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チェイリードの娘

23

 泣きはらした目で屋敷に戻ると、廊下を箒で掃いていたリックがぎょっとした。
「ど、どうなさったんで? ソニエ様?」
 彼がうろたえるのも無理はない。
 今なおも、彼女の瞳からはボロボロと透明の雫がこぼれ落ちる。
 なにが悲しいのかもわらからないままに、意思に反して際限なく流れ出る。
 自分では制御できずに、嗚咽を漏らさんばかりの勢いだった。
 ソニエはその涙をぬぐい、なんとか言葉を返す。
「ごめんなさい、なんでもないの。なんでも……」
「ソニエ様……」
 困り果てたように少年が名を呼ぶ。
 泣き顔のままなんとか笑いかけて、早足で自室への階段を登った。
 屋敷内はことごとく静寂だ。
 セディックがソユーブを去った形跡はないのに、屋敷内のどこにも、庭にも、丘の上からみた薬草畑にも、その姿は見えなかった。
 朝からずっとだ。
 部屋に駆け込んで、ソニエはベッドの上に突っ伏した。
 その日はその後、部屋から出る気になれず、食事もとらずに引きこもっていた。
 翌朝も、ソニエが起きた時には既に、食堂広間はおろか、彼や彼の執事が利用しているらしい客室までもぬけのカラだった。
 リックの母親に尋ねると、彼女は意外な答えを返した。
「旦那様なら、コーネル谷のほうへ入り浸ってらっしゃるみたいですが」
「コーネル谷……?」
 ソニエは思わず顔をしかめた。
 屋敷の西にあるクローザの森を抜けた先に、緩やかな峡谷がある。
 そこから湧き出る地下水が、ソユーブ一帯の貴重な水源となっている。
 遠目に眺めるには美しい景色かもしれないが、子供の頃にすら、そこには足を踏み入れたことがない。
 祖母はその谷へ行くことだけは固く禁じ、ソニエもその言いつけを守っていた。
 子供心にそこは、恐ろしい”魔物”の出る場所なのだと信じ込んでいた。
 谷を吹き抜ける風が不気味な音を奏でるから、そんな風に思っていたのかもしれない。
 それが単なる自然現象だとも知らずに。
 しかし過去に実際、そこへ足を踏み入れたきり戻らない人間や、外傷も無いのに死体になって見つかった人間がいたのも事実だ。
 恐ろしい話だが、ソニエが子供の頃にも、一度だけそんなことがあった。 無断で立ち入った外部の人間だったらしいが、詳しくは知らされていない。
 今思えばその場所こそ、チェイリードの呪術とやらにまつわる重要な場所なのではないかと、そんな風に思えてならなかった。
 ――――呪術。
 セディックに抱き続ける疑いが、今日はひどく重く、苦しく感じられた。
 厩をのぞくと、飼われていた馬が二頭とも出払っている。セディックとレオンが乗っていったのはほぼ間違いなかった。 厩番の男がせっせと空になった小屋の中を掃除していた。
 コーネル谷のほうへ目を向けながら、ソニエはもやもやとした薄黒い感情に悩んだ。



 その後も数日間、セディックはレオンを連れて昼間の間ずっとコーネル谷で何かをしていたらしい。
 その間はいっさい彼と顔をあわせず、ソニエは一人好き勝手に暮らすことができた。
 懐かしい故郷で。
 少しも変わらない風景の中で。
 ――――でも……。
 心の中には空虚な穴があった。
 帰ってこられて嬉しいはずなのに、故郷の無事な姿に安心したはずなのに、それなのになぜか、寒々しい風が心を吹き抜けてゆく。
 アリュースも、祖母も、誰もいないこのソユーブは、ひどく広くて、あまりに大きすぎて、自分の居場所を見つけることができなかった。
 あれほど焦がれたこのソユーブで、ソニエは少しずつ孤独を感じつつあった。



 五日目の午後、珍しく厩の馬が二頭揃っていることに気付いた。
 なんとなく気にかかりつつ、ソニエは庭の裏手から畑のほうへ続く坂道を降りてゆく。
 ここ数日の間、昼間の時間のほとんどをこの先の薬草畑で過ごしていた。
 もっとも孤独を紛らわせられる場所が、あの青いサテラの花畑だったのだ。
 特別な記憶、温かい思い出が息づく場所。
 大切な人の気配が感じられる場所……。
 だがその日、畑と畑の間に伸びる細い小道を歩く彼女の目に、異色の光景が目に入った。
 ただでさえ奇抜な赤色ゆえに、遠目にもすぐにわかってしまう。
 特にこの柔らかな色合いの景色の中では、それはひどく不釣合いな色だった。
 最もそこにいてはならない人間の姿らしきものが、花畑の脇の木立の中、風に揺れる草の合間から見え隠れしていた。
 引き返すべきかどうか躊躇しながらも、ソニエはおそるおそる、近づいていった。
 丈の低い草に埋もれるように転がっている、深緋色の頭。
 更に近づいて木陰に入ると、腕枕をした状態で仰向けに横たわる男の全身が目に入った。
 こちらに気付きもしない。
 それどころか、ぴくりとも動かない。
 ――――眠っている……。
 そう判断したのは、間近にまで近づいた時だった。
 随分と見慣れない姿をした男が、そこで眠っていた。
 いつも一分の乱れも無く整えられていた髪が無造作に額にかかり、いつも隙無く着こなされていた派手なスーツやジャケットではなく、上半身はシャツ一枚をごくシンプルに身につけている。もちろんタイもない。
 死んでいるように寝入っている男の顔には、当然ながら作られた表情などはない。
 見慣れた人間とは別人のような姿を前に、ソニエは一瞬妙な錯覚を起こしそうになった。
 名ばかりとはいえ婚姻関係にあるはずの男の、そんな姿は二年もたった今、初めて目にする。
 寝顔すら、ただの一度も見たことがなかったのだ。
 その場に突っ立って男の顔を見下ろしていたソニエは、男がピクリと瞼を動かしたのを見て、ハッと我に帰る。
 慌てて立ち去ろうとしたときには遅く、セディックの薄青い目が彼女の姿を捕らえていた。
 怯えたように後ろへ下がるソニエと、完全には目覚め切っていない様子の、けれどあきらかに不審そうにこちらに向けられるセディックの目。
「…………」
 気まずい雰囲気が漂い、ソニエは不用意に近づいたことを悔いた。
 当然、言葉も見つからない。
 けれど無理に会話を交わす必要もないのだと思い直し、そのまま立ち去ろうとした。
 だがそれをセディックが呼び止める。
「待てよ」
 既に背をむけていたソニエの肩がびくんと震える。
 相手にわかる、あからさまな怯え方だっただろう。
 セディックは服についた砂や草を払い落とし、髪をかき上げながら立ち上がる。
 ソニエの背に向かって、彼は問い掛けた。
「ここはおまえにとって、思い入れでもある場所なのか?」
 思いがけない質問を受け、ソニエは振り返る。
 彼女に向けられる顔は、おそらく本人も自覚していないのだろうが、今までに無いくらい素朴な雰囲気を漂わせる表情だった。
 少なくともその質問に悪意はないのだと、判断するには充分だった。
「……どうして、そんなことを?」
 随分と長い間黙り込んだうえに、質問に質問で返すということしかできなかった。
 けれどセディックは意外にも、あっさりと答える。
「そうでなければ、おまえが俺のもとに近づいてくる理由もないだろう」
 その答えに、なぜか胸を突かれる思いがした。
 また黙り込んでしまったソニエを大して気にする様子もなく、セディックは彼女の脇を通りすぎた。
「そういうことなら、今度から場所を変えることにするさ」
「…………」
 嫌味でもなく、嘲笑でもなく、ごく自然に投げかけられる言葉が、彼女の思考を混乱させるばかりだ。
 今度はソニエが、相手を呼び止める。
 あきらかに不審げな顔でセディックは振り返った。
「あの……」
 ドレスの布地をぎゅっと握り締めながら、その時降って湧いたどうでもいい質問を投げかける。
「あの……、わたし、いつまで、ここにいられるの……?」
 本当に聞きたいのはそんなことではないのだが。
「…………」 
 しばらくソニエの顔を凝視したあと、セディックはどことなく遠くを見るような目で言った。
「――知らせが来るまで、だ」
「知らせ……?」
 適当な質問に、思いがけず不可解な回答が返り、つい聞き返していた。
 もちろん、いつまでもここにいられるとか、本気で考えていたわけではない。
 ――――知らせ……。
 ――――何の? ……誰の?
 けれどその疑問に、更なる返答は返らなかった。
 それ以上の質問を投げかける勇気が、彼女にはなかった。
 黙り込んで俯いたソニエに、今度はセディックの声がかかる。
「どうした、また随分としおらしいものだな。アラトリムではあれほど、ソユーブソユーブと喚きたてていたのに」
 ソニエは、ばっと顔を上げて目の前の男を見る。
 そこにあるのは、見慣れた嘲笑。
 感じたのは、確かに胸の痛みだった。
 それを覆い隠すようにソニエは言葉を並べる。
「安心、しただけ。あなたがてっきり、好き勝手に壊してしまったのではないかと、心配していたから……」
 細々とつぶやく言葉には、覇気の欠片も無い。
 情けない声が自分でも嫌だった。
「好き勝手にやらせてもらったさ。もうとっくに」
「……え?」
「工夫を大勢雇って屋敷の地下をくまなく調べさせた。床板を全て剥がしてな。それから、庭に埋もれていた隠し階段を掘り起して地下書庫を根こそぎ調べたし、隠されていた書物もいくつか持ち出した」
 屋敷の方角を見やりながら、セディックは言った。
 ソニエは口にしかけた言葉を飲み込む。
 ――――何のために、そんなことを?
 今ならたずねることができるかもしれなかった。
 そして、今なら明確な回答が得られるかもしれなかった。
 けれど、恐い……。
 予想通りの答えが返ってくるのが恐い。
 また暗い顔で俯いたソニエのことを、セディックはどう見たのかわからない。
 だがすっかり平常通りに戻ってしまった口調で、彼は畳みかけるように言った。
「契約違反、とか言っていたな。まさにその通りだ。地下だけでなく、天井裏も物置きも、あらゆるところを荒らしまわった」
「…………」
 それでも黙りこくっているソニエを見て、セディックはその饒舌な口を止める。
 少し拍子抜けしたかのような顔をしている。
 ソニエの心中は、彼の考えているであろうものとは違っていた。
 ――――それでも、元通りに戻してくれたのでしょう。
 ――――きちんと管理していてくれたのでしょう。
 ――――なのに、どうして……。
 極めつけに、とばかりにセディックは言った。
「ここは夏の避暑地としてはいい。あの辛気臭い屋敷を取り壊して、いっそ貴族向けの宿泊施設を立てようか。きっといい儲けにになる」
 これまで以上に、明らかに意図したような、挑発的な口調で彼は話す。
 そのわざとらしさに、今日ばかりは違和感を覚えずにいられなかった。
「……どうして、そういうことを言うの?」
 なぜだか無性に悲しい。
 ただ悲しくてたまらない。 
 この男の前でこれ以上無様な姿を見せたくは無いのに、瞳に涙がうっすらと浮かぶのを止められなかった。
「それは、あなたの、本当の本心なの……?」
 自分でも、なぜそんな問いがこぼれたのかわからない。
 よりにもよって、この非情な男に対して……。
 だがソニエの問いに一瞬、セディックの表情が固まったように見えた。
 丘の上の屋敷の方を見ていた横顔が、ほんの一瞬、糸を張ったように張り詰めたのだ。
 しかしその一瞬の強張りはやがて、見事に自然な動きで解けてゆく。
 ソユーブに年中吹き抜ける北からの微風が、若干強くなり、ヒュルリと通り過ぎた。
 周囲に広がる無数の青い花弁が一斉に揺れ、彼女らのもとに影を作っていたカシの木が葉擦れの音をたてている。
 ソニエの髪がゆるやかに舞い上がり、たゆたう長い髪の隙間から、こちらに向けられる相手の顔が見えた。
 若干固さを残しつつも、セディックは意地悪い笑みを取り戻していた。
「その質問に、何か意味があるのか?」
「…………」
 ほんの刹那の間だけひび割れた仮面は、巧妙に修復されたようであった。
 もはやソニエに、それ以上食い下がる理由も強さもなかった。



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