チェイリードの娘
24
部屋にいる間ずっと、窓の外を見るようになっていた。
ソニエの部屋の窓から見渡せる景色の大半は、南の地平の先まで続く平原だ。
遠くに小さな農村の集落がいくつか点在し、それぞれの周囲にこじんまりとした畑や牧場が広がっている。まるで大海原に浮かぶ小島の群れのように。
屋敷の玄関前の坂下から伸びる石畳の馬車道が、その閑散とした平原の中へ白く延びていた。それは散らばる農村の方へ、そして更に南へと続いている。
ソユーブという地名は、本来チェイリード家の所領を表す名であったが、有名な一族の名と相まって、いつしかこの北東辺境地域一帯をもまとめて指すようになったのだという。
七つの公家のいずれの支配にも属さず、長らくチェイリード家の支配と農村民の自治が平和的に共存してきた特殊な土地であった。
窓の外へ向ける視線を少しずらすと、部屋のちょうど真下に、玄関前の芝生の前庭がある。
屋敷を訪れる客の馬車や馬などは、たいていその場所に待機することになる。
幼い頃はよくこの部屋の窓から、帰っていく客人を見送って手を振っていたものだ。
記憶の中、屋敷を訪れたいくつもの人間の顔が思い浮かんでは消えていく。
そのあまりに沢山の記憶の中で、ただ一つ。
今、ソニエの中に繰り返し呼び起こされる場面があった。
――――二年前のあの日。
十六歳のソニエはこの部屋で、窓際のカーテンにしがみつき、半身を隠すようにこっそりと窓の下を見下ろしていた。
”その瞬間”は、ほんの一瞬の出来事だった。
それは当時のソニエにとってはただ恐怖でしかなく、とっさに逃げるように身を隠した。
――――セディック。
彼を初めて見たのが、二年前のこの場所だったのだ。
彼もおそらく、その時初めてソニエの姿を見たに違いない。
決していい思い出であるはずがなかった。
ソニエの心の中で大切に温められていた、他の大切な記憶たちとは明らかに違う場所にある。
むしろ意図的に忘れようとさえしていたはずなのに、今になってその一瞬の光景がひどく鮮明に、強烈な印象でもって脳裏によみがえるのだ。
その時のことを思い返すと、いたずらに胸が騒いだ。
ざわざわと心の中が掻き乱されるようで落ち着かなくなる。
しかし、記憶から離れて現実へ立ち返れば、今度はひたすらに苛立ちが募るばかりで。
ひどく不快だった。
――――馬鹿げているわ……。
わずらわしい記憶の残像を振り払うように、ソニエはシャっとカーテンを閉めた。
風も静かなその日の夜半すぎ、このチェイリードの屋敷を訪れるものがあった。
近付いてくる馬車の走行音と、それが屋敷前に停車する音で目が覚める。
寝台から起き出して窓の下を見ると、前庭に見慣れない馬車が一台止まっていた。
ソニエたちが乗ってきたファルデロー家の馬車ではない。
馬車だけでなく御者の男もまた、見覚えのない人間のようだ。
窓ガラス越しに目を凝らすと、玄関前のキャンドルの光に照らされ、どこかで見たような紋章がその車体に見える。
記憶を辿り、その紋章が表す家名を思い出したとき、ソニエは戦慄した。
白い百合と牡鹿の姿がかたどられたそれは、アラトリムのエルブラン大公家のものに違いなかった。
――――『知らせが来るまで、だ』
セディックのあの言葉を思い出す。
誰の、何の知らせなのか、その答えを彼の口からは聞いていない。
それでもさすがに、彼女なりの予測がついていた。
大公夫人からの知らせだ。
今、それが来たに違いない。
ソユーブを去らなくてはいけないのだ……。
恐れていたことが目前に迫っているのだということを、急激に理解した。
大公夫人の、例の組織の、そしてセディックの企む最悪の凶事が、ついにソニエを捕らえにやってきたのだ。
震える足で窓から遠ざかり、心の中で恋人の名を呼んだ。
――――アリュース。
――――助けて……。
屋敷を訪れた大公家からの使いの人間は、随分と長い間この屋敷に留まっていた。
階下の玄関ホールから届く、二、三人の男の話し声。
その一つはセディックのものだろう。
なにかを言い争うような声が夜の屋敷内に響いて、それらはやがてセディックの部屋へと消えていく。
彼の部屋の明かりは、夜明け近くまで灯ったままだった。
東の空が白みはじめ、日の出が間近に迫る頃、ようやく馬車が走り去っていく音が聞こえた。
ソニエはベッドにじっと腰かけたまま、微動だにせずにその音を聞いていた。
夏の朝、鳥の囀(さえず)りとともに、やや強めの日差しが窓から降り注ぐ。
何事も無かったかのように静かな、屋敷の中。
階下へ下りて食堂広間へ入ると、そこにはセディックの姿があった。
ソユーブへ帰郷した最初の夜をのぞけば、彼の姿をこの”屋敷の中”で見るのは初めてだ。
というのも、食事の時間はことごとく重ならず、それでなくとも屋敷にいる間、彼はどうやらほとんど自室に篭っていたらしいからだ。
あの花畑へも、あれ以来二度と姿を現さなかった。
ゆえにこの故郷の地において、ソニエはセディックの存在を一切気にすることなく自由に羽を伸ばすことが可能だった。
心中の問題は別にして、だ。
セディックの装いは、ソニエの予想通り、これから起こるであろうことを示していた。
今はもう、あの木立の中で見かけたときのような姿ではなく、アラトリムで散々見慣れた出で立ちをして椅子に腰掛けていた。
整えられた髪と、光沢あるダークグレーの布地の正装用スーツ、襟首にはきっちりとアスコットタイが締められている。
そして隣の椅子には、例のコートがかけてあった。
今にも出発せんとするような態勢だ。
彼はテーブルの上に片肘をつき、サンルームの先にある外の景色に目を向けながら座っている。
前に置かれた紅茶はほとんど口をつけられた形跡もなく、既に温度を失って久しいようだ。
ソニエが足を踏み入れると、待っていたかのように、セディックは真っ直ぐに視線を向けた。
その瞳が赤く充血して見えるのは、気のせいではないだろう。
しかし眼光は相変わらず鋭く、彼女を見据えている。
ソニエは彼が何かを言う前に口を開いた。
「……アラトリムへ、戻らなければいけないのね」
「ああ。あと少しで発つ。用意しておけ」
とくに驚いた様子もなくあっさりと、セディックは答えた。
―――用意、なんて。
護送される囚人のようにソユーブへ連れてこられたのだ。
最初から荷物などなく、帰り支度といわれても、特にすることも何もない。
出立を告げられることはわかっていたので、ソニエは既に自分で髪を結い、クローゼットの中から選び出した新しいドレスを着用している。
最初の日に着てきたドレスは一着限り、まさかそれを何日も着続けるわけにもいかず、三日目以降は不本意ながら、クローゼットの中のドレスをいくつか身につけていた。
おそらくセディックが用意させたであろう、彼の日頃の趣味からは考えられない柔らかな色合いのドレスをだ。
ソニエは彼のちょうど対極にある、もっとも遠い位置の椅子に腰掛けた。
運ばれてきた朝食に、手を伸ばす気分にはなれなかった。
とても食欲など湧かない。
リックが運んできてくれたハーブティを一口飲んだきり、ソニエは手を下ろして膝の上に置いた。
テーブルの上の料理は湯気を失って、やがてすっかり冷めきっていく。
その間、沈黙の空間で、柱時計の針の音だけがやけに大きく響いていた。
しばらくたち、ソニエがもはや料理に口をつける気がないのを確認すると、セディックはコートを腕に引っ掛けて席を立った。
そして無言のまま部屋を出て、玄関ホールへ向かっていく。
ソニエもその後に続かなければならなかった。
立ち上がって広間から出ようとしたとき、部屋の隅からおどおどと様子をうかがっていたリックが駆け寄ってきた。
「……ソニエ様」
既に他の使用人は、屋敷の主人の見送りのために玄関口へ回っており、その部屋にはもう他に誰もいない。
「……あの、ソニエ様……」
リックは何か言いたげに、口をどもらせながら、落ち着き無く立っている。
ソニエは彼の頭にそっと手を乗せて、腰を屈めた。
できる限りの微笑みを浮かべて彼の顔を見る。
「リック、短い間だったけど、お世話になったわね。どうやらもう、アラトリムへ帰らなければならないみたい……。お別れだわ」
軽く頭を撫でてから、ソニエは再び歩き出そうとする。
しかしドレスの裾をつかみ、リックは彼女を引きとめた。
そして随分と躊躇の色を滲ませながら話した。
「あの……俺、母ちゃんから、旦那様と奥様の間には何かあるから、あまり立ち入っちゃいけないって……、きつく言われたんですけど、でも……」
それでも少しためらった後、やがて彼は意を決したようにズボンのポケットから何かを取り出し、それを素早くソニエの手に握らせる。
紙の感触があった。
己の手の中を確認するや、ソニエは目を見開いた。
少しくたびれた封筒。――手紙だ。
宛名はソニエの名。
差出人は、――アリュース=ラナ=アークレイ。
消印は五日前、アラトリム中央配達局となっていた。
「口止めされてたんですが、旦那様が、ソニエ様宛の郵便物は全て処分しろと仰られて、俺、……でも……」
ソニエは逸る気持ちを抑えながら、震える手でその手紙の封を切った。
「すみません! 他にも、いくつか手紙はあったんです。でも、残っているのは、最後のそれだけで……」
開いた白い便箋に記された文章を目で追いながら、ソニエは歓喜の眩暈を覚えた。
そこには彼女を救い出す計画が克明に記されていた。
アリュースは、ソニエがソユーブに来ていることをきちんと把握していたのだ。
そして彼女のために動いてくれていた。
望みはまだ切れていなかった……。
ソニエは手紙をぎゅっと胸に抱きしめ、神に感謝した。
絶望に近い自分を、またもアリュースは救ってくれる。
目尻に滲んだ涙を拭き、目の前でうなだれている少年を抱きしめた。
「……ありがとうリック」
腕の中でうろたえている少年に、心から言った。
「本当に、ありがとう……」
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