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チェイリードの娘

19

「――参ったな」
 灰色混じりの顎鬚(あごひげ)をいじりながら、男はうなった。
「これはさすがに、副長官の権限じゃどうにもならん……」
 いつもぎらついた獣のような瞳が、今は思案に余って迫力を失っている。
 彼の若い部下もまた、隣で頭を抱えていた。
「三人目……。なんの手がかりもつかめないまま、三人目ですよ。いったいどうなってるんですか。しかも……」
 アランドはハンカチで口を覆いながら、視線を巡らせる。
 彼らの前に横たわるのは、魂を失った人間の抜け殻。息絶えて間もない男の遺体だった。
 嘔吐し、ひどく苦しんで胸をかきむしったような形跡がある。
 先の二人と同じく、毒殺なのは明らかだった。
 死んでいるのは四十過ぎの男だが、その男の顔をアラトリムで知らぬ者はいないだろう。
「アルグラン=フィル=マラドーム。公議会議長……。とんでもない人間がターゲットになったものですね。これはもう中央も黙ってませんよ。いったいどうなることやら」
 アランドは途方に暮れたようにつぶやき、遺体が発見された屋敷の部屋を見回した。
 死ぬ直前のものと思われる、走り書きのメモが遺体の横に落ちていた。
 ――――チェイリード。
 残された文字は、たった一言その名を語る。
 先日殺された二人の事件と、状況はなにもかも酷似していた。
 当然ながら部屋を荒らされた形跡が無く、争ったあともない。
 どこで毒を盛られたのかはまだ確証が得られていないが、彼ほどの地位の人間ともなると、口に入れるものについてそれなりに警戒しているはずだ。
 それでなくとも、先日の二人の件で世間は騒がしいのだから。
 残されたダイイングメッセージを除いて普通に考えるなら、身近にいる人間か、顔見知りの犯行であると判断するべきだろう。
 しかしこの一連の事件については、なにか決定的に犯人を特定するものが欠けていた。
 動機についてもそうだ。
「もう本気で、呪い殺されたんじゃないかと思えてきますよ……。……たっ!」
 投げやりな言葉を漏らす部下の頭を、ロイトナーは軽くはたいた。
 恨めしげな目線をよこすアランドをよそに、彼は己の思考にふける。
 しかし苦い顔のまま、しだいに額の皺は深くなり、やがて何かに行き詰まったようにうめいた。
「呪い、ねぇ……」
 それでもどこか小馬鹿にしたような口調でつぶやきながら、被害者が所持していたと思われる、小さな水晶を取り出した。
 手のひらで転がせるほどの大きさの石。 紫色に透き通り、表面に細かな模様の細工が施されている。 光にかざせば、なんとも不気味な絵柄が浮き上がる。
 その石は遺体が発見された時、その傍らに転がっていた。
「あながち、ありえない話じゃなくなってきたかな……」
 片目を閉じて、あらゆる方向から石を観察しながら、ロイトナーは言った。
 先の二人の事件においても、同じものが遺体のそばにあったのだ。
 そのことから、その石が謎を解く鍵になることは確かだった。
 ――――『グリモゲーテ』
 押収した怪奇文書と、黒い薔薇の紋章。
 そこから捜査官がたどり着いたのは、その組織の名前だった。
 だが、それより先の捜査は完全に行き詰まっている。
 存在が確認されつつも、全てが謎に包まれた組織なのだ。 構成員すら一部を除いてほとんど明らかではない。
 今回殺されたマラドーム議長と、先の二人、――ヒルイズ候とレクシー議員。 この既に亡くなった三人だけが、現在推認されている”グリモゲーテ”のメンバーだ。
 そう、殺されたのはいずれもその組織の人間ばかりということになる。
「ソニエ=フラン=チェイリードは、長らくファルデロー邸から一歩も外に出てませんからね。彼女についてはこれ以上調べてもどうにもならないでしょう。白ですよ。それこそ、呪いでも証明できない限りは……」
 被害者が書き残したメモを摘み上げながら、アランドは言う。
 ロイトナーも素直に頷いていた。
「で、夫のセディック=ファルデローですが……」
 そこで、彼は部下の言葉を遮る。
「奴に関しては、長官から内命があった。あの男の周囲は長官の専属捜査官が動いて徹底的に調査を進めているらしい。完全に秘密捜査だ。こっちには一切手を出すなときつく釘をさしてきたわ」
「へえ、そうなんですか。そういえば、コルティヴィエ長官にとっても因縁の相手でしたっけ、ファルデローは……」
 アランドは少し苦い顔をしながら、庁内でも屈指の”堅物”と名高い上官の顔を思い浮かべていた。
 副長官補佐の彼が気軽に言葉を交わすほど近しい立場の人間ではないが、それを抜きにしても、今目の前にいる直属の上司より更に取っ付きにくいタイプの人間に違いないと彼は思っている。
「確か、産業監察部のご出身でしたよね。先代のロドニック=ファルデローの時代から、相当頭を悩まされてたとか聞きます」
 かつてロドニックによって監察部の人間が何人も買収されるという不祥事があり、前代未聞の官員大量処分が行われた。
 当時監察部を束ねていたコルティヴィエ現長官は、責任を問われ、一度その地位を辞している。
 後にその能力と手腕を評価され、改めて支部長官に大抜擢されたわけだが、彼の経歴においてファルデロー親子ほど忌まわしい存在も無いだろう。
 噂通りに何より不正を嫌い、生真面目という言葉が服を着て歩いているような人間だ。
 なんとか尻尾をつかみ出して無法者を縄にかけようと、機会をうかがっていたに違いない。
 そしてその機会が今、とてつもない事件とともに訪れた。
「…………」
 ロイトナーは髭をいじりながら硬い表情で考え込んでいた。
 対照的にアランドは、場違いにも好奇心に駆られたような表情を浮かべている。
「”あの”長官が本腰を上げたということは……、世紀の大捕物が見られるかもしれないってことですよねぇ! 楽しみだなぁ……! ……でっ」
 軽口を述べる部下を、ロイトナーはまた軽くはたく。
 それから遠い目をして、彼は言った。
「何かが、引っかかるんだよ。何かが……」



 三日がすぎた。
 脱走に失敗し、アリュースの追放を聞かされてから、三つの夜が過ぎ去った。
 最初のうちは何度か、窓の外の様子をうかがったりもした。
 ひょっとしてまた、あの庭師の少年が花を届けてくれるのではないかと、アリュースからのメッセージを伝えてくれるのではないかと、そんな淡い期待を抱いて。
 けれども彼女の期待する出来事は、何一つ起こらなかった。
 やがて、アリュースはセディックの言ったとおりデモントへ送られてしまったのだと悟った。
 もうこの街にはいない。そう認めるしかなかった。
 日に三度、決まった時間に、例の若い召使いが食事を運んでくる。
 ソニエの部屋に現れる人間は、彼女だけだった。
 そしてこの三日の間に、長い間事務的でしかなかったその召使いの態度に、若干の変化が生じ始めていた。
 決して水以外を口にしないソニエを、さすがに困り果てたように見つめてくる。
 そして、初めて声をかけてきた。
「お食べになってください。少しでも……」
「…………」
 しかしソニエは応じなかった。
 徐々に力が失われてくる感覚を感じながらも、気丈な目で窓の外だけを見すえたまま、腰掛けた椅子から少しも動かなかった。
 女の顔に、しだいに焦りのようなものが浮かぶようになってくる。
「これ以上は、お命にかかわります。旦那様に叱られます。お願いですから、一口だけでも……」
「…………」
 雇われの彼女の身の上を思い、多少気の毒だと思いながらも、ソニエは断じて応じようとはしなかった。
 ――――セディックの思うようにはさせない。
 ――――あの男の歪んだ野望のために利用されるくらいなら、いっそ……。
 四日目の明け方、いよいよソニエは体力の限界から気を失った。
 目が回り、視界が暗くなる。
 椅子に腰掛けたままの体勢で意識を失っていた。



 意識が舞い戻ったとき、寝台の天蓋が目に入った。
 焼け付くように喉が渇いている。
 呼吸をするのも苦しかった。
 体に伝わる、柔らかい敷布の感触。自分が寝台に横たわっていることだけは理解していた。
 目線だけを動かして、周囲の状況を探る。
 すると、霞んだ視界の中に長身の人影が一つ。
 赤毛の男がこちらを見下ろしていた。
 腕を組み、傲慢ともいえる目線でこちらを睨み下ろしている。――少なくとも、その時のソニエにはそう見えた。
 部屋の片隅には、すっかり萎縮して肩を落した様子の、例の召使いがいた。
 ソニエは男から目を逸らし、再び天蓋に目を向ける。
 浅い呼吸を何度か繰り返した。
 男が後ろの召使いに向かって何かを指示する声が聞こえ、そして食器の触れ合うような音がした。
 ソニエの瞼がゆっくりと降りかけた時、上から強い力で顎(あご)がつかまれた。
「…………!」
 反射的に閉じかけた目を見開く。
 背にまわされた腕で、無理やり抱え起こされた。
 力の入らない上半身がぐったりと、男の腕に支えられる体勢になる。
 ソニエは激しく首をふりつつも、その力に抗うことができなかった。
 彼女の顎を掴んだままの男は、ソニエの体をそのままずらして寝台の背もたれ部分に寄りかからせると、首を上に向かせて力ずくで口を開かせた。
 そこへスプーンをもってきて、乱暴にスープを流し込もうとする。
 ソニエは必死に抵抗した。
 歯を食いしばったり、首をよじったりして、なんとか男の手から逃れようとする。
 セディックは相当苛立っていた。
「食え! 食うんだ!」
 忌々しげに怒鳴りながら、もがく彼女の口をこじ開けて、冷めたスープを強引に流し込んだ。
「……っ、ぐっ、げほっ」
 肺に異物が入った衝撃で、ソニエは激しく咳き込み、男の手を勢いよく振り払う。
 銀のスプーンが床の上に吹っ飛び、付着したスープがあたりに飛び散った。
 苦しみに胸を押さえ、咳き込みながら、涙で滲んだ目をギラリと男の方へ向ける。
 セディックは壮絶に顔をゆがめて、彼女を見下ろしていた。 
 怒りか、憎しみか、あるいは侮蔑か。
 彼はしかし、それ以上ソニエに食事を強いる真似はしなかった。
 ゆっくりと、寝台から数歩遠ざかると、ふいと顔をそむけて立ち去った。
 怯えて小さくなっていた召使いが、慌てて駆け寄ってくる。
 苦しい咳を繰り返すソニエの背中を、気遣うように何度もさすった。
 


 それでもソニエは、水以外を口にしなかった。
 毎回流動食のような食事を運んでくる召使いの女の顔が、見るたびに青ざめていく。
 もはやソニエに声をかけることもしなくなった。
 そうして更に二日がすぎ、寝台の上に横たわったまま、起きている間も意識が朦朧としてくるのを感じていた。
 ――――これで、終わる。
 ――――セディックの野望はついえるだろう。
 そんな確信に微かな充足感を覚えながら、寝台のうえで完全に意識を失った。
 そのまま死ぬのかと思ったが……。
 意外にも人間の体というものは頑丈にできているらしい。
 再び目覚めた場所は同じ部屋の中で、夜明け前のひとときを刻んでいた。
 白み始めた空の薄明が、じわりじわりと部屋の闇をとかしていく。
 やがて完全に光が支配するようになるまでの時間が、ひどく長い時間に思えた。 
 ソニエの耳に、随分と遠慮がちに戸を叩く音がした。
 かすかな音は、早朝の屋敷で人目を忍ぶ訪問者のように、部屋の中の住人にだけ聞こえるほどの大きさで何度か響いた。
 ガチャリ、と慎重な仕草で鍵が開けられて、女が一人部屋の中に入ってくる。
 ここ数日毎日顔を目にした召使いが、なぜかこそこそとした足取りでソニエの寝台の側までやってきた。
「ソニエ様、これを……」
 ぼんやりと召使いの動きを目で追っていたソニエは、彼女の手にあるものを見て、目を大きく開いた。
 思うように動かない体を、引き摺るようにして起き上がる。
「それは……」
「今朝方、……屋敷の、門の前に……」
 言いにくそうに言葉を詰まらせながら、彼女は告げる。
 差し出された花束を受け取ると、ソニエは顔をくしゃりと歪ませた。
 青い青い、瑞々しい色。
 甘い芳香を漂わせる薔薇の花が、彼女の麻痺した感覚を蘇らせる。
 かろうじて残っていた生気というものが、力を得たように首をもたげはじめた。
 そして、湧き上がる思いはただ一つ。
 ――――もう一度、会いたい。
 強いその思いが、衰弱しきった体を突き上げる。
 ソニエはぼろぼろと涙を流し、子供のように声をあげて泣いた。
 その肩を抱き、優しくさすりながら、召使の女は励ますような温かい口調で言った。
「きっと、お会いになれますわ。生きてさえいれば、必ず……」



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