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チェイリードの娘

34

 昼間に見る大公家の屋敷は、太陽の白い光に包まれて、夜とは違う晴朗な美しさをたたえていた。
 巨大な石のアーチをくぐり、両脇に鮮やかな色の花が整然と咲き誇る長い通路を進む。
 やがて正面玄関の、緩やかなカーブを描く階段の前に馬車は止まった。
 大公家の執事に出迎えられて、ソニエはその屋敷の中へ入っていく。
 かつて一度訪れた時に比べて、随分と静かなものだ。
 以前舞踏会が開催されていた大広間の前を通り過ぎ、中庭を突き抜ける回廊を歩いた。
 眩い日の光のもとで、庭の木々や花々がそれぞれに美しさを競い合うように輝いている。
 母屋の建物に入り、重厚な装飾の施された扉の前にたどり着くと、執事は軽くそのドアをたたく。
 中から凛とした老婦人の声が響いた。
 開かれた扉をくぐり、ソニエはゆっくりと部屋の中に足を踏みいれた。
 穏やかな光に満ちた、東向きの部屋。
 午後は直射日光が当たらないせいか、少しひんやりしていて肌にやさしい。
 振り向いた大公夫人は、ソニエに青い瞳を向ける。
 かつて冷たいと感じたその眼光が、今は記憶の中の誰かと重なって見えるような気がした。
 ほとんど表情を動かさず、毅然とした表情のまま、彼女はソニエに向き直った。
「お呼びだてして、申し訳なかったですね」
「いいえ」
 丁寧にお辞儀をし、顔をあげるとソニエは夫人の目をまっすぐに見つめた。
 その様子に、若干の苦笑を浮かべて、夫人は語る。
「随分と、度胸がおすわりになったみたいね。それともわたくしが敵ではないと判明したから、そんな風に強気でいられるのかしら?」
 ソニエは軽く目を伏せ、それから再度目を上げた。
「人の、真実というものは、相手の瞳を見もせずに掴めるものではありません。怯えて逃げるだけでは、大切なものを見失う。……それを、ようやく学ぶことができたのです」
「…………」
 ふっと、やはり冷たい印象を与える笑みを浮かべながら、夫人は彼女をソファーに促した。
 ノックとともにドアが開き、召使いが紅茶を運んでくる。
 立ち昇る芳しい茶葉の香り。
 その匂いを味わうようにして、カップに一口口をつけ、ゆったりと夫人は口を開いた。
「以前、わたくしはソユーブと縁があるとお話ししましたね?」
 頷くソニエを正面に見据えながら、彼女は話す。
「わたくしは、あなたのお婆様、――サラ=フラン=チェイリードと、十代の数年間、同じ女学校の宿舎でともに過ごしました。王都カルマンの女学校です」
 ソニエは軽く目を瞠った。
「わたくしたち、とても仲が良くてね。出身地こそ違えど、当時は髪型もおそろい、背格好も雰囲気もよく似ていたものだから、よく姉妹に間違われたりしたものです。特にわたくしにとっては彼女がはじめてできた友達で、何でも隠さず彼女に話していました。彼女もそう。お互い知らないことは無いというくらいに、二人はいつも一心同体だったのです」
 祖母が昔、王都の女学校へ寄宿生として在籍していたことは知っていた。
 しかし祖母の口からその頃の話を聞いたことは一度も無い。
 初めて詳しく聞く祖母の少女時代に、そして大公夫人との意外な関係に、ソニエは驚きが隠せなかった。
「わたくしは彼女の家柄について、当時詳しいことは知りませんでした。ただ、地方で独自の権力をもつ旧家なのだと、そのくらいの知識しか。ですから、彼女の背負う過酷な運命を知るよしもなかったのです」
 ――――過酷な運命。
 夫人はやや瞳を揺らしながら、続ける。
「女学校を卒業後、離れ離れになったわたくし達が再会したのは、お互いに四十を過ぎてから。既にこのエルブラン家に嫁いでいたわたくしは、久々に本音で語り合える旧友との再会を心待ちにしていました。しかし……」
 青い瞳に若干の陰りがさした。
「二十数年ぶりに再会したサラは、別人のように変わっていた。冷たい目と、常に相手を探るような目線。決して本音を語らず、ぴりぴりと、何かに警戒するような緊張感を終始漂わせていて。表面上は穏やかな笑みをたたえてはいたけれど、わたくしはすぐに感じました。もう、あの頃のサラではないのだと……」
 夫人はいったん言葉を切り、ソファーから立ち上がる。そして中庭が一望できる大きな出窓の前に立った。
 外から差し込む光で、その後姿の輪郭がぼんやりと光って見える。 
「それから随分後になって、わたくしは知りました。チェイリード家の”宝”と”血統”の秘密を。彼女はそれらを守るため、より神経質に、あえて人を疑い続けなければならなかったのだということを……」
 ソニエは祖母の晩年の、尋常でないくらいの人間嫌いな様子を思い返していた。
 ケスパイユ候だけでなく、他の多くの人を、彼女は屋敷から締め出し、ソニエを悲しませた。
 その祖母の真実を、今はじめて目の当たりにしている。
 夫人はソニエのほうへ向きなおった。
「サラが、なぜ、あなたに何も話さなかったか、あなたは疑問に感じているのではありませんか?」
 はっとして、ソニエは顔をあげる。
 薄く笑みを浮かべて、夫人は言った。
「彼女の真意が、わたくしには少しだけわかる気がいたします」
「…………」
 逆光を背に受けて立つ、夫人の白い面を見た。
 相変わらず表情の読み取りづらいその涼しい顔立ちと、決して隙を見せない冷たい目を。
 ますます誰かに似ているような気がして目が離せなかった。
 誰かに―――。
 そう、それは、夫人自身が既に語っている。
 短い少女時代に同じ時間を過ごした彼女の”友人”と、本質的な部分で似ているのだ。
 夫人はソニエの瞳を見つめながら語る。
「汚れというものを知ってしまった人間ほど、美しく純粋なものに強く惹かれ、あるいは羨望を抱くものです。……そう、サラがあなたをことさら愛し、慈しんだように。彼女は自分の失ったかけがえのないものを、孫娘の中に見出し、それを手放すことができなかったのでしょう」
 口元に浮かんだ笑みは、どことなく嘲笑に似ている。
 しかし若干呆れたような彼女の口ぶりは、捉え様によっては悲しげでもあり、ソニエは夫人の表面に現われることのない感情の動きを感じ取ろうとした。
「たしかにそれは、危険な賭けだったでしょう。冷静に考えれば、ひどく無謀な計画でありえたでしょう。……けれど、サラはどうしてもあなたに自分と同じような人生を歩ませたくなかった。あなたは生涯”汚れ”を知らず、ただソユーブという大地で静かに暮らし、やがて時と共に、危険な秘密が闇に埋もれてしまうことを……、そんな未来を彼女はひそかに期待したのかもしれません」
 現に、秘密を狙う危険な人物は何人も存在したけれど……、と夫人は付け加える。
 ”グリモゲーテ”の真の暗躍について、祖母は多くを知らなかったのだろう。
 危険因子をソユーブから追放し、それで十分だと思っていた。だからこそソニエに何も話さずにいたのだとすれば納得がいく。
 彼女は生前、周りの人間からはとても恐れられていたが、ソニエにだけはどこまでも甘かった。
 ソニエが美しい場所で温かい思い出を育み、心豊かに成長してゆく様をいつも眩しそうに見つめていた。
 そこにもし、孫娘に対する愛情とは別の何かが混じっていたのだとすれば……。
「――お婆様……」
 自分の知らない祖母の話を聞きながら、記憶の中の、常に厳しい顔をした老女の姿が浮かび上がる。そして、ソニエにだけ向けられた柔らかい微笑みも。 
 死の直前、ソニエに向かって伸ばされた震える白い手に、触れた感覚を覚えている。
 ――――『ソユーブを離れてはなりませんよ。けっして……』。
 最後までそう言い続けた祖母の、秘められた真意。
 失ったものへの悲しい憧憬――。
「チェイリードという家のため、随分と寂しい人生を送った彼女の、最後の愚かな我侭だったのかもしれないと……、わたくしは思っています」
 夫人は遠い目をして、語った。
 ソニエもまた、遠く、故郷の景色を思い浮かべる。
 遥かなる故郷、ソユーブという大地と、そこにかつて生きた女性の一生に思いをはせずにはいられなかった。



「――ときに、ソニエさん」
 夫人は再度ソファーに腰を下ろしながら、彼女に語りかける。
「あなた、これからどうなさるおつもりなのです。ソユーブへ戻られるのかしら。……セディックは、ソユーブの権利だけはあなたに残したのでしょう?」
「…………」
 ソニエは新たな胸の苦しみを思い出し、膝の上に視線を落とす。
 セディックは三日前に目を覚ました。
 左胸を貫通した傷はひどいもので、医師は最初、診るなり匙(さじ)を投げた。
 だが、なぜか延々と息があったのだ。
 それを不思議がりながら、終始不審そうな顔をしたまま、その医師は致命傷であるはずの傷口に治療を施した。
 丸二日間昏睡状態が続き、ソニエはずっと彼のそばについていた。
 死んだように安らかな寝顔に不安をおぼえ、つい何度も脈拍を確かめながら。
 しかしようやく目覚めたセディックは、何かを考え込むように押し黙り、ソニエを部屋から遠ざけてしまった。
 ほとんど口も利かずに、自室に篭ってこの三日間を過ごしているらしい。
 メグの話によると順調に回復はしているようだが、ソニエはほとんどまともに彼と顔を合わせておらず、言葉も交わしていない。
 レオンの話では、アラトリムに所有するファルデローの三つの屋敷は全て売却され、既に実質的な所有権はどこかの商人に移っているのだという。
 ファルデロー家はその膨大な事業とともに、財産とよべるものをほぼ失っていたのだ。
 なんのためにそんな出費を強いられたのか……。
 それについて執事の男は口を割ろうとはしなかったが、あえて聞くまでも無いことのように思えた。
 ただ、レオンを通じて渡された二つの書類。
 司法庁長官の職印がくっきり押された離婚許可書と、ソユーブの権利証書――。
 放心したようにその紙の束を手にしながら、やがて切ない胸の痛みが込み上げて、ソニエはしばらく部屋にこもって泣いたのだった。



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