チェイリードの娘
27
懐かしい声がする。
探し求め、ようやく見つけ出した青年が、こちらに向かって何か叫んでいた。
とても苦しそうな声で――――。
『――ソニエ、来るな!』
『ここへ来てはいけない。危険だ。逃げて……!』
――――アリュース!
はっと、ソニエは目を開いた。
温かい湯気が煙る空間に、パシャリと水のはねる音がする。
ケスパイユ邸で与えられた部屋にある、個人用の浴室だ。
湯につかってほんの一瞬だけまどろみかけた瞬間に、ソニエは浅い夢を見た。
しかし、夢というにはあまりに生々しい声と、恐怖。
こういう夢は、彼女にとって特別な意味をもつことが多かった。
――――チェイリードの血が見せる、”予知夢”。
一族の秘密について一切口を閉ざしていた祖母であったが、ちょっとした拍子に一度だけ、そんなことを漏らしたことがあったのだ。
ソニエにもその程度の力が受け継がれているのだとしたら、ただただ現状は恐ろしいものだった。
アリュースが危険にあっている……。
その胸騒ぎにいてもたってもいられず、慌てて湯からあがった。
軽く体を拭いて薄着を羽織ると、そのまま浴室から飛び出す。
部屋で着替えの用意をしていたカレンが、驚いた顔で振り返った。
「カレン、わたし、こうしてはいられない。アリュースが……」
カレンはタオルをもって走り寄ってきて、慌てて彼女の湿った髪を拭く。
肌に残る水滴も丁寧に拭き取ってくれた。
その動きは相変わらずそつがなく、非常に落ち着いている。
「ソニエ様、大丈夫です。ケスパイユ候がおっしゃったでしょう、アリュース様はきっとご無事です。今はただ冷静に、状況を判断することが肝要ですわ」
「…………」
「せっかく助け出されたソニエ様が、また攫われでもしたら、アリュース様の働きも、全て水の泡になってしまいます」
カレンの言うことはもっともで、もっともすぎて、ソニエはやり場の無い不安を消化することができなかった。
「……そうね」
力なく答えて肩を落す。
カレンはソニエを鏡の前に立たせて、ドレスを着せ始めた。
眩しい純白のドレス。
ひどく値のはりそうな布地に、ソニエは眉をひそめる。
「ずいぶんと、高価そうなものね。どうして、今こんなもの……」
「ケスパイユ候からの贈り物ですわ。これを着て夕食に出られるようにって……。ちゃんと着替えのドレスも用意してくださって、気の利くお方ですわよね」
カレンはソニエの腕を通し、背中のファスナーをあげた。
「まあ、サイズもぴったり!」
感嘆まじりに言いながら、レースのリボンを一つ一つ結んでいく。
アリュースの安否が気遣われる状況で、こんなドレスを着て夕食会に臨むことに、憂慮を感じずにはいられない。
自分の身の安全だけが保障されても、もはやなんの安堵ももたらされなかった。
今度こそ会えると信じた、彼が消息不明と聞いては心も休まらない。
しかも、さきほどのおかしな夢だ。
――――『ここへ来てはいけない。危険だ。逃げて……!』
ソニエは両手で顔を覆った。
――――アリュース、あなたいったい、どこにいるの……。
「ソニエ様……」
カレンがソニエの肩を抱くようにして、体を支えるようにしながらソファに座らせた。
「ごめんなさい、アリュースのことを考えると、つい……」
気遣うような仕草で、カレンはソニエの涙をハンカチで拭き取り、髪の乱れを整える。
「……許せませんわね」
憂いに満ちた瞳にしだいに悪感情を露にして、カレンはつぶやいた。
「セディック=ファルデロー。あの方が全ての元凶なのでしょう? ソニエ様を長い間苦しめ続けて、今もこんなに辛い思いをさせて……。アリュース様を攫わせたのも、きっとあの男の差し金に違いありません」
セディックの名に、ソニエは一瞬息を飲む。
少し前まで同じ馬車で揺られていた男の顔を思い浮かべると、鋭い痛みが胸に走った。
――――セディック……。
カレンのいうとおり、アリュースを攫わせたのは、普通に考えればセディックか、あるいは大公夫人、いずれにしても”グリモゲーテ”の関係者と思われた。
ソニエに対する人質のつもりだろうか。
卑劣なやり方に、行き場のない不快感が溢れ出す。
セディックに対する、ひどく複雑で苦々しい思いが、これまで以上に色濃くなった。
無駄に彼女の心を乱しておきながら、もったいぶったように情のかけらを見せながら……、全てはソニエを従わせるための打算的な懐柔策だったのだろうか。
大公夫人の言いなりに、どんなに汚い仕事も引き受ける男。
自身が語ったように、金のためなら魂をも売り渡す男だったのだ。
よりにもよって、二度までもアリュースを奪うなんて。
――――絶対に許せない……。
憎しみと、悲しみと、悔しさ。そして……。
他にも何か理解しがたいものが入り乱れ、ただ苦しいだけの涙が溢れる。
どうやり過ごしていいのかもわからない苦痛が、胸にひしめいていた。
再び泣き始めたソニエを、カレンは気遣わしげに抱き寄せた。
優しく背中を撫でながら話す。
「そんなにお泣きにならないでください、ソニエ様。ケスパイユ候がいらっしゃるじゃないですか。あの方がきっとなんとかしてくださいますわ」
蝋燭の光が灯る、薄明かりの部屋。
自身が発掘したという化石やら石器、古代王朝の遺品とやらが、壁に沿って展示されている。
応接間や廊下だけに飽きたらず、食事をとる空間にまでそんなものが溢れ帰っているのが、いかにも彼らしい。
考古学を愛し、古代文字にも精通しているという博学な人間だ。
自ら隊員を率いて西の砂漠の発掘にも赴くという、その熱意は若い頃から少しも衰えていないらしかった。
部屋の様子をぐるりと見回し、ソニエは既にテーブルの席についている初老の男に目を向ける。
ケスパイユは彼女の姿に目を細め、感嘆を滲ませつつ眩しそうに見つめた。
「ソニエ、やはりおまえには白がよく栄える。とても美しいよ」
「……おじ様」
「さあ、席にかけなさい。食事をはじめよう。作戦会議はそれからだ」
ソニエのために用意された椅子を、カレンが引いてくれる。
ドレスの裾に気遣いながらそこに腰掛けた。
正面に座るケスパイユの気品ある顔立ちを見ながら、ソニエは幼い日を思い返さずにはいられない。
彼がソニエに向ける顔は、ずっと昔から、彼女を温かく見守るような表情ばかりだ。
その優しくなつかしい微笑みが、自然と少年時代のアリュースに繋がるのだった。
ソユーブで過ごした子供時代、彼女に絶大な影響を与えた二人の人間。
父の従兄だったケスパイユ候と、少年アリュース。
この二人なくして、今の自分はありえない……。
重く沈む胸の苦しみに耐えながら、なんとか気を強くもとうと踏ん張った。
これは試練なのかもしれないと、できるだけ前むきに考えようとした。
――――カチャリ。
ガラスの触れあう音がして、顔をあげる。
執事の男がグラスにワインをついで、ソニエの前に置いた。
「南方のケルティアから取り寄せた年代ものだ。ソニエ、一口だけでも飲んでごらん」
既に注がれた自身のグラスに顔を近付け、ワインの匂いを楽しみながら、ケスパイユは語る。
ソニエは赤い色の液体が注がれたワイングラスを手にとった。
あまり酒を飲んだことがない彼女には、嗅ぎなれない匂いがする。
思い切って一口口に入れると、甘酸っぱい独特の芳香が口内に広がった。
「美味しい……」
その様子を満足そうに見つめ、ケスパイユもグラスを口に運ぶ。
注がれたワインを飲み進めるうちに、食事が運ばれてきた。
結局、料理にはほどほどに口をつけるだけで終わったのだが、二杯飲んだワインのせいもあってか、張り詰めていたものが少し和らいでいるのを感じていた。
気のせいか、さきほどの胸の苦しみも多少穏やかに感じられる。
少しは落ち着いて話ができそうな気がして、ソニエはケスパイユの気遣いに感謝した。
彼はゆったりと落ち着いた口調で、アリュースの居所やその救出に必要な準備について、語り始めたのだった。
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