チェイリードの娘
18
雲の多い夜だった。
月の光は何度も厚い雲に遮られ、不均等な間隔をあけては闇が深くなる。
静かな夜半。
さきほどまでけたたましく鳴り響いていた、あの老婆の笛の音は、ぴったりと止んでくれた。
部屋から出ることに成功したソニエは、ドレスの裾を摘み上げて、そっと二階の廊下を進んだ。
夕刻前にセディックを乗せたと思われる馬車が、屋敷から出立している。
それ以来、戻った気配はない。
アリュースの言ったとおりに、状況は進んでいた。
階下の様子をうかがいながら、慎重な動きで階段を一段ずつ下りる。
裏口のある東棟の廊下までは、南の正面玄関からは随分と距離があり、遠回りゆえに時間を要するのが必至だった。
焦る気持ちは高ずるが、失態は許されなかった。
ただアリュースのもとへたどり着きたいという思いの強さが、ソニエに凄まじい集中力を与える。
周囲の状況を探ることに神経を集中させながら、用心深くも機敏な動きで足を下ろしてゆく。
ほとんど音もたてずに一階まで降りることに成功した。
装飾品で溢れかえる廊下を進み、食堂の大広間と調理場を通り過ぎると、その先にあるのは最大の難関といってもいい、執事レオンの部屋だ。
その部屋の前さえ無事に通り抜ければ、物置部屋の横にある裏口へと行き着くことができる。
あとはできるだけ静かに扉を開き、音を立てずに外に出て、そしてそっと扉を閉めればいい。
そうすればその先は、ひたすら裏門へ向かって庭を走り抜けるだけだ。
先の道順を頭に思い描きながら、ソニエはレオンの部屋を前にする。
壁際に飾られた大きな獅子の彫像に隠れ、人が出てくる様子がないことを注意深く確かめた。
しばらく様子をうかがうが、どうやら部屋の中からは人の気配らしきものが感じられない。
寝静まっているのかとも思ったが、セディックの供で大公家へ同行している可能性のほうが高かった。
ソニエは深く息を吸うと、素早い動きで、レオンの部屋の前を通り抜けた。
やがて外国産の上等な花器の飾られた一角へたどり付き、吸い込んだまま止めていた息を吐く。
落ち着いて呼吸を整えながら前を見れば、すぐ眼前に目指してきた扉があった。
せり上がる期待に胸を高鳴らせながら、慎重に戸口の鍵に手をかけた。
――――その時。
「――どこへ行かれるのですか」
全身の神経がそばだち、体に衝撃が走り抜けた。
背後から、投げかけられる声。
無感情に、無慈悲に、その声は彼女の動きを封じてしまった。
暗闇の廊下に、赤い蝋燭の光が灯る。
振り返ることができないソニエの視界にも、不必要な明るさが広がった。
「……お部屋にお戻りください。ソニエ様」
穏やかながらも威圧感のある執事の声が、ソニエの背にかけられる。
「どう、して……」
掠れたうめきは、ほとんど声にならなかった。
沈むような沈黙。
ソニエの乱れた息遣いが、不自然に静寂を破っていた。
――――アリュース……。
がくんと腰の力が抜け落ちる。
扉の取っ手を掴んだまま力なく崩れ落ちた。
背後から嘆息が聞こえ、他人の力で腕が持ち上げられる。
レオンは苦い顔で彼女を見下ろし、彼女の腕を引っ張った。
しかしソニエは、その老人の隙を狙って、腕を振り解く。
「…………!」
拘束から逃れると、裏口とは逆方向の正面玄関を目指して走った。
レオンが何かを叫ぶ。
だがそんなものに構うはずもない。
助けを追い求めるように、絡まるドレスの裾と戦いながら無我夢中で走った。
レオンしか気付いてない。
――――それならまだ、望みはある……!
けれど。
希望は残酷にも打ち砕かれた。
思いがけない方向から伸びてきた新たな手が、ソニエの腕をがっちりと捕らえる。
勢いよく引っ張られて、反動で後ろ向きに倒れこんだ。
――――トンッ。
ソニエの体が倒れこんだ先には、もっとも恐れていた人物の姿があった。
飛びのくように体を離し、立ちはだかった男の顔を見上げる。
セディックの目は鋭く、恐ろしかった。
「いい加減にしろ」
低く押し殺された声は、有無を言わさぬほどの強い圧力で相手を抑えつけようとする。
「部屋に戻るんだ」
「…………」
身のすくむような怯えを感じながらも、ソニエは目の前の夫をにらんだ。
「……嫌よ」
なぜ、ここにいるのか。
どうして彼らは彼女の計画を知りえたのか。
ソニエが事情を知り得るはずもない。
そこまでして彼女を捕らえ続けようとするセディックの執念に、ただ憎しみと恐怖が湧きあがった。
絶望という波が再びソニエの足元の押し寄せて、希望を洗いざらい飲み込んでゆく。
猛烈な視線で目の前の男をにらみ続けた。
この男はソニエのかけがえの無いものを奪いゆく存在だ。
「わたし、全て知っているのよ。あなたがわたしを何に利用しようとしているのか。なぜソユーブを手に入れたのか。何もかも……」
「…………」
セディックの表情は動かない。
感情のいきり立つまま、吐き捨てるようにソニエは言った。
「卑劣な人。汚いわ。あなたたち親子は最初から人としての道理を失っている」
「…………」
それでもセディックは、無表情のまま彼女を見下ろしていた。
日常的な毒舌さえ口にしない、不自然な沈黙はひどく不気味だ。
しだいにソニエの心に底知れない恐怖が広がっていく。
「――そこをどいてちょうだい。この腕を放して。これ以上ここにいるのは耐えられない。わたしはあなたを絶対に許せない!」
力任せに、ソニエは自分の腕をつかんでいた手を振り解いた。
セディックはフンと鼻で笑って、ようやくその口を開いた。
「それは、契約違反だな。ソユーブを買い取るかわりに、おまえはこのファルデロー家の、この俺の”所有物”になったんだ」
「契約違反はあなたのほうよ! ソユーブを好き勝手に土足で汚して、人の道に外れた行いを、よくも……っ!」
「なんとでも言えばいい。だが、おとなしく部屋に戻るんだ。これは命令だ」
セディックは再度強くソニエの腕をつかみ取る。
振り解こうともがいたが、今回は簡単には外れなかった。
「離して! 嫌だと言っているでしょう! これ以上あなたのような人間の言いなりになんてなるものですか!」
「命令だといっている。戻れ!」
「…………っ」
低い怒鳴り声がソニエを萎縮させる。
しかし、大人しく屈服することなどできるはずもなかった。
激情がこんなにも、行き場を失って全身から溢れ出ている。
どうあっても彼女を屋敷から出させないつもりのセディックを、鳶色(とびいろ)の瞳で再び激しくにらみつけた。
最大限の憎悪と嫌悪感を込めた視線を叩きつける。
瞳に相手を呪い殺す力があればいいのにと、そんなことを本気で考えた。
「あなたの命令など、従う理由も無い!」
渾身の力で拘束を振りほどき、なんとか逃れようと、セディックの脇を通り抜けようとした瞬間。
とてつもなく強い力で腕を捕らえれて……。
――――トンッ。
後ろから首筋に衝撃が与えられた。
ごく軽い衝撃だが、的確に急所を突いている。
「…………っ」
あまりに一瞬のことで、痛みを感じる寸隙も無い。
それを与えたセディックのほうを振り返ることすらできなかった。
全身から力が抜ける。
恨み言を残す間もなく、ソニエの意識はその場であっけなく途絶えた。
意識を取り戻したときは、既に夜明けを通り過ぎていた。
見慣れた忌まわしい部屋の中に、無駄に明るい朝の光が満ちている。
思考がはっきりとしてくるにつれ、自分はしくじったのだと、ただ口惜しい現実にたどり着いた。
何がいけなかったのか、そんなことはソニエには想像もつかない。
そして今となってはもう、深く考える気力すらなかった。
体を起こし、立ち上がる。
のろのろと扉の方へ進み、取っ手に手をかける。
当然のごとく、鍵がかけられていた。
ソニエが持っていたはずの、逃亡用の合鍵は消えうせている。
固く閉ざされた扉の前で、力なくへたり込んだ。
悔しさに涙が溢れ、その場で長い間泣き続けた。
昼食を運んできた若い召使いが、窓際の椅子に悄然と腰掛けるソニエを、気遣わしげに見た。
何か言いたそうに口を開きかけるが、思いとどまり、結局そのまま部屋を出て行く。
ソニエはただ力の無い目を、窓の外に向けていた。
やがて日が傾き、空の色が変わるまで、ずっとそこに座っていた。
そして夕刻前、彼女の前に招かれざる客がやってくる。
男は召使いに鍵を開けさせると、無遠慮にドアを開き、部屋に足を踏み入れた。
日の入り前の光が、部屋の中に赤く漂っている。
召使いに下がるよう指示をして、セディックはその部屋の奥へと歩いてきた。
ソニエは決して男の顔を見るまいと、ただ外を見続けた。
セディックはテーブルの上に置かれたまま、一切手のつけられていない食事にちらりと目を向ける。
それから、決して視線を合わせようとしないソニエの前に立ちはだかった。
視界の端に、不快な赤い色がちらついている。
夕暮れ時の赤い光の中にあってなお、溶け込むことなくその存在を主張している、いまいましい色。
ソニエはよそに視線を向けたまま、反射的に眉をひそめていた。
少しでも視界から締め出そうと、首をひねる。
「多少は思慮深い性質かと思っていたが……、とんだ買い被りだったようだ。よくも感情のままに馬鹿げたことを繰り返してくれる」
激昂しているわけではないが、蔑むような声が投げかけられた。
「…………」
ソニエは一切聞こえないふりをした。
この男と会話をする気などなかった。
話を聞く気もなかった。
存在そのものを無視したかった。
だが、男は嘲笑うかのように、ソニエの心を弄ぶ。
彼女の気を引く唯一のものは、このとき彼の手のなかにあった。
口を閉ざして目も合わせないソニエを、セディックは今更叱責したりはしない。
かわりに、信じられないことを言ったのだ。
「……愚かな男だ。おまえと関わったばかりに人生を棒に振るとは」
酷薄な笑いを交えながら、彼は言った。
その言葉に、胸に重い石が落ちるような衝撃をおぼえた。
ソニエは初めて、ゆっくりとセディックに目を向ける。
彼の口元にはしかし、既に笑みなど浮かんでおらず、昨夜と同じ顔がこちらに向けられていた。
心が読めない無表情だけを張り付かせていた。
鈍くなっていたソニエの心拍が、また、嫌な高鳴りを始める。
「なにを、したの。アリュースに、なにを」
ようやく出した声は少し掠れていた。
自分を見下ろす、感情の読めない乾いた目。
ソニエはそれに向かって、激しく問いかけた。
弱々しい声とは裏腹に、痛烈な目線だけが彼女の強い敵意を溢れさせる。
セディックはほとんど声だけで笑い、機械的に喋った。
「誘拐未遂、不貞行為誘引、大公家での身分偽証……、罪状はいくらでもある。デモント大公家に仕える立場の人間が、そんな罪を公にされてこのアラトリムにいられると思うのか」
「…………」
ソニエは瞳を見開いて、セディックの唇の動きに釘付けになった。
――――『追放だ』、と、その口は語った。
「永久にこの街には立ち入らせない。早ければ今日にもデモントへ強制送還されるだろう」
攻撃的にソニエの感情をいたぶるわけではなく、冷たく嘲弄するわけでもなく、ただ淡々と彼はそう告げた。
それらがより残酷にソニエの心に届く。
「ありがたく思え。こちらから訴えることはしなかった。揉め事はごめんだからな。しかし、これで奴の華やかな出世街道は閉ざされた。由緒正しい伯家の名誉も地に落ちることだろう」
ソニエは小刻みに震えた。
「……なんという、ことを」
口元に手をあて、込み上げる不快感に耐えるように、顔を背けた。
大声をあげてセディックに食ってかかる気力も無い。
鈍重な動きで、無気力な目を窓の外へ向ける。
紅く染まる空の向こう、ずっと遠くを見やりながら、心の中で何かが切れる音を聞いた。
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