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チェイリードの娘

12

 市街地の喧騒から離れた湖周辺は、夜になればほとんど暗闇も同然だ。
 雲間からのぞく月の光が唯一の光源だった。
 丘陵地帯に点在する貴族の邸宅の明かりは、申し訳程度に闇の中に色を添えている。
 ソニエに与えられた客室は、湖を一望できる方角にあった。
 大きな窓とバルコニーのある部屋だ。
 風が吹きぬけ、開放感に溢れている。
 あの、虚飾に満ちた息苦しいファルデロー邸とは大違いだ。
 忌まわしいしがらみや、正体の見えない悪意の澱みから、きっと彼女を守ってくれるに違いない。 
 けれど……。
 昼間にケスパイユが語った話を思い出すと、そんな安堵感も一気に闇に飲み込まれていくようであった。



 テーブルの上においた、ガラスの小瓶に目を向けた。
 昼間に市場で、あの女性からもらったものだ。
 無色透明の液体が、暗闇の中でぼんやりとしたした不思議な光を放っている。
 彼女は自分を”呪術師”だといった。
 そんなものが実際に存在するのかと疑いを抱きつつも、なぜか彼女の話から耳を背けることができなかった。
 結局、あの女性は正しかったのだ。
 信じがたいものがこの世には存在した。
 それも、ソニエのすぐそばに。
 他ならぬソユーブという大地に……。
 ケスパイユは彼の知ることを話してくれた。

「――チェイリードとは、いうなれば古代から続く呪術師の家系なのだ」

 その瞬間、ソニエとアリュースは二人同時に、呆気に取られた顔で彼を見た。
 けれどケスパイユは真剣な顔を崩すことなく、彼の知る事実を語る。
「薬の知識も、しょせんは特殊な血脈とともに、受け継がれたものの一部にすぎない。彼らの呪術の力は、裏側から国家を変えるほどの力をもっていた。決して歴史の表舞台には登場しなかったが、実際に現王家の成立に深く関わった一族だと言われているのだ」
 つまり……と、多少言葉を選ぶようにしながら、彼は話を続けた。
「チェイリードの秘密とは、すなわち王家の裏の歴史に繋がっている。工作、暗殺、人為的な洗脳……、あらゆる闇の業を請負い、チェイリードは王家のために尽力してきた。それゆえに王家はチェイリードという存在を恐れ、その重大な秘密を守るために、引き換えとして、長い間一族の安泰を保障してきたわけだ」
 ソニエは思わず息を飲む。
 彼が語るのは、チェイリードの”力”がまだ代々受け継がれていた時代の話。
 現代のソニエにとっては、ひどく遠い祖先の話だ。
 王家など、彼女にとっては、ただ恐れ多い存在にすぎない。
「ソニエ、おまえも知っているだろう」
 ケスパイユは、言葉も発せずにいるソニエに向かって話す。
「六代ほど前の当主によって、チェイリードの力は失われてしまった。自ら封印したといったほうが正しいか……」
「……ええ、それは、知っています」
 祖先がかつて、独自の秘術を封じたという話は知っている。
 それがまさか、”呪術師”の力だなどとは思いもしなかったが。
「力は失った。しかしそれでも、チェイリードというのは賢くしたたかな一族だった。当主は代々厳格で用心深く、おかしな欲を出すこともなく、ただソユーブという所領だけを堅実に守り続けたのだ。――おまえのお婆さまも例に漏れずだ。ソニエ……」
 ケスパイユは、彼女の目を強く見つめながら言った。

 ――――だから、チェイリード家が多重債務を抱えていたなど、通常では考えられることではない。

 彼ははっきりとそう述べた。
 ありえないことなのだ、と。



 おもむろに机の引き出しから白い紙を取り出すと、ケスパイユはそこに黒インクで何かを書いた。
 そしてそれをソニエとアリュースの前に置く。
 ソニエはそれを見て、思わず――あ、と声を漏らし、同時に血の気が引いていく思いを味わっていた。
 紙に書かれたのは、単純に記号化された黒い薔薇の図柄。
 そしてその周りに、同じく記号化された三本の刺(トゲ)がある。
 その絵柄に、見覚えがあったのだ。
 蜘蛛の死体とともに送られてきた、あのおぞましい怪奇文書だ。
 あの手紙の便箋と封筒に、たしか同じような文様が小さく刻まれていたのを記憶している。
 蜘蛛の衝撃に躍らされるあまり、あまり気にとめてはいなかったが……。
 顔色を失ってしまったソニエを、ちらりと見ながら、ケスパイユは話した。
「このアラトリムには、ある”組織”が存在するといわれている。これはその組織が用いる”紋章”のようなものだ」
「――組織?」
 怪訝な顔で問い返すアリュースに、彼は頷く。
「そう、ひそやかに闇の呪術を信仰する、……まあ一種のカルト団体、狂信集団といったところだろう」
 アリュースの手から紙を取り戻し、ケスパイユはそこにサラサラとペンを滑らせた。
 黒薔薇の紋章の横に、添えられた文字。 

 ――――グリモゲーテ。

 聞きなれない響き、見慣れない字面に、ソニエとアリュースは同時に首を傾げる。
「これは、組織名だ。そのカルト団体のな。……ひそかに古代呪術の復興を企んでいるとかいう連中だ」
「古代呪術の復興……?」
 少し呆れ気味に、アリュースは問い返す。
 しかし、顔色を失ったままのソニエは、ためらいがちに言葉を挟んだ。
「……さきほどお話しした、あの怪奇文書に、これと同じ文様が……」
 アリュースが、はっと表情を変えて彼女を見る。
「――では、ソニエを陥れようとしている者というのは……」
 ケスパイユは深く頷いた。
「ああ、おそらくその組織の連中に違いない」
「……でも、それなら尚更、どうして彼らはソニエを狙うのです? 古代呪術の復興と彼女に、何の関係が? チェイリードの力は既に失われたと、さきほど仰っていたじゃないですか。ソニエは”力”は受け継いでいないと……。――そうなんだよね?」
 語気を和らげながら彼はソニエに確認をとり、彼女はそれに頷いた。
「力は受け継がずとも、”血”は受け継いでおる。古代から脈々と続く、最古といわれる呪術師の家系の血を、だ」
「血……?」
 二人して怪訝な顔をケスパイユに向けた。
 彼は神妙な顔つきで語る。

「昔、古い文献の中で読んだことがある。先人曰く……

 ――――『チェイリードの血は、闇の盟主が与えし紅の美酒。命蝕む毒となり、命育む薬となる』」

「……なんです、それは」
 更に顔をしかめたアリュースに、ケスパイユは至極真面目に答えた。
「単なる言い伝えでも、狂信者の妄想でもない。それが真実を語った言葉であることを、連中は知っているのだ」
 だからソニエを、――チェイリードの娘を狙うのだと、彼は言った。
「…………」
 ――――血。
 自分の体内に流れる血液に、そんなおかしな力があると……。
 ソニエは全身にゾクゾクと鳥肌がたつのを感じた。
「それでなくとも、彼らは原始的で残忍な教義を重んじる連中だ。たとえば、そうだな、有力な呪術師の肉や血を体内に取り入れることによって、己にその力が授かるとか……。そんなことを本気で信じておる」
「…………」
 背筋に冷たいものが走る。
 アリュースもほぼ同時に表情を強張らせた。
「……いや、脅しているわけではないのだが。実際そういう連中なのだ。呪術というものの起源を遡るなら、そもそも本質的にそういったものなのかもしれん」
「とんでもない話だ……」
 沈鬱な表情で、アリュースは瞳を伏せた。
 ソニエは自分の右手を軽く持ち上げて、その手首に浮き上がる薄い血管の線を見つめた。
 他の人間と何か変わって見えるわけではない。
 ケスパイユの話はやはり何かの間違いではないのかと、できればそう考えたかった。 
 けれど、呪術師という特殊な力をもった人間が関わっているのだとすれば、一連の事件の不可解な謎は少しは説明がつくのかもしれない。
 被害者が残したダイイングメッセージや、使われていた特殊な毒。
 とても信じがたいことではあるが……。
 ケスパイユは眉間に深く皺を寄せながら、話を続ける。
「厄介なことに、”グリモゲーテ”にはこの国の権力者が名を連ねているという噂だ。そのメンバーは、一部を除いてほとんど不明だが……」
 一度言葉を切り、彼は立ち上がった。
 顔色を失っているソニエの前に腰を下ろし、彼女の手をとる。
 少し骨ばった大きな手が彼女の白い手を包みこみ、声のトーンを若干落として、彼は告げた。
「ソニエ、私がおまえをファルデローのもとに帰したくない理由が、そこにあるのだ」
 ソニエは青い顔のまま、相手の顔をじっと見つめる。
「これは私が独自に入手した情報だが……、セディック=ファルデローの父・ロドニック=ファルデローは、その組織の一員だったという噂がある」
「…………!」
 空気が張り詰めるのがわかった。
「そんな……」
「ついでに言うなら、マラドーム公議会議長。彼もまた、限りなく黒に近いグレーといったところだろう」
 ソニエは完全に言葉を失う。
 アリュースはこれまで以上に衝撃と怒気を滲ませていた。
「その話が事実だとすると、ファルデローは最初からそんなおぞましい目的のために、ソユーブとソニエを買い取ったと……」
「――ソニエ、大丈夫だ。ここにいる限り、おまえは安全なのだから」
 ケスパイユはなだめるように彼女の肩を軽く叩きつつ、腰をあげる。
 それからわずかに肩を落とし、神妙な声でつぶやいた。
「だが、我々は、最悪の可能性を考えておく必要がある。完全に謎に包まれている、”グリモゲーテ”の指導者……。”総帥(そうすい)”と称されるその人物が、もし、大公家の人間だとしたら……」
「…………」
 ソニエは眩暈を起しそうな衝撃に見舞われた。
 多くの疑惑が一つの明確な形を取り始めるのを感じていた。
 そして自分の犯した取り返しのつかない過ちに、打ちのめされていた。
 セディックは一生、ソニエをソユーブに返すつもりなどなかったのだ。
 自由を与えられることなど、最初からありえなかったのだ。
 ――――あの時。
 ソニエは確かに気付いていた……。
 ロドニック=ファルデローに初めて会ったとき、彼の瞳の奥には、何かが潜んでいた。
 物欲や情欲とは違う、得体のしれない異様なぎらつきがあった。
 それは決して、錯覚などではなかったのだ。



 
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