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チェイリードの娘

31

 引き摺られるような動きで、それでも必死にソニエは首を動かした。
 この逃げ場のない地下空間の入口で、佇む新たな人影に目を向ける。
 そこは、目がおかしくなるほどに、異様な赤い色をした空間だった。
 けれどその色に負けないくらいの、赤い色。
 ソニエはその瞬間、呼吸することすら忘れて、瞳にうつる男をただ見た。
「……セ、ディック……」
 男は、ケスパイユに狙いを定めたままの体勢で、そこに立っていた。
 その手にあるのは、どこかで見覚えのある形状の小型武器。
 いつか彼の部屋で見た、火薬を用いる”銃”と呼ばれるものに違いなかった。
 その先端からは、ツンと鼻につく火薬の匂いとともに、薄く煙がたち昇っている。
 まっすぐに鋭い視線で、セディックはなおもケスパイユにその銃口を向け続けた。
 そしてその体勢のまま、ゆっくりと、こちらに歩いてくる。
 壁際に背をすりつけているケスパイユが激しくうろたえた。
「……なぜだ、なぜ、ここがわかった……。なぜ、おまえが……、コルティヴィエはなにをやっている……」
「…………」
 男の言葉を無視し、セディックは更に歩みを進める。
「待て。おまえの目的は、ソニエだろう。わかっているぞ。私と同じはずだ。一人で独占しようとした私に、制裁でも与える気か」
「…………」
「馬鹿なことはよせ。そこまで望むなら、分け与えようではないか。ソニエの血はおまえと私二人のものだ。ともに四肢を裂き、チェイリードの血を分け合おうではないか……!」
 セディックは立ち止まる。
「――消えうせろ。この世から」
 銃口の向く先は固定されたままで、恐ろしく低い声が響いた。
 瞳孔の開いた薄青い双眸は、別の種類の狂気に支配されているようにも見える。
 しかし、引き金にかけられた指に力が入り、銃口から弾が飛び出す寸前。 
 ケスパイユの口元に不敵な笑みが浮かび、素早い動きでなにか聞きなれない言葉を呟いた。
 その瞬間、セディックの顔が不自然に引きつって硬直した。
 不可解な力によって動きを失い、苦痛を訴えるうめき声さえ封じられている。
「…………っ!」
 その一瞬を見計らったように、アリュースの近くに立っていた少女が、背後からセディックに飛びかかる。
 銃がセディックの手を離れて遠くまで吹き飛び、彼は勢いよく床に突っ伏した。
 ケスパイユはその隙に、床を這うようにして移動し、ソニエの横たわる祭壇に手をかけた。
 這い上がるような動きで腕を伸ばし、彼女の体を自分のほうへ引き寄せる。
 その肢体をがっちりと捕らえ、そして狂ったように笑いだした。
「は、はははっ、まさか、まさかな……! これは傑作だぞ。ロドニックの息子よ!」
 隠し持っていたもう一つのナイフを素早くソニエの喉下に当てて、男が甲高い笑いをあげる。
「とんだ見当違いだったようだ。私はおまえを買いかぶりすぎていた!」
 自らの喉を押さえ、音にならない苦しげなうめきをもらしながら、セディックは片腕を突いて上体を起こす。
 苛烈な目でケスパイユを睨みつけた。
 薄皮を裂かれたソニエの首には一筋の細い線が走り、そこからじわりと血液が滲み出している。 
 その同じ場所にナイフを突きつけて、ケスパイユは叫んだ。
 紅くぎらつく瞳が嘲笑に躍る。
「どうだ、これでおまえは手が出せないのだろう。そういうことなのだろう。……想像もしなかったぞ。――おまえが父親を殺した理由、てっきり富を独占するための凶行かと思っていた!」
「…………!」
 その瞬間、セディックがカッと目を見開く。
「知られていないとでも思ったのか。ロドニック=ファルデローの死因……。心臓発作で片付けられたようだが、私にはちゃんとわかっていた。あの男はよりにもよって己の養い子に殺されたのだ」
 ケスパイユにナイフを押し当てられたまま、ソニエは震撼していた。
 ――――殺した?
 ――――セディックが、父親を……?
 苦しみの中にあってもなお、凄まじく相手を睨みつけている男から目が逸らせない。
 その姿を何度も目に焼き付けながら、ソニエはケスパイユの言葉を脳内で反芻していた。
 そして、何度も衝撃に震えた。
 ――――そんな、まさか……。
 しかしセディックの目はそれに異を唱えることはなく、ただ激しくケスパイユを睨みつけるだけ。
 その状況から、ソニエは恐ろしい事実を認めざるをえなかった。
「ロドニックは実に愚かな男だった。欲にまみれ、それゆえに決して自分以外の人間を信じず、己の薄汚い出生も忘れて、本気でチェイリードの力を手に入れられると思い込んでおった」
 喉下にあたる刃の恐怖すら、今のソニエの意識には上がらない。
 驚愕の事実に心を奪われて、他の全てが感覚から締め出されていた。
「あやつは身の程知らずにも、この私を退け、チェイリードの遺産と力を、一人でモノにしようと企みおったのだ。なんの力ももたぬくせに、呪術師の力に魅せられおって」
 含み笑いを交えながら、ケスパイユは続ける。
「だが、始末しようと考えた矢先に奴は死んだ。都合よく、何者かに毒を盛られてな……」
 言いながら、抑え切れずおかしそうに笑う。
「愚かだな。親子揃ってとんだ喜劇を見せ付けてくれる。しかし、息子の方はいっそう傑作だ。利を貪るためなら手段を選ばないおまえが、まさかそんな愚行に走るとは……。さすがに今この瞬間に至るまで考えもしなかった……!」
 なおも湧き上がる暗い笑いが抑えられないように、ケスパイユの体は小刻みに揺れた。
 その振動がソニエの体にも直接伝わる。
 男は喉を鳴らし、憑かれたように笑い続けた。
 ソニエはただ、目の前にうずくまる赤い髪の男から目を逸らせない。 
 ケスパイユを激しく睨みつけていたセディックの瞳がしだいに力を失ってゆき、落ちてくる瞼が青い光を覆い隠そうとする。
 見えない力に抗い続けた男の体から、完全に力が抜け落ちるより早く――。
 この状況を打ち破る者があった。
「…………!」
 宙を裂くように、ヒュっと何かが飛ぶ。
 ソニエの脇を光線のように通り過ぎ、背後の男へ向かって直線的に、それは飛んだ。
「……くっ!」
 短刀がケスパイユの左肩をかすり、背後の土壁に突き刺さった。
 ビュッと赤い血が飛ぶ。
 その衝撃で、ソニエの体を拘束していた腕が外れる。
 顔色を変えながら、ケスパイユは緩慢な動きでその攻撃の出所に首を動かした。
 さきほど、ケスパイユの持っていた短刀が飛んで転がった場所。
 その位置まで、ひそかにアリュースが移動していたのだ。
 目隠しの布をずり上げ、腕を拘束する縄を断ち切った青年が、刃を投げつけた体勢のまま膝をついている。
「……おまえ……」 
 痺れ薬の効能が、まだ体内に残っているのだろう。
 アリュースの顔は青白く、呼吸も苦しげだ。動きもどこかぎこちない。
 まさに渾身の力を振り絞っての攻撃だった。
「逃げろ、ソニエ……!」
 彼は叫ぶ。
 しかし急所を外した攻撃は、ケスパイユの動きを完全に封じることができなかった。
 両肩から血を流しながらも、男はソニエの体を再び拘束する。
 セディックの側にいたカレンが、再びアリュースのもとへ近づき、彼の腕をねじり上げた。
「ぐっ……」
「アリュース!」
 ソニエの声も空しく、アリュースに抵抗できる力はない。
 ケスパイユによって片腕で横抱きにされ、ソニエは祭壇から引き摺り下ろされる。
 その瞬間。
 石の角に足をこすった痛みに、顔をしかめ、そして同時に驚いた。
 ――――感覚、が……。
 とっさに視線を走らせたソニエは、ちょうど目の前の壁に突き刺さっている短刀に目をとめる。
 アリュースが投げつけたその短刀に手を伸ばし、素早く抜き取った。
 ケスパイユの背後での出来事。
 アリュースに目を向けたままの彼は、少しも気づかない。
「――殺せ」
 くつくつと笑いながら、カレンに命じるケスパイユ。
 カレンに強く腕を締め上げられながら、アリュースは叫ぶ。
「逃げろ! その男から離れるんだ! ソニエ!」
 その声に、ケスパイユは更に笑いを深める。
「無駄だよ、アリュース。薬の効き目はきみが身にしみてわかっているだろう……? 三日三晩はまともに動け…な…、――っ!?」
 ソニエは手にした短刀を、無我夢中で突き刺していた。
 己を抱えて立つ男の背後から、その大腿部に思い切り……!
 肉と骨にのめりこむ、おぞましい感触が彼女の手に伝わり、生理的な涙が溢れる。
 それでも夢中で体をばたつかせ、ガクンと膝をついた男の腕から逃れ出た。
「……ぐ…うっ…」
 ケスパイユは痛みにあえぎながら、ついにその場に突っ伏した。
 ソニエの足首を捕らえようと、執念で手を伸ばすが、紙一枚の差でそれを逃す。
 男の目に浮かんでいた赤い光が勢いを失ってゆく。
 その瞬間、彼の意のままに動いていたカレンの体が力を失って崩れ落ちた。
 ソニエは這うようにして、少しでもケスパイユから離れようと足を動かした。
「馬鹿……な……。薬の、効能が、そんなに早く、切れるわけが……」
 もはやその場から動けない満身創痍の男がうめく。
 振り乱れた髪の隙間から、それでもぎらつきを失わない瞳で疑問をぶつけた。
 それに答えたのは、セディックだった。
 彼もまた、見えない力から解放され、体を起こしかけている。
 浅く上ずった呼吸を交えながら話した。
「そいつの食事には毎回、毒消しの霊薬が混ぜられていたんだ。毎日、毎食、少しずつだ。……どういうことかわかるだろう。毒薬の収集家なら」
 これにはソニエも驚き、セディックを見る。
 彼は膝をついてなんとか立ち上がろうとしていた。
 その瞬間……、ほんの一瞬の隙に、絶望的な表情で突っ伏していたケスパイユの瞳が怪しく動く。
 その刹那の動きに誰も気付くことができなかった。
 カレンから解放されたアリュースが、おぼつかない足取りでソニエのもとにやってくる。
 懐から取り出した己の護身用ナイフで、彼女の腕に絡まる鎖の連結部分を器用に断ち切った。
 アリュースに支えられて、ソニエは上半身を持ち上げる。
「ソニエ、よかった……」
 彼女の体を腕に抱きとめて、彼は安堵したように声をもらす。
 顔にはりついた長い髪を払われて、間近にアリュースの顔を見たとき、救われたように心の恐怖が遠のくのを感じた。
 一方、ようやく立ち上がったセディックは、懐から何かを取り出してケスパイユのもとに投げ捨てる。
 ジャラリと音を立てて床に落ちる、金色の物体。
 その物体を目にしたケスパイユの目の色が変わった。
 震える手でそれに左手を伸ばし、驚愕とも感嘆とも言える声をもらす。
「おお、まさか、どうして、これが……」
「コーネル谷の地下施設で回収した。それが貴様が長年探し続けていた、もう一つの”チェイリードの遺産”だろう」
「……まさしく、これこそ、まさしく……」
 それは、金に輝く丸いメダルのように見えた。
 同じ純金の鎖がぶら下がるその分厚いメダルには、王家を現す唯一の紋章が刻まれている。
「第二王家の、証……! かつて、第八代国王フェルモートが、チェイリードの当主に与えた伝説の、一族の至宝……。これさえあれば再び王家に介入できる。これこそが……!」
 崇めるような手つきでそのメダルを手にしたケスパイユは、うっとりとそれを撫でる。
 しかしすぐに顔色を変える。
 解せない、という表情でセディックを見上げた。
「……なぜだ。いかにして貴様はこれを手に入れた。コーネル谷の洞窟は猛毒の瘴気に満ちている。人が入れる場所ではないはず……」
 セディックは冷たい目で男を見すえながら、ゆっくりと近付いた。
「しょせんは、人間の作り出したもの。古い祭壇施設を封印するため、かつてチェイリードの人間が設計して生み出したトラップだ。猛毒の花と草を栽培し、雨水と湿気で瘴気が充満する仕掛けになっている。屋敷の地下書庫から、その単純極まりない設計図が見つかった」
 冷淡に語るセディックの言葉に、ケスパイユの表情から力が抜け落ちてゆく。
「発掘を生業にしながら、随分と手落ちだったな。地質の原理から考えれば、あのような不自然な地形はありえないとすぐに気付く」
「……そういうこと、だったのか……」
 がっしりとメダルを握り締める男のもとへ、セディックは更に距離を詰める。
 コートの中に忍ばせていたナイフを取り出し、一際冷酷な目でケスパイユを見た。
 畳まれていた刃を立て、うつ伏せの男のもとへ一歩ずつ近付いてゆく。
「貴様が死ねば、すべて、終わる」
 低い声で喉を震わせながら、セディックの目に虚ろな闇が浮かぶ。
 妄執にも似た暗い影が、彼を支配しているようであった。
 その男の動きを止めたのは、震えるソニエの声だ。
「――やめて、セディック……」
 その声に、セディックは一度立ち止まった。
 瞳は変わらずケスパイユに向いたままだが、ナイフを握った手が緩く震えた。
「お願い、やめて……」
 全てが明らかになった今、頭で現実を理解しながらも感情は到底追いついていけない。
 けれど、それでもこの瞬間、ソニエの心の中の叫びは一つだけだった。
 ただ耐えられなかったのだ。
 ―――セディックが。
 これ以上彼女のために手を汚すのは……。
「……セディック……」
 涙混じりに訴える声が、激しく震えていた。
 セディックの横顔が強張り、ほんの一瞬、瞳から冷酷な光が削げ落ちる。
 しかしその一瞬のためらいの隙を、邪悪な気配は逃さなかった。
 ソニエによるその呼びかけが、結果的に悲劇を招くことになった。
 倒れ伏したケスパイユが、メダルに気を取られるふりをしながら、空いた右腕でひそかに手繰り寄せていたものがあったのだ。
 ソニエが突き刺した短刀。  いつのまにかそれを引き抜き、彼はセディックに再度牙をむく。
「…………!」
 その腕を、とっさにセディックが蹴り飛ばした。
「……ぐあっ」
 床に引き倒されたケスパイユのうめき声とともに、血に濡れた短刀は遠くへ飛んだ。
 既に血まみれの男の腕を素早く締め上げて、その体の上から、セディックが忌々しげに言い放つ。
「死ぬ前に話せ。組織の残りのメンバーの名を。貴様が殺した奴らのほかに、あと六人いるだろう」
「ファルデローよ……、よく考えろ。もう一度冷静になるのだ。一時の気の迷いで目の前の膨大な利益を逃す気か。チェイリードの遺産、チェイリードの血、おまえの想像を絶するほどの富をもたらすのだぞ……」
「――話す気がないなら、これまでだ」
 セディックの顔が歪み、ケスパイユを拘束する力が一際強くなる。
 片方の手でナイフを振りかざした。
「…………っ」
 鋭く光る刃が、狙いを定めて振り下ろされる。
 ソニエが必死に何かを叫ぼうとした、その瞬間の出来事だった。

「…………!」 

 地下空間が凍りついた。
 訪れたのは、誰も予期しなかった悲劇。 
 凄まじく響いた、爆音――。
 男の狂い果てた妄念とともに、思わぬ方向から、弾丸がセディックの胸を貫いた。



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