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チェイリードの娘

35

 セディックのことを考えて虚ろな目をしていたソニエに、大公夫人は信じられない言葉を投げかけた。
「――同情ならばおよしなさい。あの男はそんなもの、少しも喜びはしないでしょう」
 ソニエは弾かれたように顔をあげて夫人を見る。
 しかし言葉を挟むより早く、夫人は淡々と語り続けた。
「例の父親に関する一件ならば、今更彼が捕縛されることはありません。事件の真相を伏せると決めた以上、司法庁は、残念ながら彼を捕らえたくても捕らえられないはずです。……それに、現在の国法の定めから考えても、それはあまりに難しい」
「同情など! ……そんな、そのような感情ではありません」
 せいたようなソニエの反応にも、夫人はごく冷静に対処する。
「そうですか。しかしあの男は、あなたが恋人とともにソユーブへ帰ることを第一に望んでいるはず。それがあの男の考案した、自分で完璧と思い込んでいるらしい計画の顛末なのですから」
「…………」
 ソニエはまた、胸を締め付けられる感覚を味わった。
 苦しくてたまらないのだ。
 手を胸にあて、その込み上げてくる感情の渦に耐える。
 それが何であるかを既に悟りながら、口に出す勇気を出せずにいる。
「……不器用な男です」
 そんなソニエを視線の先にとらえながら、夫人は少し呆れたような口調で語った。
「ただ真っ直ぐに、澱みの無い恋心を、自覚すらできずに持て余した。戸惑いと葛藤に翻弄されながら。けれど最初の瞬間から全て動き出していた。何もかも、逃れようが無かったのでしょうね……」
 乾ききった口調とは裏腹に、若干目を細め、彼女にしては穏やかといえる表情を浮かべている。
「初めてあの子を、セディックを見たのは、まだほんの十歳の少年時代でした。主人のお抱えの靴職人がこの屋敷に仕立てに訪れたとき、その助手として、赤毛の子供が付き添っていたのです」
 ソニエは思いがけない夫人の話に目をしばたかせていた。
 夫人は何かを思い出しながら、おかしそうに笑う。
「可愛げのない子供でね。子供でありながら子供らしからぬ、無駄に利発で、瞳の奥に野望を秘めた油断のならない少年でした」
「…………」
 あのセディックの子供時代など、ソニエにはとても想像できない。
 ただ食い入るように、夫人の話に聞き入っていた。
「周りの大人を心の奥では蔑みながら、それを隠して要領よく立ち回る。それがわかる者にとっては、可愛げのないことこのうえない……」
 口を歪めて多少苦々しい笑みを浮かべながら、されど不快感は感じられない口調。
 彼女は実に面白そうに続きを語った。
「けれど、あの子は自分でわかっていた。決して過信ではなく、ごく冷静に、早くから己の能力というものを知っている子供でした」
 記憶を辿っているであろう夫人をじっと見つめ、ソニエもその”少年”の姿を頭に思い描こうとする。
 しかしそれは非常に困難なことだった。
 どうやっても現在の二十七歳のセディックの顔ばかりが頭に浮かんで離れないのだ。
「彼は、己の野望へと確実に近づいてゆきました。小賢しい計画でもってロドニック=ファルデローに近づき、才覚を認められて、十六歳にしてまんまと養子の座を手に入れたのです」
「……手に、入れた……」
 思わず目を丸くして声を漏らした。
 十六歳。
 奇しくも同じ年齢でソニエは流されるように知らない人間のもとへ嫁ぎ、セディックは自らの計画的な立身のために養子という地位を得ていた。
 ソニエは今になって初めて、自分とは全く異なる環境で生きてきた人間のことを思う。
 彼は己の才覚を発揮する場を探し求め、自力でそれを掴み取った……、あるいは奪い取ったのだ。
 ――――『金のためならどんな汚いことでもする』。
 セディックの言葉は確かに真実だったのだろう。
 けれど、その彼の計画的な人生を、決定的に狂わせたものがあったのだ――。
 重く沈むソニエの表情に、夫人は意味ありげに笑いかけた。
「あの男はいつも、自分の計画は完璧だと信じきっている。完璧でなければ許せないのです。……それでも、究極のところで情に弱く、自分でもその致命的な弱点に気付いていない」
 クスクスとあまり表情には表さない笑みを漏らす。
 青い顔をしたままのソニエを見つめながら。
「彼がファルデロー家に入ったとは噂で聞いていたものの、随分と長い年月、わたくしは彼と顔を合わす機会はありませんでした」
 夫人は軽く瞳を閉じ、彼女の中の記憶を忠実に辿るかのように、しばらく間を置いてから話した。
「……それが、そう、ちょうど二年前の秋。思いつめた表情で、彼は突然この屋敷を訪れました。わたくしに助力を求めにやってきたのです」
 ――――二年前。
 今度はソニエが瞳を閉じた。
 記憶の中の光景に重なるように、夫人の声が響く。
「それは、彼自身が独白した……、父親を手にかけてしまったという罪の尻拭いを求めるものではなかった。チェイリードに関する情報をもつわたくしに、セディックは一つのことを願い出たのです。……そう、”あるもの”を守るために、知恵と、強力な後ろ盾がほしいのだと」
 夫人はソニエを見て、問いかける。
「おわかりね? ソニエさん」
「…………」
 ゆっくりと開いたソニエの鳶色の瞳から、透明な雫が頬を伝った。
「あの男は愚かにも、己の全てを失っても、それを成し遂げようと既に決意していました。他ならぬあなたに……、たとえ憎悪の眼差しを向けられることになろうとも……」
 失笑にも似た笑いを、夫人は漏らす。
「愚かにもほどがあるでしょう。いったいなにをとち狂ったのかと、わたくしは彼を嘲笑いました。散々手を汚してきた男が、今になってなにを酔狂なことを始める気なのかと……。――けれど……」
 笑いを止め、その顔に、ふと静けさが舞い戻る。
「けれど、セディックの目は恐ろしいほど真剣で、切羽詰っていた。尋常でないほどの緊張と、底知れない激情をたたえながら、彼はわたくしに、なりふり構わず懇願してきたのです」
「…………」
「――覚えていらっしゃる? あの、舞踏会の夜のことを」
 唐突に、彼女はソニエに尋ねた。
「あのとき、わたくしはセディックとちょっとした”賭け”をね……」
 それはもう、随分と遠い日のことのように思えた。
 様々なことが始まった、あの舞踏会の夜。
 その夜のことを思い浮かべてなんともいえない気分を味わい、それからソニエは微かに首を傾ける。
「……賭け……?」
「あなたが聞くには気分のいい話ではないでしょうけれど……、”計画”の進め方について、ちょっとした意見の食い違いがありましてね」
 ――――計画。
「あの狡猾すぎるケスパイユ候に尻尾を出させるには、やはり最終的にはあなたを”囮(おとり)”とするしかありませんでした。それ以外に方法は見当たらなかった。けれど……、セディックは猛烈に反対し、しつこくそれを阻止しようとしていたのです」
「…………」
「それで、賭けを持ちかけたのです。わたくしが用意したパーティー用のドレスを、ソニエさんが着用して来たならば、意見を聞きいれましょうと……。衆目の中、あの派手なドレスを着て、派手な夫と並んで歩くほど肝の据わった女性なら、あるいは真実を全て話してともに戦わせようとも……」
 言葉を失ったまま、ソニエは瞬きを繰り返す。
 その当時は想像さえしなかった、彼女が認識していた世界の裏側での話。
 それが今、夫人の口から克明に語られている。
「けれど、結果はあなたの知る通り。わたくしにとっては予定通りでしたが、少し意地悪な方法だったかもしれません。わたくしはどちらにしても、あなたを囮にするのが、危険ではあっても最も確実な解決方法だと思っていましたし……」
 ――――あの、真紅の豪奢すぎるドレス。
 あれはてっきり、趣味の悪いセディックが用意したものだとばかり思っていた。
 当然のように、ソニエはそれに袖を通してみようとさえしなかった。
 確かに賭けは最初から夫人の勝ちだっただろう……。
 苦笑とも、嘲笑ともとれる笑みを浮かべたまま、大公夫人は軽く息を吐く。 
「本当に、肝心なところで情に弱い。危険だとわかっていて、勝手にあなたをソユーブに連れて行ったり……」
 ちらりとソニエを見ながら、彼女は言う。
「最後の最後でも予定外の勝手な行動を……。まあ、それについては結果的には功を奏したのかもしれませんけどね」
 ――――本当に愚かな男です。
 夫人は繰り返しそう言った。
「…………」
 ソニエは新たに流れ落ちる涙をぬぐうことさえ忘れ、夫人によって語られる話をひとつひとつ受け入れていった。
 ――――セディックの真実を。
 二年間、ただ盲目的に恨み続けた男についての、ソニエが掴み損ねていた『真実』。
 驚くほどに、ソニエは何も知らなかった。
 知ろうとさえしなかったのだという事実にまた、愕然としながら。
 夫人の言葉によってようやく、見逃していた多くの現実に触れることができたのだ。



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