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チェイリードの娘

26

 真っ先に、懐かしい顔が目に入った。
 労わるように優しい顔。
 深く皺の刻まれた白い面のうえに、濃いグレーの瞳が心配げに揺れている。
 白髪交じりの髪をもつ、優雅な初老の男がソニエのそばにいた。
「……おじ、さま?」
 薄く開いた眼を相手に向けながら問う。
 男はソニエの額に手を置いて、ほっとしたように相好を崩した。
「ソニエ、よかった。意識が戻ったのだな」
「おじ様……、わたし……」
 状況を把握できていないソニエは、ただまじまじとケスパイユの顔を見つめる。
 そしてばっと起き上がろうとして、ふいに襲いくる頭痛に顔をしかめた。
「ソニエ! そんなに急に動いてはいけない。何も心配はいらないから、もう少し横になっていなさい」
 ソニエの肩を押さえ、ゆっくりと、彼女の体をベッドの上に戻した。
 そこはどうやら、ケスパイユの屋敷の一室に違いなかった。
 窓から流れてくる空気に、湖の匂いがするのだ。
 事情がつかめなくてうろたえるソニエに、彼は安心させるようにとても慎重に話した。
「手荒な真似をして悪かった。しかし、奴らの目を欺いてことを成し遂げるには、ああするしかなくてな……」 
 怪我がなくてよかった、そういいながら彼は深く安堵の息をつく。
 ソニエは気を失った瞬間のことを思い浮かべていた。
「おじ様、わたし、どうやってここへ……?」
 彼女の問いに、ケスパイユが渋い顔をする。
「どうやら……、おまえの気を失わせて、荷箱の中に隠し、商人の荷馬車であの町を出たらしい。意識の無いおまえが屋敷に運ばれてきたとき、私も焦ったよ。雇った人間が少々、問題のある人間だったものでな。仕事は確実なんだが、さすがにあれはない……」
 若干憤慨の色を滲ませて話す男の背後へ、ソニエは視線を巡らせる。
 その部屋に別の人間の存在を探した。
 しかし、目当ての人物はそこにはいなかった。
「おじ様、アリュース、は……」
 彼女の問いに、とたんにケスパイユの顔が曇った。
 その変化に、ソニエは嫌な予感がする。
 重々しい表情が彼女に語った。
「ソニエ、落ち着いて聞いてくれ」
「え……」
「実は、アリュースが二日前から消息不明なのだ」
「……う、そ……」
 苦い声で告げられた内容に、ソニエは愕然とする。
 頭痛をこらえて強引に体を起こすと、ケスパイユに詰め寄った。
 思わず彼の腕にしがみつく。
「どういうことですか? 消息不明って、そんな、どうして……」
 悲壮な気持ちが広がってゆく。
 ――――アリュース……。
 ケスパイユはソニエを落ち着かせるように、彼女の腕をやんわりと解き、軽く彼女の肩に手を乗せた。
 それから憂いの浮かぶ目を伏せて答える。
「すまないソニエ、わたしの落ち度だ。注意が足りなかった。まさか奴らが彼を手にかけるとは……。いや、おまえとの関係を考えれば、その可能性を考えておくべきだったのに……」
「おじ様、アリュースはいったいどうして……」
「彼は、ひそかに第七公家の助力を得て、このアラトリムに戻っていた。そしてこの屋敷に身をよせ、わたしとともに、大公夫人の動向を探っていた。おまえがソユーブに連れて行かれたと聞き、おまえを取り戻すならあの中継の町でやるしかないと、わたしたちは計画したんだ」
 ソニエは縋るような目でケスパイユの話に聞き入った。
「万が一にでも、おまえが手紙を受け取ることができたなら可能性はあると、彼もその望みにかけていた。そして、おまえは約束の場所に現われ、無事にこうしてここにいる。……しかし、当のアリュースは、二日前に大公家の動きを探るためにと街へ出て行ったきり、戻らんのだ」
「……そんな」
「人を使ってひそかに探させたが、ぱったりと行方が知れん。何者かに捕まりどこかに監禁されているとしか……」
「…………」
 ソニエは顔色を失って震えた。
 ショックのあまり言葉も無い。
 ここできっと会えると信じていたのに。
 胸に押し寄せる不安が心臓を押し潰しそうだった。
 ――――いったい、どこにいるの、アリュース……!
 震えるソニエの肩を抱いて、ケスパユはなだめるように言った。
「ソニエ、大丈夫だ。彼は生きている。絶対に生きているはずだ。おまえをおいて、命を落したりなどしない。彼は昔から約束を守る男だっただろう? 大丈夫だ」
 大丈夫、大丈夫と繰り返しながら、子供をあやすように軽く肩を叩く。
 ソニエはケスパイユの腕の中で泣いた。
 泣きながら祈った。
 どうか、どうか無事でいて、と――――。
 この時の彼女は何も知らず、ただ彼の無事を祈っていた。



「ソニエ様! よくぞご無事で!」
 そばかすの浮いた愛らしい顔の少女が、涙目で部屋に飛び込んできた。
「カレン!」
 ソニエはケスパイユの腕から顔をあげ、驚いて少女の顔を見た。
「あなた、どうして……」
 言いかけて、カレンを巻き込んでしまった一連の経緯を苦い気分で思い返す。
 ケスパイユ邸を出て、ファルデローの屋敷に戻った日。
 権利証書を取りかえして再度戻るはずだったが、予想外の訪問客と、予定より早く帰宅したセディックのために、それはかなわなかった。
 とりあえずカレンは家に帰らせたものの、それ以来、さすがに彼女はもう、ファルデロー家に奉公に出ることはできなくなっていた。
 しかし、ソニエがその後にファルデロー邸から脱出しようとしたとき、彼女は部屋の鍵の複製を入手したりと、色々協力してくれていたのだ。
 申し訳ない気持ちと感謝の気持ちで、ソニエはカレンの手を握った。
「ごめんなさい。巻き込んでしまって……、ひどい迷惑をかけてしまったわ」
 カレンはしかし、気さくに笑ってヒラヒラと、その身につけた新しいメイド服を嬉しそうに見せた。
「ソニエ様のご心配には及びませんわ。だってわたし、ここのお屋敷で雇っていただくことになりましたの!」
「……え」
 驚いたソニエがケスパイユを見る。
 ケスパイユはにこやかに笑って頷いた。
「カレン……」
「ソニエ様」
 今度はカレンがソニエの手をとって言った。
「わたし、どこまでもソニエ様の味方ですわ。ここまできたらとことん協力させていただきます。……だからそんな、気なんて遣わないでくださいな。無事にアリュース様にお会いになれるよう、作戦を練りましょう」
 ソニエは目尻の涙をぬぐった。
「……ありがとう、カレン」
 胸が熱く、込み上げるものがあった。
 こんな風に助けてくれる人がいるなんて……。
 自分はなんて恵まれた人間なのだろうと、感謝の思いで一杯だった。



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