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チェイリードの娘

30

 ――――熱い。 
 全身が蒸されるように熱かった。
 息ができない。
 肺が圧迫されたように、呼吸が苦しい。
 誰かが、見ている。
 優しい顔で自分を見ている。
 柔らかく微笑む少女が、彼女の額の汗をぬぐい、労わるような手つきで髪を撫でていた――。
「もう、大丈夫ですわ。ソニエ様……」
 優しい声が語りかけ、ソニエを少しずつ現実の世界へ連れ戻す。
「……カ、レン……?」
 目の前の少女の名を呼び、彼女の明るいブラウンの瞳を見つめた。
 吸い込まれそうな色がソニエの中に立ち入ってくる。
「ずいぶんと恐い夢をご覧になったのですね。でも、もう大丈夫です。ソニエ様はなにも恐れることはございません」
「夢……?」
 ――――ここは、どこ。
 意識がしだいにはっきりとしてきて、赤い光ゆらめく禍々しい光景を認識する。
 さきほどと同じ地下空間だ。
 ――――夢ではない。
 ソニエの体は、さきほど部屋の奥に見た”祭壇”の上に横たえられていた。
 唐突に瞳を見開き、起き上がろうとした。
 しかし全身に流れる痺れるような感覚のせいで、体は少しも彼女の意思に従おうとはしない。
 背中に感じる、じっとりとした汗の感触。
 壁際を埋め尽くすほどの蝋燭の数にも関わらず、その空間は妙にひんやりとしている。ソニエの体だけが燃え上がるように熱を持っていた。
 その肢体をやんわりと押さえつけるようにして、頭上の少女が微笑みかける。 
「お動きになってはいけません。安静にしておられないと……」
「カレン、ど、ういう、こと……?」
 話しながら、もつれる舌の感覚に愕然とする。
 体だけでなく、言葉を発する神経さえ、痺れに侵されていた。
「どう、して、ここに、わたし、どう、して……」
 動かない微笑がソニエに向けられたまま、ただ何度も髪を撫でられる。
「カ、レン……?」
 無数の蝋燭の明かりが不規則にゆらめく空間で、少女の目が細められた。
 瞳の奥に、うっすらと、見たことの無い紅い光が宿る。
「ソニエ様は、これから”教祖様”の一部となられるのです。その麗しいお体に流れる類稀なる血液が、あの方を満たし、そして儀式が完成するのです」
「…………」
 恍惚と語る少女の目は、やがて完全に紅色に変わっていた。
 不自然な光を放つ瞳が、不吉な感覚を引きずり出す。
 ――――そんな……。
 見知らぬ人間に成り代わったような少女から逃れるように、動かない体に必死に力を込めた。
 そんな彼女の耳に届く、別の声がある。
「……ソニエ、ダメだ……。むやみに動いても、薬の回りが早くなるだけ……」
「――アリュース?」
 声の方に目をむけると、少し離れた床の上に、縛られた状態で横たわる青年の姿があった。
 苦しげに呼吸をし、思うように動かない体を引き摺るようにこちらへ近づこうと試みている。
 その様子から、ソニエと同じ薬に侵されているのは明らかだった。
 黒い布で目隠しをされた顔に、激しい焦りの汗が浮かび、青年はギリギリと白い歯を噛み締めていた。
「すまない、ソニエ。……まさか、こんなことに……」
「アリュース、これは一体、どういうこと? おじ様はいったい……」
「……罠だったんだ。最初から、全て、仕組まれた巧妙な罠だった……っ」
「罠? いったい誰がそんな罠を……。誰があなたをそんなふうに……」
 なおも現実を認められないソニエに、アリュースは苦しげな声で告げる。
「ケスパイユ候は、あの男は、最初からきみを手に入れるつもりで、全てを仕組んだ。きみを欺き、油断させ、そのために僕を利用したんだ。己の欲望のために……」
「…………」
 アリュースの口から飛び出したケスパイユの名に、肺を握りつぶされるような衝撃を味わった。
「奴の正体を知ったのは、きみに何通も手紙を出した後だった。危険を知らせるためになんとかソユーブへ向かおうとしたが、一足早く勘付かれた。……まんまと躍らされ、気付かないうちに間抜けにも、おぞましい企みに協力していたなんて……、くそっ」
 うめくアリュースの額に黒髪がふりかかり、汗が一滴流れ落ちる。
「でも、ソニエ、きみだけは、きみだけはなんとしても、僕が……、――ぐっ……」
 いつのまにか彼のもとに近づいていた少女の手が、青年の言葉を声ごと封じ込めるように、その首を締め上げた。
「いい加減、お黙りくださいませ。ソニエ様になんてことをお聞かせるのです」
 冷たい声で言い放ちながら、彼の上に馬乗りになった少女は、抵抗できない相手の首をぎりぎりと締め続ける。
 アリュースの顔から血の気が失せ始めた。
「アリュース! よしてカレン! なんてことを!!」
 ソニエの悲鳴に、不思議そうな顔で首をかしげ、カレンはゆっくりと彼の首から手を離した。
「――ゲホッ、ゲホッ……!」
 激しくむせ返り、床の上に腹ばいの状態で、アリュースは短く苦しげな呼吸を繰り返す。
「ソニエ様。この男はいけません。この男はソニエ様の敵なのです。話に耳を傾けてはいけませんわ」
 不気味なくらい落ち着き払った声で、平然と少女は話す。
 ソニエは壮絶な思いで彼女を見た。
「カレン、あなた、本当にカレンなの?」
 その問いに答えたのは、いまだ苦しそうにもだえるアリュースだった。
「ソニエ、その娘は操られている。最初からケスパイユ候に操られて、きみのもとに近づいた。……奴は、呪術師なんだよ。他の誰でもない……、奴こそが、”グリモゲーテ”の総帥(そうすい)なんだ……」
 言い終えて、再度苦しそうに咳き込むアリュース。
 祭壇の上に仰向けになったまま、ソニエはただ呆然とドーム型の高い天井を見ていた。
 しばらくの間、青年の苦しげな咳だけが響き渡った。
 その空間に、唐突に靴音が響く。
 カツン、カツン……と、ゆったりとした足取りで、いつのまにか男が部屋の中に姿を現していた。
「……おじ、さま」
 視界に入るのは、あまりに異様すぎる男の姿。
 燭台を手に現われた男は、全身に漆黒の装束をまとい、目の下あたりまで布で覆い隠している。
 ズルズルと長い裾を引き摺りながら、乾いた靴音をたてて、男は近づいた。
「アリュースの言うとおりだよ、ソニエ。その娘は、私の忠実なしもべだ。特殊な暗示をかけてある」
 地面にうずくまるアリュースの脇を通り過ぎ、男はソニエが横たわる祭壇に一歩、また一歩と近づいた。
 力の入らない体に恐怖が這い上がる。
 逃げ出そうにも、どうしても体が動かない。
「おまえは素直で聞き分けの良い子だ。昔も今も。私は誰よりよく知っているよ。それなのに、可哀想に……。愛する故郷からこんな場所まで連れ出されて、さぞ辛い思いをしたことだろう……」
 ――――カツン。
 男は祭壇の前に立ち止まり、憂いに満ちた瞳でソニエを見下ろした。
「だから私はおまえに、その娘、カレンを与えてやったのだ。同じ故郷出身のその娘なら、おまえは少しでも心を許すだろうと思ってね……」
 男の背後で、紅い目をしたカレンがすっと立ち上がる。
「彼女は実によく働いてくれた。おまえを幽閉し続けたあのファルデローの屋敷から、実に多くの情報を私にもたらした。ソユーブの権利証は、惜しいところだったが……」
「…………」
 ソニエはもはや、驚きの声を漏らすほどの余力もなかった。
 何もかもが彼女の想像を超越して、いっそ現実離れした感さえ否めない。
 これまで抱いていた思考が根底から覆り、果たしてこれは真実なのか、それを判断するべき手がかりも見当たらなかった。
「ああ、しかし、ついにこのときが訪れたのだ……」
 自失状態のまま動かないソニエの頬を撫でて、男は恍惚とした笑みを浮かべる。
 グレーの瞳が、瞬時に紅い色に変化した。
「美しい。実に美しい……。まるで縫い付けられた蝶のようだ。おまえを手に入れるために、どれほどの犠牲を払ってきたことか……。だが、それも今宵ようやく実を結ぶ」
 もはやなつかしい面影など微塵も見当たらない男の顔を、ソニエは恐怖に引きつった顔で見上げた。
 男は一方的に語り続ける。
「おまえがこの世に生れ落ちた日から、ずっとこの日を待ち望んできたよ。苦心してチェイリード家に近づき、間近にその成長を見守り、日々美しく花開いてゆく姿に心躍らされてきた。その白い肉を、肌の下に流れる鮮やかな血を、この身に授かる日を、ただそれだけを焦がれ続けたのだ……」
 男は闇色の衣装の懐から、なにかを取り出す。
 装飾の施された古めかしい短刀だ。
 金の細工と紫の宝玉が埋め込まれた鞘を抜き取って、生身の刃を宙にかざした。
 両刃の刀身は美しく磨き上げられ、年代を感じさせないほどに強烈な輝きを放っている。
 空間の赤い光に照らされて、朱色にきらめくその刃先を、男はうっとりと撫でた。
 そして抑揚のない口調で話す。
「ああ、今思い出しても忌々しい……。私を邪魔するものは後をたたなかった。おまえの祖母は、敏感に私の狙いを嗅ぎ取り、私を強引にソユーブから締め出したのだ。あの女のせいで、計画は大きく狂わされた」
 ――――おばあさま……。
 ソニエは祖母の顔を思い浮かべた。
 人間嫌いが高まり、多くの人々をソユーブから追放したソニエの祖母。
 ただ、心の病に冒されているのだと思っていたのに……。
「やがてあの女が死んだと知り、私は狂喜した。ついに、おまえのもとへ辿りつく日がやってきたと。ソユーブの宝とチェイリードの血をこの身に授かる栄光の日が、ようやくやってきたのだと……」
 ケスパイユはグルリと祭壇の裏側へと回り込んだ。
 正面の壁に掲げられたタペストリーの前に立ち、抜き身の短い刀身を振りおろす。
 突っ張った白い紐が断ち切れた瞬間。
 巨大なタペストリーの表面を覆い隠していた白い布がバサリと剥がれ落ちる。そこに隠されていたものを光のもとに晒した。
 古びた紫の布。
 その中央に縫いこまれた文様。
 黒い薔薇と、その周囲に尖った三本の刺(トゲ)。
 ”グリモゲーテ”の紋章だと、かつてソニエに神妙に教えたその口が今、その垂れ幕の前で驚愕の真実を語る。
 紅く光る瞳に、狂気の光が揺らめいていた。
「しかし……、おまえを手に入れる道のりは、その後も苦難の連続だった」
 男は苦々しい表情を浮かべ、奥歯を噛み締めてきしませながら、語り続ける。
「ようやくと思ったときに、また新たな邪魔者が、私の獲物を横取りしようとするものが現われおったのだ。あさましい欲に取り付かれたその男は、組織の一員でありながら総帥である私を欺き、契約を無視し、おまえとソユーブを独占しようとした」
 ――――ロドニック=ファルデロー。
 恨めしげにその名を吐き捨て、ケスパイユはソニエの前に立ちはだかった。
 向けられる刃。
 ソニエの喉にぴたりと当てられる。
 麻痺した感覚の中にあっても、その冷たい感触が感じられるようだった。
「だが、手に入れるのは私だ。私一人だ。……邪魔者はみな死んだ。”グリモゲーテ”さえもう必要ないのだよ。私だけがチェイリードの力を手に入れればよいのだから……」
 ソニエは悲壮に張りつめた表情で男を見た。
「……まさか……。あの、殺人事件は……」
 歪んだ笑みが、更なる愉悦に浸るように輝いた。
「ああ、そうだ、私だよ! 至高の毒薬と”暗示”で葬ってやった。……想像してごらん、ソニエ。みんな苦しみもがきながら、おまえを呪って息絶えていったんだよ……」
「…………」
 くつくつと笑い、ぐいっと刃を握る手に力を込める。
「ソニエ! ……よせっ、やめろ! 彼女を傷つけるな!」
 敏感に気配を察し、苦痛混じりの青年の叫び声が、狂った空間を飛ぶ。
 しかしそんなものは少しも意に介さず、男は舌なめずりをする。
「――血だ。おまえの、そのチェイリードの血がほしい。私こそがチェイリードの力を受け継ぐにふさわしい」
 狂気に支配された血の色の瞳。
 それが一際大きく見開かれた。
「おまえの類稀なる”紅の美酒”で祝杯をあげよう。それで全てが完成する――!」
 白い肉にあてた刃が、ぐいっと真一文字に引かれる。
 その、決定的な瞬間。



 ――――バアアアアァァァーーーン!!!
 耳をつんざめくような、凄まじい音が鳴り響いた。
 すんでのところで皮一枚を掠った刃が、宙に飛ぶ。
 けたたましく乾いた音をたて、ケスパイユの短刀は数歩先の床の上に転がった。
 彼は血走った目を見開き、己の身に起こった予想外の出来事に愕然としている。
 漆黒の衣の上、男の右肩から溢れ出る血液。
「……ぐっ」
 苦痛に顔をしかめ、彼はゆっくりと己の肩に手を寄せた。とめどなく流れる血液の感触を確かめ、その表情に戦慄が走る。
 よろよろと震える足で、ケスパイユは壁際へと後退した。
 そして、彼の肩を傷つけた張本人へと、その紅い瞳を向ける。
 視線の先には、いつの間にか部屋に侵入していた一人の男――。
 その男の方を忌々しげに睨みつけながら、ケスパイユはうめいた。
「貴様、よく、も……」
 地下空間に満ちるのは、火薬の匂い。
 鼻につくその独特の感覚が、ソニエの意識を完全に目覚めさせた。



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