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チェイリードの娘

29

 積み上げられた書物を前に、年若い官服の男は、途方にくれたような声をもらした。
「……これ、全部ですか。無理ですよ今夜中なんて」
 呆然と立ち尽くす彼の横で、血走った目の上司が白髪混じりの頭をかきむしる。
「上からの命令なんだ。やるしかないだろう。ぼけっと間抜け面晒してる暇あったら、一冊でも多く片付けんか」
「……いや、でも……」
 薄暗い部屋の中、それでなくとも時間外労働に励む二人の役人が、机の上で更なる苦戦を強いられていた。
「一刻を争うんだよ。あの男の手がかりを掴めるなら、なんでもいい。とにかく奴の計画の一端を暴き出すんだ」
「しかし、……ファルデローの捜査は、コルティヴィエ長官直々だって言ってらしたじゃないですか。なんで今更私たちが……。しかも、書斎の本まで片っ端から目を通せだなんて……」
 書斎の棚から根こそぎ引きずり出してきた書物の量に、アランドはげんなりと表情を崩した。
 うずたかく積み上げられた本の山が、今にも崩れ落ちそうに、ぎりぎりのバランスを保っている。
 突然の長官命令で捜索することになったその屋敷で、彼らは絶望に近い疲労感に覆われていた。
 踏み入った時から、屋敷の主の姿はどこにも見当たらない。
 セディック=ファルデローの居場所を突き止めることこそ、本来の緊急命令の内容だった。
 しかしその男の消息は一切つかめていない。
 アラトリムへ戻っていることは確かなようだが、その後の足取りが一向に不明なのだ。
 妻であるソニエ=フラン=チェイリードの行方も知れない。
 事情を知らずにうろたえる使用人たちに、長官の許可書を突きつけて一人残らず屋敷から立ち退かせた。
 屋敷の中は今、彼らとあと数人の捜査官だけが居座っている。
 彼らの捜査対象はただ一ヶ所、屋敷の主人の私室だった。
 足を踏み入れたとき、他の場所に比べてやけに質素な室内に驚きつつ、ロイトナーはその奥にある小さな書斎へ的を絞った。
 王立図書館にも無さそうなかび臭い古文書に、外国語の題名が記された最新の科学書。
 やたらと分厚い本のどれもこれもが、商業を営む男には不釣合いな内容に思えて、彼らを驚かせた。
「なんだってこんな本が……」
 古く黄ばんだ紙を一枚、また一枚と捲りながら、アランドは眉をひそめる。
 ――――地質学、有機科学、人体解剖学……。
 しがない中級役人の彼らには、まったくといっていいほど馴染みの無い分野。
 解読すらできない外国語の文字や、見たことの無い専門用語がびっしと並ぶ紙面は、視界に映すだけで眩暈がしそうだった。
 積み重なった書物の中の一冊を取り、ロイトナーは舌打ちする。
 それは一際古びた薬学の専門書で、パラパラと中身を捲るだけでその内容が推察できた。
「……薬草? ……というより、”毒”の精製法ですよね、これ」
 開いた書物に蝋燭の灯りを当て、覗き込みながらアランドが言う。
 相当古い書物だ。
 綴じ糸が朽ちて、傷んだ紙が何枚か、バラバラと本体から分離している。
「ああ。しかも、どれもこれも正式な医学書にはない代物だ……」
 常人には入手困難と思われる薬草や、とうに絶滅したといわれる植物に関する成分が事細かに記されていた。
 生唾を飲み込んで、彼らはその紙面に釘付けになる。
 アラトリムでの一連の事件に共通する、”毒薬”というキーアイテム。
 その筋の専門家をもうならせた希少な毒の精製法について、この書物を読み解けば安易に答えを出すことができるように思えた。
「こんなもの、いったいどこで手に入れて……。というか、これはもう確定的なのでは……」
 興奮を押し殺したような声で、アランドがつぶやく。
「…………」
 ロイトナーは眉をひそめていた。このところ多忙のあまり、手入れもままならない顎鬚を指でねじりながら。
 ――――これは、誰のシナリオだ……?
 アランドのほうはこめかみにいくつも汗を浮かべながら、新たな書物の山に目を走らせている。
 その手が同じくらい古めかしい表紙の本に伸びて、慌しく掴み取った。
 震える手でページを繰りながら、彼の表情はしだいに青ざめていく。
 そんなアランドの隣にいるロイトナーのもとへ、別の捜査官が駆け寄ってきた。
「――副長官!」
 書物を根こそぎ引っ張り出したあと、書斎をくまなく調べていた官員の一人だ。
 瞳に興奮の色を浮かべてロイトナーのもとにやって来た。
 そして手袋越しに摘んでいた、小さな丸い石を彼の前に置く。
 ゴトリという音とともにテーブルの上に乗せられたそれは、彼らにとっては既に見慣れた代物だった。
「……金庫の中にありました」
 深い紫色にぼやける、細かい細工の施された水晶。
 薄暗い部屋で不自然な光を漂わせる宝石。
 手にとって確認するまでもなかった。
「やはり、あったか……」
「ロイトナーさん!!」
 今度は青い顔で目を見開いたアランドが、切羽詰ったような声で上司を呼ぶ。
「これを、これを見て下さい!!」
 物色していた本のページを、興奮しながらロイトナーの前に突き出した。
 開かれたその古びたページには、一面に図柄が描かれている。
 ある光景をそのまま写し取って、図解するかのような精緻な絵。
 そこに描かれた光景に、ロイトナーはぞっとした。
 それは古代のなにかの儀式の図のように見受けられる。
 祭壇の上に寝かせられた女の肢体。
 その上から刀を振りかざす神官のような男。
 その周りを囲むように、杯のようなものを掲げて平伏する人々。
 そしてその次のページには、人体の細かな断面図と、解剖の手順のようなものが掲載されている。
 刀剣を突き入れる順序と位置が示され、ばらばらに分断した体や取り出した臓器の取り扱い方法が、綿密な図表とともに延々と書き記されていた。
 内臓、耳、眼球、指の爪……。あまりに細かな線で詳細に描かれていて、生々しくさえある。
「…………」
 不快感に言葉も失い、口元を手で覆いながら、男たちはいっせいにそのページから目を逸らした。
 開かれたままのその紙面。
 描かれた祭壇の上に、ある紋章があった。
 ――――漆黒の薔薇と刺(トゲ)。
 ――――『グリモゲーテ』。


 ファルデロー邸、現当主の私室。
 そこで見つかった物品の数々は、ごく表層的に事件の謎を片付けようとする。
 しかしロイトナーは考える。コルティヴィエ長官の不自然な命令の真意を……。
 ずっと彼の胸にわだかまっていた、煮え切らない違和感が今、激しく自己主張している。
「…………」
 一人難しい表情で押し黙っていた彼は、やがてある可能性に思い当たり、眉間の皺をいっそう深くしながら立ち上がった。
 ひそやかな惨劇の夜は、この時既に幕を開けていたのだ。
 それは、彼らの与り知らぬところで。
 やがて駆けつけた長官からの使いの男が、彼らに驚くべき命令を伝えた。



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