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チェイリードの娘

16

 はやる心臓を抑えながら、ソニエは金庫の鍵穴に鍵を差す。
 ――――カチャン。
 小気味のいい音をたてて、あっけなく扉は開いた。
 中には大量の紙の束と、よくわからない小物が無造作に転がっている。
 その紙の束をまとめて取り出し、無心に探した。
 故郷の名が記された書類を。
 一枚一枚、震えそうになる指で紙を捲りながら、緊張に潤む目で文字を追う。
 その場に座り込んで探し続けた。
 それはとてつもなく長い時間に感じられた。
 そして――――。
 古びた一綴りの書類にたどり着く。
「…………!」
 『ソユーブ』という文字が並ぶ、ソニエにも見覚えがある紙をついに発見した。
 ――――やった。
 取り戻した。
 これさえあれば、自分もソユーブも救われる……!
 そう思って立ち上がったとき、机の端に軽く肩をぶつけた衝撃で、金庫の中から何かが転がり落ちた。  
 その音に思わずひやりとする。
 コロコロと乾いた音をたてて転がり、やがて書棚の足にぶつかって動きを止める。
 それは一見、水晶かなにかに見えた。
 アメジストのような深い紫色の、丸みを帯びた石だ。
 窓から差し込む鈍い光を跳ね返し、なんだか妙な光を放っている。
 ゆらゆらと動く、まるで生きているかのような不自然な光を纏っていた。
 ソニエはその石を手にとった。
 手の中にすっぽり納まる程度の大きさで、近くで見ると、表面に手の込んだ細やかな細工が施されているのがわかる。
 そしてそれを光にかざした時、驚愕に震えた。
 ――――これは……。
 紫水晶の奥に、浮かび上がる一つの絵柄がある。
 ――――黒い薔薇と三本の刺(トゲ)。
 まるでもやもやと燻っていた煙が、一ヶ所に集まって一つの形を成してゆくように。 あるいは暗く深い水の底からゆっくり浮上してくるように、見知った記号がゆらりと浮かび上がった。
 ――――『グリモゲーテ』。
 古い呪術を崇め、原始的で野蛮な儀式をおこなうという、狂気じみた秘密組織。
 他ならぬその組織の紋章が、特殊な技法で石の中に刻まれている。
 どう考えても、かの組織の一員であることの”証”としか思えない代物であった。
 ソニエは身の毛がよだつ思いで、とっさにその石を手放した。
 机の上に軽い音をたててそれは転がる。
 ――――ああ、やはり……!
 ドクドクとざわめく血流に翻弄されながら、壁によりかかった。
 湧き上がるのは、とてつもない恐怖と、絶望と、憎しみと、やり場の無い虚脱感。
 セディックの顔が脳裏にちらついて、ソニエは奥歯をかみしめた。
 その瞬間だった。

 ――――ガタンッ
 
「…………!」
 彼女の背後で響く物音。
 氷の刃で突き刺されたような衝撃が、心臓を貫いた。
 さきほどとは比にならない冷たい汗が、じっとりと全身に滲み出す。
 確かに感じる、――人の気配。
 ソニエはその場に凍りついたように固まり、呼吸さえあからさまに震えた。

「――見ぃちゃったぁ」

 緊迫した空間に響いたのは、緊張感のかけらもない女の声だった。
「んふふふ……っ」
 場違いな浮ついた笑みをこぼしながら、その人物が書斎に入ってくる。
 ソニエはぎこちない動きで、振り返った。
「……あなたは……」
 艶やかなプラチナブロンドと、白桃のような白い肌、そして鮮やかな紅が引かれた形のよい唇。
 愛嬌のある大きな緑青の瞳に、目を瞠るほどに魅惑的なスタイルを誇る、あでやかな女性。
 忘れもしない。
 舞踏会の夜に会った、シェリル=フォン=マラドーム。
 セディックの現在の愛人だ。
 やたら高価そうなボルドー色のドレスが、彼女の美貌を引き立てている。
 露出した肩に羽織った透け感のあるショールと、白い耳から垂れ下がるパヴェボールのドロップイヤリングが見事にバランスをとり、彼女の都会的なセンスの良さを物語っていた。
 なぜ彼女がここにいるのか、さっぱりわからない。
 気が動転したソニエには、とっさの言い逃れを考える余裕などなかった。
 男心をくすぐるであろう、小悪魔的な瞳が、面白そうにソニエを見ている。
 口元に手を当てて、クスクスと笑いながら、うろたえるソニエの姿を面白がっているようでもあった。
「なんだかとんでもないもの、見ちゃったみたいねぇ。御主人のお部屋でコソコソと、いったい何なさってたのかしら?」
 魅惑の笑みを惜しげもなくこぼしながら、シェリルは棒立ちになったソニエの周囲をぐるりと回る。
 カツンカツンと、細いヒールの音が、やけに耳に響いた。
「あ、あなたこそ……、どうして、このようなところに……」
 震える喉からどうにか声を絞り出しながら、頭の端で考えていた。
 ――――セディックに。
 ――――セディックに知られれば、すべて終わりだ。
 この女性はどこまで知っているのだろうか。
 ひょっとすると彼女も共犯者なのだろうか。
 ケスパイユは確かに言った。
 マラドーム議長もまた、例の組織に関わっていると……。
 ソニエの問いに、シェリルはまた愉快そうに目尻を下げて、間近に顔を覗き込んできた。
「嫌だ、そんなに怯えることないじゃない。わたくしべつに恐い女じゃなくってよ?」
 楽しそうに声をたてて笑いながら、そんな戯れ言を口にする。
 そのあとでようやく、彼女はソニエの質問に答えた。
「――待ち伏せようと思ったのよ」
「……え」
 思わず一瞬、ドキリとする。
「だって、セディックってば、絶対にこの屋敷には呼んでくれないし」
 ああセディックのことか、と少し胸を撫で下ろすが、決して状況が好転したわけではなかった。
「ここ数日まったく連絡が取れないのだもの。どこにいるのかもわからないし……」
 細い指先をいじりながら、シェリルは紅い唇を尖らせて声を出す。
 少し拗ねたような甘い声音に、つい魅了されそうになった。
 ソニエには、この女性がなぜ、セディックのかつての愛人を全て退け、その唯一の座につくことができたのか、なんとなくわかる気がした。
 そんなことに思考を巡らせるのは、この場でひどく場違いだろう。
 しかしそれだけ、同姓であるソニエの目から見ても、彼女の仕草は一つ一つがチャーミングかつ扇情的だと思えた。
「彼が今日帰るって聞いたから、もういっそのこと押しかけてやろうって、そう思ったの」
 器用に表情を変え、悪びれもせずににっこりと笑う。
 思わず引き付けられていたソニエの視線は、やがて現実に引き戻される。
 シェリルは爛々と輝く瞳に、すっと残酷ともいえる光をたたえた。
「そういえば、あなた……、なんだか巷ではとんだ噂の的らしいわね。お兄様から色々聞いちゃったの。――『呪われた娘』って、あなたのことなんでしょ?」
「…………」
「それからわたくし、知ってるのよ。あなたが、あの舞踏会に出席していた黒髪の青年と、仲良く密会してらっしゃるのを……」
 ソニエの表情が動いたのを、シェリルは見逃さなかった。
「あら、意外? アラトリムでのマラドームの力、あまり侮らないほうがよろしいわ」
 ひたすら楽しそうに喋り続けるシェリルを前に、ソニエはただ呆然と立ち尽くす。
 こんな風に相手を追い詰めるやり方があることを、その時初めて知った。
「――それで、結局、ここで何してらっしゃったの? それって……、わたくしの見間違いでなければ、……金庫よね?」
 ソニエの背後にあるものに目をやり、シェリルは緑の瞳をそばめる。
「…………」
 これはもう、逃げ場もなにもなかった。タイミングの悪さを呪う以外、どうしようもない。
 彼女の尋問を真正面から受けるしかなかった。
「何を持ってらっしゃるの? ちょっと見せてちょうだいよ」
「…………!」
 ほんの一瞬の隙に、シェリルはソニエの手から、権利証書を摘み取った。
 そこに記された字面を目で追い、彼女はきょとんとした顔で首をかしげる。
「なあに、これ? ……ソ、ユーブ……?」
 ソニエがそれを取り替えそうと手を伸ばしかけた時。

 ――――バターン!!

「…………!」
 派手に部屋の扉の開く音がする。
 そしてズカズカと乱暴ともいえる足取りで、男が部屋に入ってきた。
 早足で書斎に直行し、ソニエたちの前に現われる。
 その姿を見た瞬間、ソニエは完全なる絶望に襲われた。
「……セディック……」
 まるで燃え盛る火のように鮮やかな赤い髪。
 相変わらずの派手な外套をまとったままそこに立っていたのは、この部屋の、そしてこの屋敷の主人以外の何者でもなかった。
 セディックは自分の書斎に佇む二人の女の姿を前に、薄青い瞳を極限まで見開いている。
「セディック!」
 もう身動きすら取れずに硬直しているソニエとは対照的に、シェリルはひどく気楽なものだった。
 手にしていた権利証書をあっさりソニエに押し返すと、彼のほうへ嬉々と歩み寄り、白い腕を広げて肩に抱きつく。
 そして大きく背伸びをして、頬に軽く紅い唇を寄せた。
「おかえりなさい……」
 甘い声で囁いて、そのまま彼の腕に自らのそれを絡める。
 当のセディックは瞠目したまま、シェリルとソニエを交互に見ていた。
 その様子から察するに、シェリルの訪問もまた、彼には予想外の出来事らしかった。
 しかし平静を取り戻したセディックの感覚を真っ先に刺激したのは、ソニエの存在だった。
 シェリルに腕を絡め取られたまま、瞬間的に険しい表情が浮かび上がる。
 鋭い視線が投げつけられ、低い声が怒りを滲ませてソニエに問うた。
「……何をしてる」
 言いながらソニエの手元に視線が降りてきたかと思うと、彼はその書類を乱暴にもぎ取った。
 書類の内容を一目で確認するや、セディックは軽く舌打ちし、冷たい怒りに満ちた目でソニエを見据える。
「おまえという奴は……」
 腹の底から搾り出されたような声が、ソニエを震え上がらせた。
 しかし、その恐ろしい空気を横から崩したのは、彼にくっついていたシェリルだった。
 彼女は甘えるようにセディックの腕を引っ張る。
「ちょっと、せっかく待ってたのよ? わたくしにつまらない喧嘩なんかお見せにならないで。物騒なのは嫌いなんだから」
 頬を膨らませ、鼻にかかった声で、シェリルはセディックの関心を自分に向けようとする。
 彼女の目論見(もくろみ)は成功した。
 若干冷静さを取り戻したセディックは、軽く息を吐いて表情を変える。
 シェリルに向かって甘い微笑みを浮かべながら、彼女の肩を抱いた。
「これは、見苦しいところをお見せした、シェリル嬢。下で何か飲み物でも用意させましょう」
 そつなくエスコートをして彼女を部屋の外へと連れ出していく。
 見計らったようなタイミングで部屋に入ってきたレオンに何か目配せをして、彼はシェリルとともにその場から消えた。
 残されたソニエは、一歩も動くことができなかった。
 ――――終わった。
 あと一歩のところで全てが泡と消えた。
 もう終わりだ。
 そう確信した瞬間だっった。
 書斎に入ってきたレオンは、ソニエが暴いた金庫に目をとめて、深く顔をしかめる。
 そして動けないソニエの横に立ち、それらの片付けを始めた。
「あなたには失望しました。ここまで浅はかなことをなさるとは……」
 冷たい声音で呟きながら、金庫をもとの引き出しの中に収める。
 鍵を隠し棚の中に戻し、目隠しの本もきっちりと並べた。
 そして放心したように佇むソニエの腕を掴み、彼女を部屋へと引っ張っていった。



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