チェイリードの娘
33
「――てっ、いてててっ」
火傷を負った傷口に薬を塗りながら、引きつるような痛みにアランドは顔をしかめた。
すでに治り始めているとはいえ、乾ききらずに疼く傷は辛い。
「まったく、えらい目にあいましたよねぇ」
涙目で口を尖らせながら、窓際で渋い顔をしている上司に話しかける。
「……でもこの薬、ソニエさんが調合して下さった塗り薬、よく効きますよ。あの子薬屋でもやって十分生きていけるんじゃないかなぁ……なんて」
ぐるぐると器用に自分の腕に包帯を巻きつけながら、相変わらずの軽口をたたく。
外に目を向けていたロイトナーは、焦げて短くなってしまった顎鬚(あごひげ)に物足りなさそうな顔をしつつ、ジロリと部下の男を見やった。
「おまえ、報告書はできたのか? 今日中に提出するよう本庁から催促が来てたろう?」
「……え……、はは、そうでしたね……」
頭をポリポリ掻きながら、アランドの笑顔にじわりと汗が浮かぶ。
机の上に定型用紙を広げ、はぁと一つ溜息をつき、彼はペンを手にとった。
そして一連の事件を改めて思い返す。
あの日、突然の長官命令を受けた彼らは、いっさい事情がつかめないままケスパイユ候の屋敷へと遣わされた。
いや、事情がつかめていなかったのは、ひょっとしたら自分だけなのかもしれないが……。
そう考えながら、アランドはちらりと窓際の上司に目を向ける。
たどり着いた屋敷に押し入り、隠された地下室へ彼らは足を踏み入れた。
司法庁アラトリム支部の捜査官、中でも長官の信頼厚い特別な面々のみが屋敷に駆けつけた。
そして地下室の存在に気付いて足を踏み入れたのは、アランドとロイトナーを含むたったの五人。
屋敷の外で待機していた者を除くと、あとの官員は広い屋敷内をくまなく捜索するために一階部分と二階部分に別れて散っていた。
もうもうと異臭の煙が噴きだし、視界がくもる地下通路。
迫り来る熱風に立ち向かうように彼らは先へ進んだ。
たどり着いた先、広大な地下室で起こっている惨状に目を瞠りながら、彼らは犯人捕縛ではなく人命救助に走らねばならなかった。
その部屋には全部で五人いた。
一人は、その屋敷の主であるケスパイユ候と思われる人物。
すでに事切れ、目を見開いたまま異様な風体で屍と化していた。
おかしな黒尽くめの衣装をまとい、骨と皮だけの手にしかっかりと、金のメダルのようなものを握り締めながら……。
もう一人は、メイド姿の少女が意識を失った状態で倒れている。
こっちはまだ息があった。
捜査官の一人が彼女を抱き上げて出口へ走る。
そして、残りの三人。
入口からもっとも遠い場所で赤髪の男が倒れ、その体にしがみつくように離れようとしない女が一人。
少し離れたところから、なんともいえない表情でその光景を見つめる青年が一人。
横たわる男の左胸には、アランドも初めて目にする形の小さな傷口があり、あたりにひどい流血の跡があった。
そしてなお、わずかに出血は続いていた。
その傷の位置を見た瞬間、これは駄目だと思った。
不思議なことに男は一命を取りとめることになったらしいのだが……、その時は生存確率などゼロに等しいほどのひどい状況だった。
一刻を争う状況で連れ出せるのは、生きた人間、あるいは生きるであろう人間のみ。
男を抱きかかえて離さない女の肩を揺さぶり、強く説得を試みる。
それでも頑として動かない彼女を見かねて、後ろにいた黒髪の青年が動いた。
意識の無い男の肩を持ち上げながら、こちらに助けを求める。
よく見ると、その青年の方も随分と憔悴しきっているようで、どうにも足元がおぼつかない様子であった。
戸惑うアランドより一足早く、彼の上司が前に出た。
男のもう片方の肩を担ぎ上げ、二人で引き摺るように出口まで引っ張っていく。
通路の中ほどまで進むと、さきほどメイドの少女を連れて出て行った捜査官が戻ってきていた。
数人の応援を引き連れて、怪我人搬送用の担架を持ち込んでいる。
自分より上背のある男を運ぶのは相当困難だろうに、ロイトナーは黙々と彼を担架に乗せるまで力を貸した。
その背中を見ながら、アランドは惨劇の意味をようやく悟った。
――――この状況……。
首謀者はセディック=ファルデローなどではなかったのだ。
予期しなかった事実に困惑したまま、とりあえず悄然として壁にもたれかかる女のもとへ駆け寄り肩を貸す。
抱え上げたほうが早かったかもしれないが、彼女は自分の足で歩くことを望んだ。
涙と煙に汚れた顔は、ファルデロー邸で対面したときよりもずっと幼く、ひどく頼りない様子で、しかし妙に強い意志を感じさせた。
女の唇にはなぜかざっくりと切り傷があり、そこから既に固まりかけた出血の跡がある。
しかし瞳だけは強烈なほど気力を失っておらず、数人の男手によって運び出されていく瀕死の男から目を逸らすことはない。
状況は相当切迫していた。
壁に打ち付けられていた板が炎とともに倒れこんできたときに、彼女を庇ってアランドは右腕に軽い火傷を負ったのだ。
なんとか全員地上へ上がりきり、屋敷を脱出したあと、地下から飛び出した炎が屋敷全体を包み燃え上がる。
のどかな湖のほとりの静かな暗闇のなかにただ一点、その夜、真っ赤な炎が浮かび上がった。
惨劇は、その夜が明けた後もひどい痕跡を見せ付けた。
翌朝屋敷の焼け跡から、地下に埋もれたケスパイユ候とは別に、二人の死体が見つかった。
一階の倉庫部分にあったらしいそれらは、あまりに不自然な状態から、屋敷の炎上前に既に死んでいたものと思われる。
顔は判別の仕様が無かったが、身に付けていた勲章や家名を現す紋章の刺繍跡から身元が判明している。
数日前から行方不明とされていたアラトリム公議会の議員と、もう一人は王都を本拠地とする同じく貴族の男であると。
街では更に、四人の貴族の毒殺死体が見つかった。
昨夜のうちに毒を盛られていたのだ。
先日の二人、そしてマラドーム議長の時と同じく、『チェイリード』の文字を残して事切れていた。
各人の部屋から”グリモゲーテ”の紋章が刻まれた石も見つかっている。
そして、一連の殺人に使われた珍種の毒薬と、まったく同じものがケスパイユの屋敷から押収されていた。
隠し扉で仕切られた秘密の小部屋から、無数の毒薬と、呪術関係の禍々しい書物が発見されたのだ。
これまでの被害者も含め、殺された人間は皆、その死の前の夜に、何らかの形でケスパイユ候と接触していたこともあきらかになっており、一気に事件の謎は解明されたことになる。
連続殺人事件の犯人は、彼らが想像もしない人間だったわけだ。
ラドカ=サム=ケスパイユ。
国内随一の考古学者として名をはせる名門貴族の男が、全ての黒幕だと、”グリモゲーテ”の総帥であったと……、長官の命令を受けて踏み込むまでは想像さえしなかった。
アランドは、かつての上司の言葉を思い出し、苦笑する。
確かに、自分の勘は肝心な時には役立たないのかもしれない。
ソニエ=フラン=チェイリードはもちろんのこと、セディック=ファルデローも殺人事件には関わっていない。
ファルデローの不審な行動は全て、ケスパイユ候の尻尾を出させるための計略だったのだと、ロイトナーは結論付けた。
小賢しい――、とは、その時彼の口をついて出た言葉だ。
彼は実に面白くなさそうに言い捨てた。
「二人の男が書いた、二つの巧妙なシナリオ。しょせん俺たちはみんな、これに踊らされていただけなんだよ……」、と。
アランドはその夜のことを思い出しつつ、報告書にはそれと異なる内容を書き連ねていく。
そこに記されるのは、彼がその目で見た真実ではない。
チェイリードという一族の秘密や、”グリモゲーテ”という狂信集団の存在。
それらに関する話は一切、世間から伏せられることになった。
あの屋敷で見た光景や、信じがたい”呪術”というもの、全てはその場にいた人間の胸の中に封印されることになる。
本庁には、世間体と辻褄のみを考慮した報告書を送るということで、一連の事件は片付けられることになった。
混乱を避けるため、コルティヴィエ長官の判断で密かにそう決められたのだ。
彼はどうやら早くからセディック=ファルデローと情報を共有する関係にあり、ケスパイユ候の正体についても認識があったらしい。
表では旧知の仲である彼に従う演技を続けながら、水面下でファルデローの計画に力を貸していたのだ。
あの夜については、ファルデローが予定外の行動をとったことで、その動きを追うために急遽、捜査官がファルデロー邸へ送り込まれたのだった。
「――そういえば……、知ってましたか? ロイトナーさん」
ペンの動きを止めて、アランドは窓際で相変わらずむっつりしている上司に問い掛ける。
「ファルデロー家のあの屋敷、先月末日付けでセディック=ファルデローの所有を離れてます。それだけでなく、他に所有していた二つの屋敷も……」
「……ああ」
溜息交じりに返事を返しながら、ロイトナーは髭をいじっていた指の動きを止める。
「それにあの噂、本当なんですかね。ファルデローの全事業が、アラトリムから完全撤退って……。買収されたって話もありますけど……」
実際、ファルデロー家の有する事業所や施設、そして工場の数々は、事件後ことごとく看板が掛け変わっていった。
あのファルデロー家がアラトリムから消えるとなると、街の産業界も少しは静かになるだろう。
司法庁としては、大変好都合な話である。
贈賄、収賄、そして違法取引……、成功のために手段を選ばない、かの”成り上がり”一族には散々悩まされ続けたからだ。
しかし、それはあまりに都合の良すぎる話であった。
まるで最初から決まっていたことのように――。
「まさか……」
アランドはある可能性を予測して、そしてもう一度上司の方に目を向けた。
ロイトナーは指を止めたまま、どこか気だるそうな声で話す。
「そのくらいの条件を出さんと、さすがのファルデローも”あの”長官の助勢は得られんかったということだろう」
「……やっぱり」
――――そういうことか。
納得したように、アランドは目を伏せた。
コルティヴィエ長官にとって、”天敵”とまで囁かれていた、あのファルデロー家。
その当主の言い分を聞き入れ、まして計画に協力するなど、本来ならばありえないことだ。
だがそれと引き換えに、彼の念願とも言うべきファルデローの”追放”がかなうのであれば……。
「二つのシナリオ、か……」
アランドは少し複雑な思いでつぶやきながら、しばし考えにふける。
奪おうとした者と、守ろうとした者と。
勝利の女神は、結果だけ見ればさも当然のごとく、後者に味方したように見える。
しかし、それは決して流れに任せた必然ではなかった。
とてつもない信念と、捨て身の強い思いが、危ういところで勝利をもたらしただけのこと。
――――勝利……?
その表現には違和感を感じざるをえない。
「完成したほうのシナリオは、最初から自分自身も滅ぼすつもりで書かれたもの、なんですよね……」
口にしながらアランドは、じわりとやるせない思いが込み上げてくるのを感じていた。
「こういうこと言うのって変かもしれませんけど、なんだか寂しい話ですよ。すごく……」
「…………」
その言葉には答えず、ロイトナーは遠い目をして窓の外を見るだけだ。
表情からはいつものような気迫が感じられない。
どうやら長官に真実を打ち明けられていなかったことが相当こたえたようだが、意気消沈の原因は必ずしもそれだけではないだろう。
今回の事件は、とにかく色々な意味で彼らに衝撃を与えた。
真実が世間から隠されて葬られてしまったとしても、彼らにとっては永久に忘れられない惨事に違いない。アランドはそう思った――。
よく晴れた晩夏の午後。
司法庁舎の古い建物の窓から、雲ひとつない紺碧の空が広がっていた。
さらさらと乾いた風が入り込み、雑然とした室内を、ほんの一瞬涼やかな空気で満たしていく。
そのひやりとした風に、かすかに次の季節の匂いが混じり始めているのがわかる。
夏が終わろうとしていた。
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