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チェイリードの娘

13

 湖をのぞむ部屋。
 そのバルコニーでうずくまったまま、吹き付ける風に身を晒す。
 湖から吹く風は、街中のそれよりずっと温度が低い。
 冷え切った体を投げ出したまま、ソニエは同じ疑問を繰り返し思い浮かべていた。
 ――――祖母はどうして、何も話さなかったのだろう。
 息を引き取る直前まで、ただ、――『ソユーブを離れるな』と。
 それだけを繰り返し言い残し、肝心なことはなにも語らなかった。
 寝台の上に横たわる、すっかり衰弱した祖母の姿が思い出される。
 幼い頃にソニエを厳しく優しく導いてくれた、あの威厳ある理知的な婦人像は、彼女が床に伏すとしだいに失われていった。
 骨ばった白い手を伸ばし、ひたすらに『ソユーブを離れるな』と、同じことをうわ言のようにくりかえしていた。
 それは祖母の唯一の遺言であり、そしてその約束はソニエの意思に反して破られることになった。
 できれば彼女の口から、真実を聞いておきたかったと思う。
 知っていたからといって、自分の力で何かを変えられたのだとか、そんな都合のいい考えはもたない。
 しかし――、知らぬがゆえに誤った選択は確かにあったのだ。



 ヒュウヒュウと、かすれるような微かな風音だけが響く中、部屋の扉を叩く音がした。
 闇の底に沈んだような空間から、その音は彼女を現実に引き戻す。
 蚊のなくような声の返答に応え、扉が開いた。
 入ってきたアリュースは、開けっ放しのバルコニーの扉に気付き、その外側に彼女の姿を見つけるなりぎょっとする。
 まっすぐに駆け寄ってきた。
「……ソニエ!」
 彼の驚きは当然だ。
 薄着一枚の格好で、彼女はバルコニーの手すりもたれかかりながら、力なく座り込んでいた。
 解けた柔らかい髪が風に乱れ、すっかり体温を奪われた肌は青白く、唇は日頃の鮮やかな色を失っている。
 彼女の肩に触れたアリュースは、その冷たさに更に驚愕したようだった。
「――早く中に入ろう。ここは冷えすぎる」
 肩を抱き、立ち上がらせて、ソニエを部屋の中へと導いた。
 バルコニーのガラス戸を閉めると、部屋にあったガウンを羽織らせて長椅子に座らせる。
 それから銀の蝋燭台を手にとって、彼は長い蝋燭に火を灯した。
 薄闇の空間に、オレンジの暖かな光が浮かぶ。
 沈黙したままのソニエの横に腰掛け、アリュースは彼女の冷たい手をとった。
 温めるようにその手を優しく包む。
 彼の温かい手の感覚に、ソニエは切ないほどの安堵感を覚えた。
「僕は……、きみと離れた八年間を、今日ほど悔いたことはない。今僕のなかにあるのは、昨日までのどこか身勝手な嫉妬ではなく、ファルデローへの純粋な憎しみだ」
 穏やかな口調で、けれど自身を責めるようにアリュースは話した。
「ソニエ、きみは何も悪くない。一人でこの二年間、苦しんで、耐えてきたんだろう? 背負わされたものも、降りかかった災難も、きみ一人の身にはあまりに重過ぎる」
 真横から聞こえる温かい声を、ソニエはただ黙って聞いていた。
 十二歳の頃よりうんと大きくなった手から伝わる温もりと、彼女の心をゆるやかに溶かす心地よい声が、今ソニエの感覚を支配するすべてだった。
 自然と目尻に水滴が滲み、頬を伝って流れ落ちた。
「ソニエ」
 アリュースは彼女の肩を抱き、彼の真正面に向かせた。
 ソニエの大きな目に、深い色の瞳が映る。
 彼女を捕らえて離さない、懐かしくて美しい、どこまでも透き通った瞳だ。
「きみは一人じゃない。僕がいる。もうきみの側を離れないと誓う」
「……アリュース」
 強い決意を感じさせる、真っ直ぐな光。
 その力に捕らわれつつも、心に一瞬チクリと差した痛みが、彼女に罪状を突きつけた。
 意図せずに、ソニエの目線は宙をさまよいアリュースから逃れる。
 そのささやかな動きを、彼は見逃さなかった。
「……ソニエ」
「…………」
 ソニエは口を閉ざす。
 アリュースは軽く目を伏せ、そして少し切なげな声を漏らした。
「今日会ってからずっと、きみは僕の視線から逃れようとするね。その原因は僕自身にあるのかい? それとも……、僕が侵してはならない君だけの領域の問題なのだろうか?」
 胸が詰まるような感覚に突き上げられ、ソニエは逸らしていた瞳をアリュースに戻した。
 物悲しそうな顔が彼女に向けられている。
 一気に込み上げてくる罪悪感が彼女を襲った。
 手の平で顔を覆い、再度彼の視線から逃れるように、声を絞り出した。
「アリュース……、ごめんなさい、わたし、わたし、あなたのことを……」
「…………」
 途切れ途切れに紡ぐ言葉を、アリュースはただ静かに聞いていた。
 ソニエを包む空気が悲しいほどに優しすぎて、余計に涙は止まらなくなる。
「何も信じられなくなって……、いいえ、そんなのは言い訳で……、わたしはあなたを、よりにもよって、あなたのことを」
 ――――疑ってしまった……。
 その真実を口にしたあとは、ただアリュースの反応を見るのが恐くて、顔を覆ったまま泣いた。
 静寂の中に響く細い泣き声。
 アリュースはしばらく沈黙を守っていた。
 ソニエの背に手をあて、彼女を落ち着かせようとしてくれる。
 嗚咽が一段落するのを待ってから、彼は静かに話し始めた。
「きみは昔から、呆れるくらい正直だったよね。そんなことで悩み続けて、自分を責めていたなんて……、本当に、あの頃のまま何一つ変わっていないんだな」
 顔を固く覆っていたソニエの手をそっと解き、アリュースは再び彼女を自分の方に向かせた。
 腫れぼったく赤くなった瞳を、ソニエは下に向けたまま。
 長い睫毛を伝って雫がこぼれた。
 彼の指が頬に流れ落ちたその涙を拭い、そして乱れた栗色の髪をゆっくりと撫でた。
「僕が一瞬でもきみを不安にさせていたことは悲しい。でも、それを打ち明けてくれてよかった」
「…………」
 ソニエはためらいがちに、揺れる視界にアリュースを映した。
 その震える瞳を捕らえて、彼は少し笑う。
「今でも、僕を怪しいと思ってる? こうやってきみを巧妙に騙して、油断させて、きみを罠にはめるかもしれないって……?」
 ソニエは必死に、何度も首を横に振った。
 そのあまりに真剣な表情に、アリュースはまた笑いをこぼす。
 そしてそのままゆっくりとした動きで、ソニエを自分のほうへ引き寄せた。
 広い肩に抱きしめられる。
 とてつもない安心感と、同時に胸を締め上げるような切なさがこみあげた。
「……構わないんだ。きみが心から安心できるまで、好きなだけ疑ってかまわない。僕は何があってもきみを裏切らないから。でも……」
 耳元でささやきながら、アリュースは腕に力を込めた。
「再会する前から、僕はきみを攫(さら)いたいと思っていた。そう思って計画的にあの舞踏会にもぐりこんだ。騙してでも、傷つけても、たとえ何をしても奪い去りたいと思っていたのは真実だ。――もちろん、今でも……」
 温かい腕の中でソニエは、情熱をそのまま吐き出すような声を聞いた。
「ずいぶん身勝手な人間だろう。だけど本心だった。それはある意味、きみに対する裏切りだったかもしれない……」
 アリュースは薄く笑いながら、彼女を包んでいた腕の力を緩める。
「アリュース……」 
 再び流れ出しそうになる涙を抑えながら、ソニエは情けない鼻声で答えた。
「アリュース、……ありがとう……」
 オレンジの光に輪郭を彩られた世界で。
 彼はソニエの頬に手を添えて、唇にそっと口を付けた。
 労わるように、慈しむように。
 そして見つめあい、互いの想いを確認しあうように再度深く唇を合わせた。



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