PREV | NEXT | TOP

チェイリードの娘

14

 ――――夢を見た。
 焦がれてやまない、懐かしい故郷の夢を。
 ソニエは愛しい大地に降り立ち、愛しい人々に囲まれて生きていた。
 それは失われた過去の幻影か、それとも望み描く未来への憧憬か。
 一面に咲き乱れるサテラの青い花。
 その中で佇むのは自分。
 そして、その隣には……。
 隣に視線を向けようとしたとき、視界に白く眩い光が広がった。



 目覚めた彼女は、朝の光に満ちた部屋にいた。
 長い間忘れていた、穏やかな目覚めの瞬間だった。
 昨夜泣きはらした瞳は赤く腫れぼったいが、それ以外は、心も風もなにもかも、穏やかな朝だった。
 アリュースと別れた後、不思議なくらいゆっくりと安らかに眠ることができたのだ。
 寝台から降りてバルコニーのガラス戸を開ける。
 そして新鮮な空気の中に広がる外の景色に目を向けた。
 それはまさに、珠玉の絶景。
 どんな宝石にも勝る透明なブルーが、滑らかに朝日を反射して、幻想的な世界をつくりだしている。
 湖畔の白鳥が一斉に飛び立てば、煌びやかに、清らかな純白の羽が光の中を舞った。
 その景色に見とれていると、ドアを叩く音がした。
「ソニエ、起きてるかい? 朝食を庭で一緒にどうかって、ケスパイユ候がおっしゃってる」
 アリュースの声だった。



 湖側に面した中庭では、既にアリュースとケスパイユが席についていた。
 ソニエが近づくと、アリュースは立ち上がり、彼女のために用意された椅子を引いてくれる。
「ありがとう」
 椅子に腰掛けながら、彼らの顔を交互に見た。
「おはようございます、おじ様、アリュース」
 ソニエの腫れた目を見て、ケスパイユはわずかに顔をしかめる。
 しかしソニエが何か吹っ切れたような笑顔を向けると、安心したようにコーヒーカップに口をつけた。
 それから少しふざけたように、彼はアリュースに向かって言う。
「可愛いソニエを苛めてくれるなよ。あまり女泣かせの男に、うちの娘はやれんぞ」
 グレーの瞳がからかうように笑っていた。
「お、おじ様……」
 真っ赤になったソニエが何か反論しようとする。
 しかしアリュースはひどく真剣で、それでいて確固たる決意を感じさせる目をケスパイユに向ける。
 手元のナプキンで口元を軽く拭き、そして姿勢を正した。
「ケスパイユ候、僕はすべて片付いたら、ソニエを妻にしたいと思っています。必ず、彼女を幸せにすると誓います。……認めていただけますか?」
 アリュースの態度にケスパイユは一瞬気圧されつつ、しかしすぐに穏やかに笑った。
「わたしは父親ではないが、ソニエが幸せになれる相手と一緒になってくれることを望んでおるよ。あとはソニエの気持ち次第。……まあ、そっちのほうは問題なさそうだがな」
 ソニエの真っ赤に茹で上がった顔を見やりながら、ケスパイユは快活に笑った。
 穏やかな朝の、幸せを感じさせる光景だった。
 このアラトリムという街にきて、ソニエは初めて、愛しい時間というものを知った。



 しかし、その時点において問題は山積みのままだったのだ。
 ケスパイユはソニエに、ソユーブの現状について教えてくれた。
 そのことでソニエは激しく取り乱し、いてもたってもいられない気分になった。
「どうやらファルデローの指示で、相当な人数の工夫がソユーブに送り込まれているらしい。屋敷周辺を掘り起したり、床板を剥がし回ったりと、随分荒々しい作業が始められているようだ」
 それを聞いた瞬間、ソニエは手にしたパンを落しそうになった。
 気遣うようにアリュースが彼女を見つめ、そしてケスパイユに問う。
「それは、間違いないのですか」
 ケスパイユは苦い顔でそれに答えた。
「ああ。ひそかに部下を送って様子を調べさせた。……もっとも、周辺住民も立ち入りを一切禁じられていて、詳しい様子まではわからんようだが。――なにを必死に探しているのやら……」
 それは十分ありうることであったが、とてつもないショックを与える情報には違いなかった。
 セディックは、ソユーブに手を加えているなど、ソニエに一言も話さなかった。
 今となっては裏切りもなにもないのだが……。
 彼の父親はソユーブはそのままソニエに与えるとか言っていた。
 そんなことを馬鹿みたいに信じていた自分もどうかと思うが、考えるほどに口惜しい。
 身を呈してまで故郷を守ったつもりだった。
 しかしそんな行為は、最初からまったく無意味なものだったのだ。
 ――――全ては罠だったのだから。
 昨日のケスパイユの話から、多くのことが明らかになった。
 破産など、チェイリードのソユーブにおいて、ほぼありえない話だと彼は言った
 祖母の死後発覚した多額の債務や思わしくない荘園の財政状況に関しては、かなりの確率で裏でロドニック=ファルデローの根回しがあったらしい。
 あれこれ汚い計略をめぐらせた上で、何食わぬ顔でロドニックはソニエに救済の手を差し伸べてきたのだ。
 最初からソユーブとソニエを手に入れるつもりで。
 彼が欲したのは貴族の称号だけではなかった。
 そしてその野望はそのまま、彼の息子へと受け継がれた。
 書類上の話をするならば、ソユーブの所有権は現在、名実ともにセディック=ファルデローのものだ。
 誰も彼を止めることはできない。
 ただケスパイユの話によると、法に訴える手段が存在するという。
 セディックとその父親の非合法なやり口を叩けば、すべてを白紙に戻して、ソユーブの所有権も奪還できるかもしれないというのだ。
 もちろんソニエの離婚を前提にした話だ。
 ことはそう簡単には運ばないだろう。
 ソユーブの権利証書はセディックが厳重に所持しており、なによりソニエには自ら婚姻誓書に署名したという事実がある。
 現在の国法では、合意の上の婚姻について原則として離婚は認められていないのだ。



「司法庁には多少顔がきくと、昨日も話したと思うが……、なんせファルデローは厄介でな。せめてソユーブの権利証書だけでもこちらにあれば、奴を止める算段もつきそうなものだが……」
 ケスパイユは眉間に皺を寄せて深い息をつく。
 しばし思考をめぐらせてから、ソニエは重い沈黙を破った。
「ソユーブの権利証書……。わたし、それがどこにあるか、見当がつきます」
 ファルデローの屋敷において、ソニエには基本的に、自分の部屋以外の場所への無断入室は許されていなかった。
 だから屋敷内を知り尽くしているかといえば嘘になる。
 しかしそれでも何年か暮らした建物のことだ。
 重要なものがどこにあるかくらいは、なんとなく想像がつく。
 実際、ほぼ確実といえる見当がついていた。
 ソニエは過去に数度足を踏み入れただけの、セディックの私室のことを思い出していた。
「――ソニエ、それはいけない」
 真っ先に、厳しい顔でケスパイユが諌めた。
「そうだ、ソニエ。きみはここから出るべきじゃない」
 アリュースもそれにならう。
「でも……」
「ソニエ、危険なんだよ。すべてを知った後なのだ。わからないはずはないだろう。あの屋敷は、……大公夫人と繋がるセディック=ファルデローは危険なのだ」
「…………」
 ケスパイユの諫言に、返す言葉を失う。
 ソユーブのために彼女ができることは何も無いのだと、その宣告が痛かった。



 その日の午後、ケスパイユは、長官に会うといって司法庁へ赴いた。
 アリュースは一度デモントへ戻る必要があるといって、ケスパイユが外出したあとに屋敷を出た。
 ソニエが見送りに出た際、アリュースは彼女に指輪を手渡した。
 薄紅のダイヤモンドがはめ込まれた白銀のリング。
 それをソニエの指に通す。
「……母の形見なんだ。よかった、サイズも合う」
 キラリと上品に輝く繊細なつくりの指輪は美しい。
 驚いたソニエはアリュースの顔をまじまじと見つめる。
 アリュースは少し、決まりが悪そうに笑った。
「少し気が早いかな。でも、きみに持っていて欲しくて」
「……いいえ、いいえ、ありがとう」
 ソニエはその指輪のついた指を手の中にぎゅっと包み込む。
 そんな姿を愛おしげに見つめていたアリュースは、彼女の唇に軽くキスをして、馬にまたがった。
「――じゃあ、二、三日で戻るから。それまで大人しくしているんだよ」
 ソニエに向かって優しく微笑むと、彼は馬をかけて屋敷の正門を出て行った。



 アリュースの姿をしばらく見送ったあと、ソニエは、門の影に佇む人影に気付いた。
「……カレン?」
 こっそりと怯えるように身を隠しながら、カレンが門柱の脇に立っている。
「ソニエ様!」
 周囲に人影がないのを確かめると、カレンはソニエのほうにかけよってきた。
 昨日の件で、身代わりの少女が無事に屋敷を出たのを確認したあとは、カレンにはファルデロー邸に戻らず自宅へ帰るように言ってあった。
 ソニエの不在がばれた後、執事のレオンがカレンを追及するのは目に見えていたからである。
 折をみて呼び寄せるつもりだったのだが、現れたカレンの様子がおかしいことにソニエは気付いた。
「カレン、よくここがわかったわね。何かあったの?」
 カレンは怯えたような表情で、ソニエに縋った。
「ソニエ様! 旦那様が、旦那様が今夜お帰りになるらしくて……、さきほど、気になって様子をうかがいにお屋敷に近づいたら、使用人たちが必死に奥様を探し回っていて、大騒ぎに……!」
「セディックが、今夜……」
 その名を口にしながら、ソニエはきりりと苦い思いを噛み殺す。
 とりあえずカレンを玄関ホールに招き入れた。
 カレンは相当焦っている。
 無理も無いことだった。
 彼女は正真正銘ファルデロー家に仕える立場の使用人だ。
 ソニエが望んで雇い入れたのは事実だが、不祥事を起こせばカレンはセディックの咎めを受けることになる。
「どうしましょう、ソニエ様……」
 ソニエは考えた。
 カレンのことは、彼女が承諾するのなら、いざという時はともにファルデロー家を離れてもらおうと考えていた。
 ケスパイユ候の屋敷に置いて貰うこともできた。
 しかしセディックとの間にある軋轢には、彼女が想像もしないような恐ろしい事件が関わっている。
 セディックが逃げ出したソニエをおびき出すために、街に移り住んでいるカレンの家族さえ巻き込まないとは言い切れなかった。
 ソニエはある決意をした。
 今にも泣き出しそうなカレンの手をやんわりと握りながら告げる。
「今から、ファルデローの屋敷に戻ります」
 権利証書のことも気にかかり、一度屋敷に戻らなければという衝動に駆られていた。
 セディックの帰宅より早くソニエとカレンが連れ立って戻れば、他の使用人たちは少なくとも、カレンを責めることはできないだろう。
 ソニエが我侭で彼女を連れまわしたのだと言い張れば、セディックにもカレンを罰する道理がないはずだ。
 非常に危険な行為だった。
 屋敷に戻ったあと無事に権利証書を見つけたとして、その後が問題だった。
 セディックの帰宅前に、再度使用人の目をかいくぐって脱出するのは、よほど困難だろうと予測できた。
 アリュースやケスパイユ候が、猛烈に反対する顔も容易に想像できる。
 しかしソニエはどうしても、その時の衝動を抑えることができなかった。



PREV | NEXT | TOP
Copyright (c) 2007-2008 sayumi All rights reserved.