チェイリードの娘
22
その夜は、随分と久しぶりに懐かしい光景を夢に見た。
幼い頃の、最も幸せだった時代の、このソユーブでの思い出を。
まだ元気だったころの祖母と、少年時代のアリュースと、今より若いケスパイユ候が、彼女とともにいた。
皆が笑い、ソニエも笑う。
二度とは戻らない日々。
流れ行く時間は、あまりに多くのものを置き去りにして。
重ねた年齢は一方的に、幸せな日々から彼女を遠ざけるばかりだった。
何年かぶりに迎えたソユーブでの朝。
ソニエは幻ではない本物の自分の部屋で、深い眠りから目覚めた。
寝台も、壁紙も、テーブルも、ソファーも、窓も、カーテンも……、何もかもが二年前のままだ。この屋敷を出た日と何一つ変わらない。
これまでの数年間は全て、夢の中での出来事だったのではないかと思えるほどに、完璧な光景だった。
深く深呼吸をして起き上がると、昨日着てきたクリーム色のドレスに目をやった。
形が崩れないように、ソファーの背にかけてある。
残念ながら、衣類は全てアラトリムの屋敷に運び込んでしまっていて、ここには一着も残してはいない。
そしてまさか、行き先がこのソユーブだとは思わなかったので、着替えの準備などしていなかった。
どうしたものかと思案しながら、期待せずにクローゼットを開いたソニエは目を瞠った。
びっしりと並んでいる、真新しいドレス類。
しかも、そのどれもこれもが優しい色合いの、ソニエが好む色形の代物ばかりだった。
自然と心躍らせて、その中から一着を抜き取った。
しかし姿見の前で合わせてみようとした瞬間に、はたと気付く。
「…………」
愕然と、なんともいえない気持ちに襲われた。
ソニエはしばらく動きを止めて、目を伏せる。
やがて手にしていたドレスをハンガーごとソファーの上に投げ捨てて、その場に膝をついて座り込んだ。
――――なぜ……。
自分の体を抱きしめるようにしてうずくまる。
この部屋の一つ一つが、思い出の中のまま何一つ変わらないのは、ただ放置されていたからではない。
人の住まないこの屋敷を、確実に管理していた人間がいるからだ。
埃一つない窓枠。
多少色褪せつつも、まめに洗濯されていて清潔なカーテン。
老朽化さえ最低限に抑えられた、磨き上げられた木の床。
一朝一夕の大掃除や修理で、保たれるレベルのものではない。
定期的に人の手が入っていたことは、疑いようが無かった。
誰かの意思によって、この屋敷は維持されていたのだ。
――――誰が?
そんなことは、あえて考えるまでもないことだった。
結局昨日着ていたドレスをそのまま着用し、ソニエはひっそりと静まり返る一階に下りた。
昼前だというのに、使用人は誰一人起こしにこない。
深い眠りを貪っていたソニエにとって、それはむしろ非常にありがたいことだったのだが。
食堂広間へ入ると、奥のほうから、頬の赤い少年がこちらに顔を向けた。
昨夜も見かけた、まだ十歳かそこらの子供だ。明るい蜜柑色の髪が可愛らしい。
母親の手伝いで、この屋敷に入り込んでいるのだろうか。
長テーブルを磨く手を止めて姿勢を正すと、少しぎこちないが活発そうな笑みを浮かべて少年は言った。
「朝食の用意ができてます。どうぞお座りになってください」
ソニエの耳が敏感に反応した。
少年の話し方には、ソユーブの周辺地域独特の訛(なま)りがある。
少し語尾を上げるようなイントネーションで喋るのだ。
ひどく耳に懐かしい。
若干足取りを軽くして、席についた。
使用人はどうやらほとんど、地元の人間のようであった。
そして調理場と食堂を行き来する彼らの動きは、緊張こそ感じられるが、非常に慣れているように見受けられる。
少年が慎重に運んできた紅茶に丁重に口をつけながら、ソニエは彼に尋ねた。
「……お名前を、うかがってもいい?」
「え、ええと……」
少年は少し、うろたえたようにソニエを見る。
ソニエもそうだが、彼も相当緊張しているようであった。
照れくさそうな笑いを浮かべ、少年は答える。
「リックス=ウィドマールです。リックと呼んでください、奥様」
――――『奥様』。
その響きは、この屋敷においてはひどく違和感を感じさせるものだった。
「……ソニエ、と呼んでほしいわ。リック、あなたは、いつからここで働いているの?」
「え……、はあ、俺ですか? ええと、旦那様方を出迎えてこんな風に仕えさせていただくのは今回が初めてです。でも屋敷や庭の管理に、月に四度ほど日雇いで雇っていただいてました」
だからこの屋敷には相当詳しいのだと、少し得意げにリックは言った。
彼はソニエが二年前までここに暮らしていたことを知らないらしい。
少年の語り口は非常にしっかりしていた。
見た目より多少、年が上なのかもしれない。
「そうなの……」
少年の返答に少し遠い目をするソニエを、彼は茶色い目をぱちくりさせて不思議そうに見続けていた。
その視線に気付き、ソニエは再びリックに目を向ける。
「どうかした?」
とたんに彼は真っ赤になって、しどろもどろに話した。
「えっと、あの、すみません……。話では、ファルデローの旦那様とその奥方がお見えになるって聞いてたもんで、ソニエ様はいったい、どういう方なのかと……」
ソニエはすぐに、リックの抱いている疑問を理解した。
さきほど彼女が自分に対する呼び方を訂正させたからだろう。
彼はソニエがどういう立場の人間なのかを、はかりかねているらしい。
昨夜のセディックとの言い争いや、彼との色々な意味での不釣合いさも、ひょっとすると少年の判断を迷わせてるのかもしれなかった。
しかし、ソニエはすぐには返答しかねた。
「さあ……、誰なのかしらね」
長い間を置いてから曖昧に答えたソニエを、リックはまた不思議そうな目で見ていた。
「――リック!!」
唐突に響いた甲高い声が、少年の体をびくりと震わせる。
厨房からでてきたふくよかな中年女性が、ずかずかと歩み寄って、少年の片耳を摘み上げた。
昨夜も食堂にいた女性だ。
「いっ、いでででででで!! 痛いよ母ちゃん!!」
これにはソニエも驚いた。
口を開いて手を伸ばしかけたまま、止めるに止められず、その場で固まることしかできない。
「あんた! 奥様に失礼なことするんじゃないよ! 用がすんだらさっさとお下がり!」
涙目で抵抗する少年を押さえつけ、女性は迫力のある声で怒鳴りつけた。
「あ……あの……」
思わず立ち上がって、静止の声をかけようとすると、ぶんっと、太い首をまわして女性はソニエのほうを向いた。
ついびくりとなるソニエに、女性は少し気まずそうに笑って言った。
「どうも、すみませんね、うちの馬鹿息子が……」
言いながら少年を引き摺って、厨房の奥に消えていく。
ソニエは呆気にとられて、それを見送ることしかできなかった。
朝食を済ませたあと、手持ち無沙汰に屋敷の中を少し歩いた。
明るい中で見ても、そこは少しも変わっていない。
隅々まで清潔に保たれていて、傷みも老朽化も、見た目にはほとんどわからなかった。
奇妙な気分に襲われた。
今は所有者こそ別人であるにしろ、ここはソニエの家だ。
それなのにどうしても、胸の奥のくすぐったい感じが拭えない。
決して居心地が悪いわけではないのだが。
思い出の中のまま残されているこの屋敷を、少しも汚したり壊してはいけないような、そんな他人行儀な義務感を味わっていた。
この屋敷にいる使用人は、さきほどの親子を含めて五人。
調理師をのぞいては、すべて付近の村や町の人間のようだ。
皆一様に、独特の訛りを響かせて話す。
出身地はいうまでもなく、人柄もソニエにとっては接しやすい雰囲気の人間が揃っているように思えた。
――――それは、偶然だろうか?
屋敷の中をくまなく歩き回ると、今度は、庭に出ることにした。
さきほど二階の廊下の窓から見た様子だと、庭もとくに荒れている様子はなかった。
チェイリード家の庭は、自然との境がほとんどない場所だ。
アラトリム大公の屋敷のように、洗練された形式美の庭ではなく、木々や蔓草が、ほとんど自然のままに生存している。
人が歩く石畳の小道と、掘って作られた小さな池以外は、せいぜい伸びすぎた木の枝を刈ったり、蔓草を支柱に巻きつかせるくらいで、ほとんど人工的な造作が加えられていない。
とはいえ、それでも少しも荒れ果てた印象を受けないのは、やはり定期的に最小限度の手入れが施されていたからに違いないのだろう。
庭の奥にある裏門を抜けて、そのまま屋敷の敷地から出る。
その先にある細い緩やかな坂道を登ってゆくと、やがてソニエは驚きに目を瞠らなくてはならなかった。
ソユーブに吹き抜ける北からの風が彼女の体を包みこみ、眼前にはどこまでも懐かしい景色が開けていた。
そこはちょうど、チェイリードの領地一帯を、眼下に見下ろせる立ち位置になっている。
なだらかな起伏のある土地に、一面に広がる薬草畑。ソニエの愛してやまなかったその花畑が一望できる場所。
――さすがに、そればかりは期待していなかった。
チェイリード家の破産により、かつて雇っていた農夫との契約は全て切れているはずだったのだ。
神経質な薬草畑の管理をそう簡単に素人がこなせるはずはないし、収穫した薬草を調合する人間がなくてはその意味も無い。
荒れ果ててはいないとしても、他の作物に植え替えられているか、土地そのものが畑ではなくなっているか。
いずれにせよ、そこだけは思い出と違う風景を覚悟する必要があった。
それなのに。
「…………!」
ソニエの目の前に今広がる景色は、見事にセルリアンブルーの花に埋め尽くされていた。
初夏に開花を始めるサテラの花が、今まさに満開の絶頂期を迎えている。
優しいブルーの花弁が、夏の白い光の中、涼やかな風に揺られながら咲き乱れていた。
ソニエは完全に声を失い、吹き抜ける風に、被っていたツバ広帽子が飛ばされるのにも気付かなかった。
視界に熱いものが滲み出て、美しい景色が揺れる。
足の裏を地面に縫い付けられたようにそこに立ち尽くしたまま、流れ出る雫を止めるすべをもたなかった。
――――どうして……。
激しい疑問が彼女の中で荒れ狂いつつ、しかしこれ以上、目を背けることはできなかった。
この地で彼女の前に立ちはだかるもの。
どう捉え直してみても、それは悪意や害意とは異質のものだ。
この大地を知り尽くしたソニエだからこそ、わかってしまうことがある。
人の誠意というものの存在を、認めないわけにはいかなかった。
理解できなくても、受け入れがたいものであっても、今だけは否定のしようがなかった。
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