック=ファルデロー。あの男はひどい。ろくでもないことを企んでおる。私の思い違いでなければな……」
「セディック……」
「司法庁に顔が利く関係で色々な噂を耳にする。ファルデローが法令に触れる手汚い商取引を繰り返していたことはあきらかだ。司法庁の人間もその尻尾を掴もうと躍起になった時期があったらしいが、煙に巻かれるようにすべて闇に葬られている。……なぜだかわかるか?」
ソニエは息を飲んで首を横に振る。
セディックや父親のロドニックが、かなり汚いことに手を染めているという話は以前から何度か耳にしたことがある。
しかし具体的な事情までは知りえていない。
「奴は大公家とつながりを持っている。どういう手管を用いたのかはわからんが、マラドーム公議会議長の妹君とも親密な間柄のようだ」
舞踏会で会ったあの金髪の美女を、ソニエは思い出した。
「エルブラン大公が、なぜあの若造に力を貸すのかはわからん。しかしこの一件にファルデローが、そして背後の大公家が絡んでいるのはほぼ間違いないといっていい」
「…………」
思わず、膝の上に乗せた手に力が入った。
「あいつ……、あの男が……」
ギリリと歯を食いしばり、アリュースは憎しみを噛み殺している様子であった。
――――大公夫人。
あの夜ソニエを部屋に招いた氷のような女性は、やはりセディックと只ならぬ繋がりがあったのだ。
彼女の冷たい手の感覚を思い出し、ぞくりと体を震わせた。
「ですが、ケスパイユ候、理解しかねます。奴らはいったい、ソニエをどうするつもりなのです? 屋敷に監禁同然の暮らしを強いたり、おぞましい事件の犯人に仕立て上げたり……。彼女にそんなことをして、いったい彼らになんの利益があると……」
もっともな質問を、アリュースは投げかけた。
ケスパイユはわずかに返答に詰まる様子で、立ち上がっては何度も同じ場所を行き来した。
難しい顔を極限に固くして、腕組をしている。
「……おじ様」
彼のその態度から、ソニエは直感的に感じた。
「おじ様は、知っていらっしゃるのね? チェイリードに伝わる、なにか恐ろしい秘密というものを……」
その発言にケスパイユは弾かれたように振り返り、彼女の顔を凝視した。
「ソニエ、おまえ……、どこでそれを聞いたんだ」
今度はソニエが言葉に詰まりつつ、うつむいた。
「大公夫人が、そのような話を……。あの舞踏会の夜に」
これにはアリュースも反応した。
「大公夫人と話したのかい?」
たどたどしく頷くソニエを見やり、そして何かを思い出したように、彼は軽く舌打ちをする。
「そうか、あの時、あの合間に……」
ケスパイユはソファーの上にドサリと腰を下ろし、頭を抱えた。
「大公夫人か……、これでもう確定的だ。なんということだ、旦那ではなく夫人のほうが黒幕だったとは……」
「おじ様、チェイリードの秘密とは何なのですか? 御存知なのでしょう?」
ケスパイユは膝の上に肘を乗せ、前のめりの姿勢で顎の辺りで手を組んでいる。
真っ直ぐに厳しい目をソニエに向けた。
「ソニエ、おまえにそれを話すことが正しいことなのかどうか、正直私にはわからんのだよ」
「おじ様! 教えてください。この状況で、当事者の私が何も知らないなんて、そんなおかしな話はありえないでしょう……」
「そのとおりです。僕だって知りたい。知らなければソニエを思うように守ることだってできない」
「…………」
二人の人間に詰問され、ケスパイユは厳しい目を若干和らげる。
ためらいがちに視線を泳がせた。
そんな彼に、ソニエは訴えかけるように言葉を投げる。
「おじ様、わたしはもう、子供じゃないわ……」
しばらくの沈黙の後、今日何度目かわからない深い溜息を、彼はついた。
「――そうだな。そうだった。おまえはもう、あの頃のような子供じゃない。おまえには知る権利がある」
どこか遠い目をしながら、ケスパイユはつぶやく。
「おまえのお婆さまも、きっとわかって下さるだろう」
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