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チェイリードの娘

36

 大公家の屋敷から遠ざかる馬車の中で、ソニエは考えていた。
 大公夫人の、あの青い瞳に感じる冷たさと、相手を緊張させる独特の間の取り方。
 会話を重ねるごとに、それらはやはり記憶の中の祖母と重なっていった。
 夫人が自ら親友だったと語った、ソニエの祖母。
 ソニエには決して向けられることのなかった祖母の怜悧な態度。どんな相手にも決して警戒心を崩さない、相手を探るような目線。
 それを他人の目から見たときの印象。
 それこそが、ソニエが大公夫人に感じていた冷たさと、おそらく同じようなものなのだろう。
 彼女は大公家の令室という、半ば公の地位にたち続けることで、彼女の親友が変わってしまった経緯について、おそらく多くを理解することができたに違いない。
 ソニエは思う。
 人を疑うことを知らずに生きられる時間は、なんと幸せなことか。
 人間の善意だけを信じ、痛々しいものから遠ざけられて……。本来ならば子供時代にだけ許されるような夢の世界。
 祖母はかつて自分が失ってしまったそれらを、幼いソニエの中に見出していたのだろう。あるいはそこに、自分自身を重ねながら。
 甘い夢を見続けるように、それを手放すことができず、最後までソニエを現実から遠ざけようとしていたのだ。
 それゆえに、そんな幻想の世界に、ソニエは成長した後も長らくあり続けることができた。
 けれど人の世に生きる限り、そんな甘い世界は永遠とはなりえない。
 いつか現実を学び、他人の悪意を知り、それでも信じられる唯一のなにかを見つけて歩いてゆく。 
 歩いていかなければならない。
 膝の上に置いたもの……、――小さな硝子の小瓶を握り締めて、ソニエはさきほど口にした決意を噛み締めていた。
 大公夫人は帰りがけに、ソニエに思いがけない話をもちかけたのだ。
「――チェイリード家の復興、もしもあなたがそれを望むのであれば、力を貸しますよ?」、と。
 これには驚き、思わず夫人の顔をまじまじと見た。
 その顔からはさきほどまでの微かな表情の動きは消えうせ、感情がまったく読みとれない。
 組織は壊滅したけれど、この先もソユーブやチェイリードを狙う者がいないとは限らない。
 ソユーブを守りぬきたいのなら、やはりかつてのチェイリードの力が必要なのではないかと。
 薬師一族としての復興。
 特殊な地位にある家名を、再び輝かせる、その絶好の機会。
 夫人の言葉はそんなことをほのめかす。
 どことなく、さきほどより冷たい感じのする瞳が、探るようにソニエを見据えながら……。
 あとで思うと、夫人の玲瓏な目線は何かを試すかのようでもあった。
「呪術やらなんやらについては存じませんけどね……、かつて一族の財力を潤わせたという”秘薬”。その技術はやはり、あなた自身を守るためにも大きな助けとなるのではありませんか……?」
 ソニエは一瞬、言葉を失っていた。
 それはある意味鋭い発案だったからだ。夫人の語る”復興”は不可能なことではない。
 全ての知識が現代に残っているわけではないが、セディックが掘り起した大量の古文書と、現存するチェイリードの”血”……。それらがある限り、十分にチェイリードという家を強力な防御壁で覆い、あるいは繁栄を蘇らせることも可能かもしれない。
 しかし……。
 しばらく黙り込んでいたソニエが、自身の確固たる考えを口にした時、大公夫人の瞳に浮かんでいた冷ややかな揺らめきは消え去ったのだった。



 御者の男性に頼んで、途中でサロム通りへと降りた。
 相変わらず賑やかな下町の街道を人の波に揉まれながら進み、目的の人物を探す。
 露店の裏や木立の影、通りの隅々に目を配りながら歩いたが、この間と同じ場所には姿が見えない。
 もう、会えるかどうかわからないけれど……。
 そんな不安を抱えながら視線をせわしなく動かしていると、思いがけず声がかかった。

「――憑き物が取れたようだね、お嬢さん」

 最初の時と同じだった。
 どこからともなく明瞭な声が飛んできて、ソニエは振り返る。
 路の片隅で草木染めの敷物を敷き、そこに胡座(あぐら)をかいて座っている異国の女。
 以前ソニエに呪いが憑いていると、そう言って彼女を呼びとめたあの女性がいた。 
 その姿を視界に確認するなり、ソニエは彼女のもとへ歩み寄っていく。
 意外にあっさり会えたことに、少し驚きの表情を浮かべて。
「……よかったわ、また会えて」
 安堵のような溜息を漏らしながら、女性の前に腰を下ろす。
 布の奥に隠れた顔がソニエに向けられ、彼女の口が弓形に微笑んだ。
「あんたには、もう一度会えると思ってたよ」
「………え?」
 一瞬きょとんとしたソニエの様子をくつくつ笑いながら、女性は話す。
「あの時あんたに憑いてた妙な呪いは、きれいさっぱり消えちまったようだね」
「呪い……」
 最初にその話を聞いたときは、ソニエはとんでもない見当違いをしていた。
 今はもう、その”呪い”の本当の正体を知っている。
 そして、記憶の中で美しい絵画のようだった光景の一部分に、深いヒビが入っている。
 薄れることのない衝撃に、何度も苦しんだ。
 この先も、思い出すにはあまりに、辛い記憶になりそうだけれど……。
 目を背けることは決してすまいと心に決めた。
 カレンのことといい、ひょっとしてこの女性は、あの時から全て見抜いていたのだろうかと不思議に思った。
「あなたには、どこまで見えていたの?」
 ソニエの真剣な問いに、女性は含み笑いを漏らす。
「さあね。別に人の未来が読めるわけじゃないからね。案外中途半端なもんさ。なにより、面倒なことには関わり合いになりたくないしね」
「でも、わたしの時のように、通りかかる人をいちいち呼び止めているのでしょう?」
「そりゃ客引きは必要だろう。稀に気前のいい客がいると、結構なもうけになるもんさ。あんたのときみたいに」
 女性の口が、今度はにっと笑う。
 それから彼女は少し何かを考えるように黙り込み、空を見上げるように顔をあげた。
「……大きな街だね、ここは。豊かで華やかで、時代の流れを先頭きって走ってる。代わりに人の欲や策謀が、窒息しそうなほどひしめいてるようだけど。……ここでの商売は納め時かもしれない。そろそろ次の街へ移ろうかと思ってたところなんだ」
「旅をしてらっしゃるの?」
「行商みたいなもんでね。あたしらみたいな人間は、ひとところに長く居着くとややこしいことになる」
 布の奥に隠れていた闇色の瞳が一瞬露になる。
 日の光に眩しそうに細められていた。
「だけど、ここでは本当に珍しいもんが見れた。”珍しい人間”にも会えた……」
 言いながら女性は再び顔を戻し、ソニエを意味深に見た。
 ――見た、といっても正面からは相手の瞳はうかがえないのだが。
「やはり、あなたはわかっていたのね……」
 ソニエは苦笑する。
 そして布袋に忍ばせていた、小さな硝子の小瓶を取り出した。
 クリスタルの中で無色透明の液体が揺れている。
 以前、この女性に渡された――”毒薬”。
 それとは見えない穏やかな、相変わらず不可思議な輝きを放っていた。
「これを、あなたがわたしに渡した理由、ようやくわかったわ……」
 手の平に乗せた小瓶をじっと見つめながら、ソニエは薄く笑う。
「この薬、わたしの好きにしていいって、言って下さったわよね?」
「……ああ」
 女性は頷き、そして軽く首を傾ける。
 面白そうに、ソニエの神妙な表情を見つめながら。
「それで? どうするんだい?」
「…………」
 ソニエはゆっくり立ち上がり、そのガラスの瓶を握った手を、肩下の高さにまで持ち上げる。
 そして、下向きにパっと手を開く。
 ――――ガシャンッ。
 乾いた音は、周囲のざわめく騒音に掻き消され、ソニエとその女性の耳にだけ届いた。
 透明の液体が地面に小さく広がり、やがてその特有の輝きを失っていく。
 粉々に割れたガラスがキラリと太陽の光を反射していた。
「乱暴なことをしてごめんなさい。でも……」
 それらの残骸をじっと見下ろしながら、ソニエは空になった手を降ろし、そして強く握り締めた。
「――”チェイリードの毒薬”など、もう必要のないものなの」
 落ち着いた声で、静かに語る。
 女性はとくに驚いた様子もなく、さきほどと変わらず悠然とした笑みをその紅い唇に浮かべているだけだった。
 やがて小さく息を吐き、その笑みを浮かべたままの形で言葉を漏らす。
「そりゃ残念だねぇ。呪術師の間ではいまだに、密かな憧れみたいなものがあんのさ。――チェイリードってのはさ……」
 言葉ほどには残念がっていない口調。相変わらず掴み所の無い態度で、女性は飄々と話した。
 溜息をつくようにソニエは笑い、再度女性の前に腰を下ろす。
 地面にじわりと染みこみ、既に太陽の熱で乾き始めている液体を見つめながら、大公夫人との話を思い出す。
 そして、夫人に告げたソニエの決意を……。
 チェイリードの血がもたらす災いをその身に浴びつくした後であってもなお、彼女の思いは変わらなかった。
 ソニエは決して、かつて先祖が封印した禁断の知識を蘇らせようとは思わなかった。
 どういう事情であれ、理不尽に世を乱す秘術を封じた、祖先の選択は正しかったのだと今でも信じている。
 毒や暗殺で繁栄を勝ち取る時代はとっくに終わった。世の中はこのまま近代化の一途をたどるだろう。
 チェイリードの旧時代の遺産は、やはり永遠に葬られるべきなのだ。
 その人騒がせな家名とともに、永久に時間の闇に埋もれればいい。
 祖母のやり方が正しかったとは決して思えないが、彼女の願ったことは理解できる。
 目を背け、流れに任せるように都合よく忘れ去るのではなく、きちんと現実を見据えながら葬るべきなのだ。
 過去の遺物に捕らわれて生きることは、歪んだ未来しか生み出さない。
 見つめるのは、前を向いて切り開く未来だけでいい。
 それが彼女の出した答えだった。



「あんたには、自分で運命を変える力がある。どんなに強い人間であっても、それを持ってるとは限らない。けど、あんたにはそれがある……」
 女性は懐に手を入れて、異国の衣の中から、小さな紙の包みを取り出した。
 それをソニエに差し出す。
「……これは?」
「花の種。咲かせた人間に、新しい未来を与えると言われている、あたしの故郷に咲く花だ。きっとこの国の植物学者だって知らないよ」
 薄い桃色の包み紙の中には、数粒の種子が入っていた。見たことの無い変わった色形をしている。
「……なんという花なの?」
 ソニエの問いに、女性は思わせぶりに一呼吸置いてから答えた。
「――『名無し花』。咲かせる人間によって、どんな色の花が咲くかわからない。そしてその花の名前をつけられるのは、咲かせた人間だけなのさ……」
 女性はおもむろに、頭からすっぽり被っていた布を脱ぎ去った。その素顔を太陽の下に晒す。
 白い肌。後ろで一つに束ねれた闇色の長い髪と、同じ色の瞳。少々掘りの深い顔立ちが、こことは違う国の出身者であることを物語る。
 くっきりとした形の良い眉の端を下げて微笑みを浮かべている。
 不思議そうな顔で女性と種子を見比べていたソニエに、彼女は告げた。
「あんたがこれから生きる場所に撒くといい。きっと新しい未来へ導いてくれるだろう。――ああ、お代は特別サービスにしといてやるからね」


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