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チェイリードの娘

21

 アラトリムの大街道を北へ抜けきってから、随分と進んだ。
 石畳の道がなくなって、安定しない砂利道へと馬車は乗り入れる。
 不規則な揺れが体に伝わり、ソニエは内部にしつらえられた、ロートアイアンの手すりをしっかりと握り締めていた。
 斜向かいに腰掛けたセディックは、外に目を向けたまま動かない。
 窓枠に肘をつきながら、難しい顔でなにか考えに耽っているようにもみえる。
 何度かちらちらと視線を向けつつ、ソニエは警戒を続けた。
 延々と進み続ける馬車の中、出発した時から一言も会話などない。
 もう、かれこれ三時間になる。
 馬車が進むにつれて、ソニエの中に疑惑交じりの期待が沸き起こった。
 まっすぐ北へ向かうその道を、彼女は知っていたからだ。
 ――まさか、と考える。
 思い違いで無ければ、過去に一度だけ通ったことのある道を、今は逆方向に遡っている。
 北へ、遥かなる北へと。
 疎らな草の生える夕闇の平原地帯に、羊の群れが見えはじめた。
 その先に、小さな森が点在している。
 馬車の中に吹き抜ける北からの風はひんやりと涼しく、緊張して汗ばんだ体に心地よかった。 



 日の入り前に、馬車は道中の小さな町で一時停車した。
 セディックは馬車から降りてどこかへ歩いていったが、ソニエはそのまま車中に残される。
 その間に、御者として同行していたレオンが、町で仕入れたらしいパンとスープを運んできた。
 差し出されたその食事を、ソニエは口にする。
 かれこれ三十分ほどそこに留まり、やがてセディックが戻ってくると、再び馬車は動き出した。
 既に日は落ち、辺りは闇に包まれている。
 その後もひたすら、北へと進みゆく。
 夜が深くなり、月が高くなっても馬車は進み続けた。
 これほど長い間馬車に乗り続けるのも、久しぶりだ。人生で二度目、といったほうが正しいだろう。
 かつて同じ道を、南に向かって走る馬車に乗っていた。
 そのときのソニエの心中は最悪だった。
 一人で見知らぬ街へと向かわねばならない、あの時の不安と恐怖を、忘れることはない。
 今、彼女の予想は半ば、現実になりかけていた。
 ――――そう、この路(みち)を知っている。
 間違いなかった。
 この路は、遥か故郷へと続く道。
 夜が明けても進み続け、しだいに胸の高鳴りを押えられなくなる。
 日が高くなり、また途中の小さな町で一時休憩をして、そしてまたひたすらに北へ進んだ。
 セディックが、なにゆえ今になってソニエをソユーブに連れて行くのかわからない。
 表情に変化のない横顔は、相変わらず単調な景色に向けられたままだ。
 この男の考えることだ、どうせろくなことには違いないだろう、とソニエは思う。
 けれどたとえどんな形であれ、故郷へ帰ることができるのは嬉しい。
 もしかしたらもう二度と目にすることは無いかもしれないと、どこかで覚悟していたからだ。
 一昼夜以上、馬車に揺られ続けた体が痛い。
 それでも心は多少軽かった。
 ソニエは目を閉じて、焦がれ続けた光景を思い浮かべた。
 気のせいか、なつかしい匂いが近づいてくるようであった。
 ソユーブに年中通して吹き続ける、あの少しひんやりとした北風の匂いだった。
 やがて、いつしか手放した緊張感のかわりに、ほんの一瞬の優しい夢が訪れる。



 馬車の止まった瞬間、馬の嘶きで、ソニエははっと目を開いた。
 一瞬、自分がなにをしているのかわからずに、心臓が急激に音をたてる。
 周囲は暗い。
 馬車の中だけでなく、外の景色もどうやら夜の帳が降りきっている。
 アラトリムを出て二度目の夜だ。
 ソニエの頬のすぐ下には、クッションの柔らかい感触がある。
 紅いベルベッドの座席の上で横向きに、上半身を横たえている状態だった。
 弾かれたような勢いで、両手をついて体を起こす。
 馬車はすでに完全に停止しており、背後から扉の開く音がする。
 はっと振り返ると、一人で降りてゆくセディックの背中が見えた。
 暗がりでもわかる赤い髪がある。
 彼は背中越しにソニエのほうに一瞥をよこし、そのまま何も言わずに外に出て歩いていった。
 自分が眠り込んでいたことに気付き、ソニエは相当ショックを受けた。
 二日近く馬車に揺られ続け、体は相当疲弊しきっているとはいえ、あの状況で眠りに落ちるなどありえないことだったのだ。
 しかも不自然な体勢で長時間横たわっていたせいで、よけいに背中が痛い。
 急いで髪を整え、立ち上がりかけた瞬間にハラリと背中から何かが滑り落ちた。
 夏用の薄手のドレスの上で、彼女の体温を保護してくれていたらしいもの。 拾い上げ、それが何かを判別すると、ソニエは少し呆然とした。
 男物の黒のフロックコート。
 その持ち主はこの状況で、一人をのぞいて他にありえない。
 それを手につかんだまま、ソニエはしばらく動くことができなかった。
 蝋燭を掲げたレオンが、外から彼女に下車を促している。
 我に帰ったソニエは、なんとなく決まりの悪い思いを隠すように、急いで馬車から降りた。
 そしてレオンにそのコートを押し付ける。
 つかつかと荒い足取りで歩きはじめるものの、すぐにその足は止まり、思わず息を飲んだ。
 目の前にある大きな建物を認識した瞬間、反射的に涙が滲み出た。
 暗がりの中にあっても、ソニエにはわかる。
 思い描いていた故郷の風景の中、いつも変わらずにあった懐かしい建物。
 チェイリード家の屋敷だ。
 生まれ育った懐かしい我が家。
 しばしその場に立ち尽くし、感極まった思いでその古い石造りの建物を見上げていた。
 たった二年。それだけの月日なのに、とても長い間離れていたような気がするのだ。
 情緒的な気分に浸っていたソニエに、背後から水をさすように、レオンが告げる。
「旦那様は契約違反などされておりません。この屋敷はきちんと維持されておいでなのです」
 ソニエはさきほどと同じきまりの悪い思いを味わった。
「……そう」
 不快感を噛み殺すように短く答えて、玄関扉へ向かう階段を登った。



 両開きの扉が音を立てて開き、この上なく懐かしい匂いが鼻をかすめる。
 中ではセディックが雇ったらしい数人の使用人が、ソニエを出迎えていた。
 どれも見覚えの無い顔ばかり、当然ながら、彼女が暮らしていた頃の使用人の姿は一人も見当たらない。
 しかし、内装は少しも変わっていなかった。
 切ないほどに心休まる光景が、そこにある。
 真鍮製の台座に蝋燭が立ち並ぶ、年季が入った王冠型のシャンデリア。その温かい光に照らされた吹き抜けの玄関ホール。
 真正面にゆるやかに広がる二階へ続く大階段も、足に馴染むオーク材の床の感触も変わらない。
 使用人たちに促されるままに、ソニエは奥へと進んだ。
 一歩一歩進みながら、懐かしさにいちいち胸を詰まらせていた。
 廊下の壁に等間隔にかけられた先祖の時代の絵画も、透かし彫りの細工が施された天窓も、全てが見慣れたチェイリード邸そのままだ。
 ――――しかし。
 大広間へ足を踏み入れたとたん、彼女の中に刺すような冷たい思いが湧きあがる。
 そこはかつて、客を招いての会食会に用いられた部屋だった。
 祖母の友人や、駐留していた中央の役人やら、時には付近の村の人間を交えて、毎週のように賑やかな食事会が催された。
 アリュースや彼の父親、それにケスパイユ候も、過去に幾度となく、この部屋のテーブルの席についた。
 祖母が年を重ねて急激に人嫌いの様相を色濃くするにつれ、屋敷を訪れる人間は一人二人と減っていったのだが……。
 とはいえその部屋は、懐かしい人々との思い出が息づく大切な場所だ。屋敷の中でも格別に思い入れが深い場所。
 それなのに、その部屋に今、堂々と土足で足を踏み入れている男の姿が彼女の目に映る。
 サンルームに面したガラス戸の前に立っているその男に、不快な思いを抱かずにはおれなかった。
 こちらに背を向けたまま、セディックはガラスの向こうを見つめて動かない。
 その背中に向かって、ソニエは暴言を吐きかけようとした。
 ――――出て行って。
 その言葉が喉までせりあがったとき、一呼吸早く、男が気配を察したように言葉をよこした。
「勘違いをするなよ。この屋敷も土地も、今は俺のものだ」
 意地悪い声音でセディックは言い放つ。
「…………」
 必要以上に癪に障る言い方だった。
 出鼻をくじかれたソニエは、吐き出すはずだった言葉をもてあまして黙り込む。
 そんな彼女の態度に、無に近い表情で振り返りながら、彼は一言付け加えた。
「そして、おまえも、だ」
「…………」
 ソニエがやや瞳を大きくする。
 相手の瞳は相変わらず冷たく彼女を見据えている。
 少なくとも外からはそう見えた。
 それなのに、その目はソニエに意図せぬ衝撃を与えた。 その奥になにか、かつて感じたことのない何かを感じさせたのだ。
 居心地の悪い沈黙の空間に、使用人の一人がためらいがちに入ってくる。
「……あの、お食事の用意が整いましたが」
 ただならぬ空気を察してか、中年女性の召使いは、困惑した様子でセディックとソニエの顔を見比べている。
 女性の傍らに、おそらく彼女の息子と思われる幼い少年が佇んでおり、その少年もまたおどおどした様子でこちらを見ていた。
 ソニエは漂う妙な感覚を振り払い、すっぱりと言った。
「冗談じゃないわ。ここであなたと食事をとるなんて、ごめんこうむります」
「えっ……」
 ソニエの発言に反応したのは、びくついた様子の召使いのほうだった。
 言葉を投げつけられた当事者の男は、特に動じた様子なく、相変わらずの冷笑を向けただけだ。
 セディックは彼女の真横をあっけなく通り過ぎて、出口へ向かった。
「そういうことだ。食事は予定通り部屋へ運んでくれ」
 使用人に適当に言い残し、そのまま広間の外に消える。
 ソニエはその場に立ち尽くしたまま、しばらく居たたまれないような気分を味わっていた。 



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