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チェイリードの娘

32

 その夜二度目に聞いた、鼓膜を揺さぶる大音響。
 世界が色を失った、その瞬間。
 ソニエの中の時間は、一秒一秒が本来の数十倍の長さをもって刻まれた。
 幾枚もの止め絵を見ているように、一瞬の光景がひどく長い時間をかけて繰り広げられた。
 男の体が弾かれるように揺れて、ほんのわずかに浮きあがる。
 ゆっくりと、ソニエの目の前で赤い色が舞った。
 赤い髪と同じ色をした別の何かが、空中に鮮やかに飛びはねる。
 重力に逆らえず、セディックの体は後ろ向きに、叩きつけられるように沈んだ。


 時間が正常に動き出したとき、一刻前の銃声にも勝る悲鳴が、空間に響き渡った。

 喉の管が引き千切れるような、痛みとともに―――。

 我を忘れて、ソニエは叫ぶ。
 もつれる足で何度もつまづきながら、倒れた男のもとに這い進んだ。
 閉じられた瞳。
 急速に色を失いゆく顔。
 胸からドクドクと溢れ続けるおびただしい鮮血……。
 それは男の唇からも溢れた。
「……いや、こんな……」
 ソニエはセディックの体を抱え起こし、その頭をかき抱いた。
「……セディック!」
 流れ出す血は止まらず、彼女の純白のドレスがみるみる同じ色に染まりゆく。
 繰り返される悲鳴のように、ソニエは何度も彼の名前を呼んだ。
 瞳から溢れ出した透明の液体が、絶えず男の顔の上に滴り落ちる。
 セディックの目が力なくうっすらと開き、ソニエを見た。
 寂しい青をたたえた両の目が、彼女の顔をとらえて薄く笑う。
「……最初で最後の、慈善事業だな……。性に合わないことをして、計算が狂った……」
「……セ、ディック……」
 かつてない感情の激流がソニエの全身に押し寄せた。
 突かれるように胸に込み上げてくるのは、嵐のように激しい想い。
 何度も首を横に振りながら、ソニエはセディックを抱く腕に力を込めた。
「嫌よ、セディック……、セディック……!」
 彼女の悲鳴を嘲笑うかのような、くぐもった笑いが聞こえた。
 セディックから解放されたケスパイユが、横向きに倒れたままの体勢で醜く顔を歪ませている。
 セディックを撃ったのは彼ではない。
 ケスパイユを除くその場の誰もが、既に意識から除外していた存在。それが死角ともいうべき位置にあった。
 ハチミツ色の髪をした少女が、瞳にかすかな赤い光を滲ませて立っていた。
 自分でも何をしたのかわからずに、呆然とした表情で。
 その手には、床に転がっていたはずのセディックの銃を握り締めたまま――。
 発射の名残で煙を吹いている銃口。
 やがて少女の瞳から光は消えて、力を失った体が床の上に崩れ落ちた。
 今度こそ完全にケスパイユの支配から解放された状態で……。
 ケスパイユはくつくつと笑いながら、セディックに言葉を投げかける。
「……まったく、おまえはどこまでも厄介な存在だった。私の計画を悉く妨害し、結局全てを台無しにしてくれたわけだ……。てっきり、同じ獲物を狙う競争相手かと思っていたが……」
 歪んだ嘲笑を浮かべ、痙攣したように体をピクピクと震わせている。
「屋敷に、よりにもよってトゥザルク山の呪術師を住まわせおって……、あれはとんだ妨害工作だった。あの老婆、耄碌(もうろく)していても、力だけは凄まじかったからな……」
 もはや攻撃手段を失った男は、それでも狂気の片鱗を失わなかった。
 チェイリードへの、ソニエへの妄執が、今やセディックへの恨みつらみとなって執念深く絡みつく。
「ファルデロー、愚かな男よ……。私にはわかるぞ。おまえは、父親殺しの罪に、今も苦しめられている。いかに汚いことに手を染めてきた男とはいえ、親殺しはさすがに平常心ではこなせまい」
「…………」
「……そうだろう? それもこれも、そこにいるソニエのせいではないか。ソニエがおまえの前に現われたことで、おまえの人生は狂わされたのだろう」
 相手の心の闇に語りかけるように、不穏な声音で囁く。
「――心の底で、ソニエを恨んだはずだ……。憎んだはずだ……」
「…………」
 しかしセディックの目は既に静けさをたたえ、どのような言葉にも動じる様子がなかった。
 それはただソニエにだけ向けられる。
 言葉は無く、それでも溢れるほどに流れ込んでくるものが彼女を満たしてゆく。
 張り裂けそうな胸の痛みとともに、ソニエはようやく見つけたその感情の名に震えた。



 ケスパイユの手が、壁際に敷き詰めてあった織物の裾を勢いよく引っ張った。
 その布の上に並べられていた無数の蝋燭とガラス瓶が、盛大な音をたてて地面に転げ落ちる。 
 アリュースが慌ててその手を押さえ込んだ時には既に遅く、至る所で蝋燭の火は床板に燃え移り、ガラス瓶から毀れた液体が、不自然な色の炎を立ち上らせた。
 同時に漂う、異臭。
 鼻を刺激する危険な臭いに、アリュースは口元を布で覆った。
「……毒、か」
 可能な限り消火を試みるも、薬の力で燃え広がるその勢いには手の施しようがなかった。
 少しずつ異臭の煙に包まれてゆくだだっ広い空間に、ケスパイユの場違いな笑い声がとどろく。
 飛び散る火の粉からかばうように、ソニエはセディックを抱き続けた。
 その腕の中で、男は浅い呼吸の隙間から声を出す。
「……行け。……すぐに、ここを、離れろ」
 ソニエは激しく首を振り、彼の上体ごと強く抱きしめる。
「行くんだ。……全てをかけた計画を、こんなことでぶち壊すな……」
 力のない声がソニエの腕の中で、これまでにない穏やかな響きを漏らした。
 それでも動こうとしない彼女のもとに、焦りの色を滲ませたアリュースが歩み寄る。
 薬の効力が抜け切らない彼の足はまだふらついていた。
「――ファルデロー……」
 アリュースは神妙な顔でセディックを見つめ、それからソニエを見た。
「ソニエ、ここはまずい。一刻も早く、地上に出なければ……」
 それでも、固まった石のように動かないソニエ。
 薄く開いたセディックの目がかすかに動き、アリュースの方へと向けられた。
「――行け。引き摺ってでも、連れて行け……」
「…………」
 その声に、アリュースは息を飲む。
 やがて硬い表情で頷き、彼は強引にソニエの体を掬い上げた。
 有無を言わさぬ力で彼女を出口へと引っ張ってゆく。
 声にならない悲鳴をあげながら、ソニエは既に意識を手放したセディックのほうへ腕を伸ばす。
 ついにはアリュースの腕を引きちぎるように振りほどき、彼のもとへ駆け戻った。
「――ソニエ!!」
 悲壮なアリュースの叫び声を背中に浴びながら、ソニエは走った。  
 セディックの手から、彼が握り締めていたナイフをむしり取り、その剥き出しの刃を自分の唇に当てる。
 ぐっと力を込めて、その肉に切り込んだ。
「ソニエ! なにを……!」
 真っ赤な血が滴り落ちる唇を、既に冷たくなりかけた男のそれに重ねる。
 ドクドクと流れる血液が、セディックの喉へと流れ込んだ。
 ――――飲んで。
 ――――この血に、特別な力があるというのなら、どうか……。
 煙の向こうから、断末魔のような叫びが聞こえる。
「……よせ、よさんか! チェイリードの血を、そんな男に……!」
 恐るべき勢いで這い出してきた瀕死の男が、ソニエの側に転がったナイフに手を伸ばす。
 もはや人間とは思えぬ形相で、その刃についた血を舐めとった。
「……チェイリードの、血だ。これこそ、チェイリードの……!」
 ソニエはケスパイユには目を向けることなく、軽く喉をならしたきり動かない男の名を呼び続ける。
 ――――セディック……。
 ただ一心に、その名を呼んだ。


 脳裏に蘇る、記憶。
 ―――二年前。
 かすかに夏の名残が残った、初秋の昼下がり。
 ロドニック=ファルデローが初めて求婚に訪れた日。
 ぎりぎりまで面会を拒み、長らく部屋に篭っていたソニエは、なにげなく窓の外に目を向けた。
 眼下には、見慣れない男の姿があった。
 馬の手綱をもって立ち、周囲の景色に探るような目を向けている。
 結婚相手となる初老の男は、既に屋敷の中にいるはず。
 それならば、あそこにいる彼はいったい誰なのか……。
 風に揺れる赤い髪。
 血のように、激しく鮮やかな、赤い色……。
 それはなんだか、とても恐ろしくて――。
 ちょうどその時、彼女の視線が伝わったかのように、男が真っ直ぐにこちらを見上げた。
 ―――薄青く、鋭い目線。
 容赦なく突き刺すかのように、ソニエへと向けられた。
 ソニエは恐ろしくて、ただ恐ろしくて……、とっさにカーテンの陰に身を隠したのだ。


 ひたすらに恐怖だけを感じた日。
 それでも記憶の中に鮮明に生き続けた光景。
 いつしか頭を離れなくなっていた、あの、――”一瞬”の衝撃……。
 正体もわからずに抱え続けた感情が今、はっきりと形を成してゆく。
 それは熱く切なく、ソニエの中で弾けて広がった。
「お願い。いかないで……」
 軽くうめきながら、男の指がぴくりと動く。
 青白いままの顔は痙攣するように何度か動き、しかし瞳は開かなかった。


「ぐ、…っ…あ………」
 ソニエの背後で、ケスパイユが激しく吐血した。
 喉をかきむしるように、激しい苦痛にのたうちまわる。
「な…ぜ…、チェイリードの血は、……私に、力を、与えるはず……」
 一気に色が抜け落ち、完全な白に染まりゆく髪。
 生気が剥がれ落ち、風船が萎むように皺にまみれていく肌。
 急速に命を失い行く老人に背を向けたまま、ソニエは静かに言った。
「――チェイリードの血は、闇の盟主が与えし紅の美酒。命蝕む毒となり、命育む薬となる……」
 それは以前、他ならぬケスパイユが彼女に教えた”秘密”だった。
「……呪術とは本来、人の強すぎる思念が力を得たもの。それなら呪術師の血がもつ”力”というものは、何よりその人間の”想い”に正しく応えるはず――」
 ただ強い想いをこめて、動かない男の体を抱き続ける。
「……そうでしょう? おじ様……」
 ソニエは瞳を閉じた。
 凄まじい勢いで空間を侵してゆく、凶暴な炎と立ち上がる異色の煙。
 息ができないほどの熱風。
 そして意識を朦朧とさせる、毒の混じった空気――――。
 やがて彼女は鈍った聴覚の中で、地下通路をこちらへかけてくるいくつかの靴音を聞いた。



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