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チェイリードの娘

25

 使用人たち一人一人に礼を述べてから、馬車に乗り込んだ。
 顔色を悟られないように用心するが、セディックはソニエの方など一度も見ようとはしなかった。
 やがて馬車は走り出す。
 緩やかな坂を下って進むと、丘の上のチェイリードの屋敷が小さくなっていくのが見えた。
 また戻ってこられる日が来るかもしれないと、希望が持てるのは嬉しかった。
 しかし、喜びとともに不安が押し寄せる。
 アリュースの言うとおりに、そう簡単に事は運ぶだろうか。
 また計画を悟られて邪魔されたりしないだろうか。
 ソニエは斜め先に座る男の横顔を見た。
 それはやはり、窓の外へ向けられたまま動かない。
 ――――いったい、何を考えているのだろう。
 固く強張った表情は、相変わらず定期的に瞬きを繰り返すだけだ。
 来る時と同じように、いや、それ以上に何かを思いつめたような表情が少し気になった。 
 彼はソニエを大公夫人のもとへ連れて行くつもりなのだろう。
 ”グリモゲーテ”の深部に繋がる、大公夫人。
 彼女の命令でソニエを屋敷に飼い続けていたのだとしたら、おそらくその期限は終わったのだ。
 彼は引き換えに何を得るのだろう……。
 それは、ソニエが考えても詮無いことのように思えた。
 彼女の心に沈む重い感覚は、これから起きるであろう出来事への不安だけではなかった。
 心を落ち着かせようと、瞳を閉じる。
 ――――冷静にならなくては。
 自分に言い聞かせようとすればするほど、心に何度もちらつくものがあった。
 あのチェイリード邸の自室の窓から、二年前の自分が見た光景。
 薄青い目の奥に潜む、正体のわからない感情の揺らめき。
 そして木立の下で眠っていた、場違いな男の無防備な寝顔……。
 ――――いい加減にして! 
 ソニエは膝の上の手をぎゅっと握り締めた。
 相手は自分を欺き利用し続けた男だ。
 最初に会った日から、味方であったことは一度も無い。
 憎むべき敵なのだ。
「……おい」
 ふいに投げかけられた声に、はっとした。
 見ればセディックが訝しげな目をこちらに向けている。
「具合でも悪いのか」
 青い顔のソニエに向かって、平然とたずねてくる。
 白々しいと思った。
「……あなたには、どうでもいいことでしょう」
 冷たく低い声で返す。
 するとセディックは何もいわず、何事もなかったかのように窓の外へ視線を戻した。
 ソニエは込み上げてくるやりきれない思いに耐えながら、彼から瞳を逸らす。
 そのまま沈黙が舞い戻るかと思われた。
 しかし。
 少しもたたないうちに、セディックがそれを破る。
「――俺の父、ロドニック=ファルデローを覚えているか?」
 なんの前触れも無く、彼はそんなことを尋ねてきた。
 こちらを見もせずに問う。
 セディックが突然話し始めたことに動揺し、そしてその唐突な内容の意図が掴めずに、ソニエはしばらく無言だった。
 ややあって、ぼそりとした声で返す。
「……ええ。覚えてるわ」
 ロドニック=ファルデロー。
 あのギラついた目の初老の男は、思い出すだけで身の毛がよだつ。
 思わず顔をしかめた。
 そんな彼女の様子など気にもとめず、あらぬ方向を向いたままセディックは話を続ける。
「強欲で、残忍、そのくせ臆病で、財を築いたのちは人を疑うことに余生を費やした男だった」
 自分の父親のことを、なんの情も感じさせないような声で、淡々と語った。
 ますますセディックの真意がわからなくなる。
 しかし次に続く言葉にソニエは驚いた。
「俺は十六歳のとき、ファルデロー家に引き取られた」
「……え」
 思わず声を出し、まじまじと相手の顔を見つめてしまう。
 セディックが養子。
 そんな話は、完全に初耳だった。
「子供が望めない体質とかでな。奴は己の事業を引き継がせる後継者を必要としてたんだ。それで、元孤児で、当時サロム通りの靴屋で下働きをしていた俺に目をつけた」
 ――――『奴』。
 日頃から基本的に口の悪いセディックではあるが、父親に対するその呼称は、あきらかに悪意が感じられるものであった。
「……俺は、奴とは違う。あの男のように軽薄でもないし、くだらない過去の遺物に妄執するような愚かさももたない」
 嫌悪感さえ滲ませるような口調で、セディックは話す。
 彼が父親について言及するのを、ソニエは初めて聞いた。
 ロドニックの死後に初めて正式にセディックと対面したソニエは、実際、父子二人が共にいる光景すら見たことが無い。
 義理の親子だったとはいえ、父親に対してあからさまな悪感情を抱いていたらしいセディックに、驚きを隠せない。
 そして今、そのことをソニエに話す彼を不審に思った。
「だがな……」
 セディックは、そこでソニエに目を向ける。
 真正面から強い目で彼女を見据えた。
 あきらかに空気が変わる。
「俺と義父は、一つだけ、共通するところがある。血のつながりなど一切ないが、唯一、あいつと俺には酷似するもの、互いに共感しあえたものがある。……何だかわかるか?」
「…………」
 ソニエは威圧されていた。
 色素の少ない目。若干血走ったような薄青いその目が、真正面から突き刺さる。
 ソニエはただ首を横に振った。
 怯える両の目を強引に捕らえながら、セディックは言い放つ。
「それはな。……金のためならどんな汚いことでもする、ってことだ」
「…………」
 ソニエの怯えた瞳が、わかりやすく嫌悪に歪んだ。
「そして、俺は、自分の計画は必ず完璧にやり遂げる」
 一言一言、まるで言い聞かせるように力を入れて彼は話す。 
 ソニエは異様な光をたたえるセディックの目を見た。
 そのぎらつきだけは、表面的には、あるいは彼の父親と似ているかもしれないと思う。
 どうしようもない恐れを、目の前の男に対して抱いた。
 同時に不可解な感情のひずみを感じる。
 ほんの少し前なら、セディックのその言葉をただ真正面から受け止めて、彼に対する嫌悪感を深めていたことだろう。
 しかし……。
「それならどうして……、わたしをソユーブに連れ出したりなど……」
 あのままアラトリムの屋敷に監禁し続けて、大公夫人に引き渡せばよかったのだ。
 セディックの言葉と行動はひどく矛盾しているように思えてならなかった。
 そのもっともな問いに、セディックの瞳の中のぎらついた光は死んだ。
「……さあな……」
 代わりに、虚ろな色がそこに漂っていた。



 日が中天に差しかかったころ、来た時と同じ町に、馬車は一度停車した。
 ソニエの乗る馬車のほかにも、数台の荷馬車が停車している。
 その多くが、ここよりやや西の商業都市ノガロイテを目指すものと思われた。
 北のソユーブへ向かう馬や馬車は、そうそう滅多にあるものではない。
 現に、ここへ来るまで一度たりとも誰かとすれ違うようなことはなかったし、それは往路においても同じであった。
 御者を努めていたレオンが、ソユーブから持ってきた食料の袋をセディックに渡す。
 セディックはその中からパンを一つ抜き取ると、残りはすべてソニエの横に置いて馬車を出た。
 その去ってゆく背中を見送りながら、ソニエは無性に居心地が悪くなる。
 もはや気のせいではないのだろう。
 セディックは食事時には、できる限りソニエを一人にする。
 なるべく自分が側にいることを避けようとしているように思える。
 あの夜。
 ソユーブへ到着した夜、確かにソニエは、彼と同じ部屋で食事を取ることを拒絶した。
 しかしたとえ彼女があのような拒絶の言葉を口にしなかったとしても、セディックはソニエを一人にしたのだろう。
 現に、来るときに途中停車した町でも、彼はソニエを一人車中へ残して姿を消した。
 自分が側にいればソニエの食欲が減退すると思っているのだろうか。
 それとも食事を絶っていたあの時期に、無理矢理食べさせようと乱暴を働いたことを多少気にしていたりするのだろうか。
 傲慢でしかないと思っていた男の、その少しばかり的外れな気遣いが、今は苦しい。
 どちらにしても、この状況で食欲など無いのだ。
 ――――この、状況で……。
 ソニエは御者台に腰掛けているレオンの様子をうかがいながら、なるべく不自然でないように馬車から降りた。
 当然、レオンは彼女の方へ寄ってくる。
 どこへ行くのかと、口より先に瞳が叱責していた。
「……用を足しに。それくらい一人で行かせてくれてもよいでしょう?」
「…………」
 レオンは少し考えるような仕草をし、渋々といった様子で応諾した。
 ソニエは高鳴る胸の鼓動を押えながら、町の中へ入ってゆく。
 セディックが消えた方角とは真逆の路地へ入った。
 角を曲がったところで、ようやくレオンの視線から逃れて胸を撫で下ろす。
 だが問題はこれからだった。
 アリュースが手紙の中で指示したとおりに動いた。
 ソニエはこの町の中で、一人になることに成功した。
 手紙には通りの”番地”だけが指定され、その場所へ行くようにと記されている。
 けれどその先どうやって逃げ切るのか、そこまでは手紙に書かれていなかった。
 とりあえず手紙を握り締めて、焦る思いで目的の番号の標識を探す。
 宿屋や大衆食堂が居並ぶその通りは、アラトリムの下町通りともなんだか違う。
 ごちゃごちゃと統一性のない看板が入り乱れ、どことなく退廃したような雰囲気が漂っていた。
 酒に酔ってふらついた男や、露出の多い服を着た若い女がやけに目立つ。
 そんな場所を小奇麗なドレス姿の娘が一人でうろついているのは、さぞ珍しいのだろう。
 行き交う人々がもれなくこちらを振り返っていく。
 しかしソニエはただ一心に、指定の番地と同じ数字が記された標札を探し続けた。
 ――――『019−0812』
 その番号だけを目指す。
 足を踏み入れた通りは間違ってはいないはずだが、番地の数字があまりに遠い。
 今いる位置からは随分離れたところの地番のようだった。
 あまり時間がかかれば、すぐにレオンが異変を察するだろう。
 猶予は無かった。
 ドレスの裾を持ち上げて、小走りに進んだ。



 目的の場所は、町の東のはずれ、彼女の乗ってきた馬車が停車する位置のちょうど反対側にあった。
 『019−0812』。
 さび付いたアルミの標札には確かにその番号が刻まれ、レンガ造りの古びた建物の柱にはめこまれている。
 寂れたその一角には、人の姿も無い。
 建物のドアは取り払われて、窓ガラスも抜け落ち、四角い空白がただ規則的にパックリと口を開けている。
 脇にある配水管らしき石の管は途中で途切れて、野良猫の住処になっているようだ。
 どう見ても無人の建造物であった。
 本来ドアが嵌っているはずの長方形の穴の四つ角には、分厚い蜘蛛の巣が張っている。
 不安を覚えつつ、ソニエはその建物の中へ足を踏み入れようとした。
 中で待てば、アリュースかケスパイユの用意した迎えが来てくれるに違いないと考えて。
 ――――しかし……。
「……んっ!」
 なんの気配も感じなかった。
 突然背後から伸びてきた人間の手が、ソニエの口元に何かを押さえつける。
 もがいて抵抗する彼女の体を羽交い絞めにし、口元に強く、湿った布を押し付けてくる。
 ――――いけない!
 ――――この臭い……!
 その布からはツンとするような臭いした。
 考え付くより先に、既にそれを吸い込んでしまっていた彼女の脳芯を、一瞬で痺れさせていく。
 気が遠くなり、相手の顔を見ることもできないまま、あえなく意識は途切れた。
 何かを考える余裕など無い、ほんの一瞬の出来事だった。



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