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チェイリードの娘

37

 屋敷に戻ると、既に数人しかいない使用人が出迎えた。
 そのうちの一人、メグがなにやら気難しい顔をしている。
 ソニエが玄関に入るなり、彼女は近づいてきて小声で言った。
「あの、今は一度、奥へお入りになって、……お待ちいただいたほうが……」
 階段への進路を阻むように、立ちはだかる。
 メグにしては珍しく強引な態度だ。
「……どうか、したの?」
 言っているそばから、階段上に響く足音が聞こえた。
 高いヒールが奏でる尖った靴音。
 メグはソニエの腕に手をおいたまま、サっと決まりの悪そうな顔を浮かべてうつむいた。
 ソニエは身動きも取れないまま、ドアの前で立ち尽くす。
 階段を降りてくる人影を見上げた。
 黒いハイヒール、首元まで襟が詰まった黒い服、そして顔を覆い隠す黒い帽子……。
 黒一色に身を包んだ女性が、ゆっくりとした足取りで階段を降りてきた。
 一瞬、誰だかわからなかった。
 広いつばのついた帽子から、同じく黒いヴェールが垂れている。
 そのヴェールの隙間から覗く瞳が、ソニエの姿を捕らえた。
 衣装とは対照的に、鮮やかな緑色の大きな瞳。 
 帽子の下に見える、小さく整った顔。
 その顔を見たとたん、ソニエの中に様々な種類の、苦い思いが込み上げた。
 相手の女性のほうは、ソニエに気付きつつも、取り澄ました様子であくまで平然と階段を降りてくる。
 カツカツと上品な音を立てて、出口の方へ、つまりソニエの方へ歩いてきた。
 ぴんと伸びた背筋や、洗練された歩き方。
 全身を地味な喪服で覆っていても、彼女の、――シェリルの華やかさは損なわれることがなかった。
 ただ立ち尽くしているソニエの真横で、女性の靴音は止まった。
 ソニエは遠慮がちにシェリルの顔をのぞき見る。
 黒いレースのヴェール。その隙間から覗く横顔は、ツンと前へ向けられたまま。
 こちらを見ようとはしない。
 けれどその緑の瞳が若干赤く腫れているように見えて、ソニエははっとした。
 彼女のその服装を見た瞬間から、ソニエの心に重く沈むものがあったのだ。
 ――――アルグラン=フィル=マラドーム。
 彼女の兄であるアラトリム公議会前議長が殺害されたことを、ソニエは例の騒動のあとになって聞いた。
 ソニエがこの屋敷に閉じ込められていた間の出来事だったという。
 ケスパイユの一件が終わったあと、その翌日にも、新たに六人の死体が見つかったと、司法庁の例の捜査官から聞いている。
 ソニエの与り知らぬところでの犯行とはいえ、一連の事件の根底に自分が関わっていたという事実は、単に心苦しいというだけではすまされないほどの痛みをもたらした。
 肉親を失ったシェリルを前に、重たい心痛がソニエを襲う。
 兄の死からひと月以上を経過した今も、こうして黒ずくめの喪服のままでいるシェリル。
 いつも派手な装いで身を飾っていた彼女のことを思うと、その心のうちの深い悲しみがうかがえた。
 なにか声をかけるべきか、いやしかし自分が声をかけるのはおかしいだろうか、そんなことを考えていると、シェリルのほうが言葉を発した。
 ソニエの心を突き刺すような、冷たい声で。
「――ずるい女(ひと)……。自分を汚すこともなく、結局欲しい物を手に入れてしまうのね」
 一目たりともソニエに目を向けず、シェリルは言い放つ。
「愛され守られる星のもとに生まれた人間に、もがいても失うばかりの人間の気持ちなど、永遠にわかりはしないのよ……」
 凛とした冷たい口調で、しかし語尾が少し震えて聞こえた。
 まっすぐ前に向けられたままの瞳が、潤んでみえる。
「…………」
 ソニエは返す言葉も無く、ただ俯いているしかできなかった。
 ――――シェリルの失ったもの。
 近しい肉親である兄と、あと……。
 マラドーム前議長は、例の組織の一員だったことが明らかになっている。
 もしセディックが彼女に意図的に近づいたのだとしたら、その目的は……。
 ソニエはドレスの薄い布地をぎゅっと握り締めた。
 シェリルの顔を見ることができず、胸を詰まらせる。
 今ここでソニエが何を言ったとしても、シェリルの心の傷を抉るだけのような気がして、あるいは自尊心を傷つけてしまうのではないかと思えて……、喉を震わせながら最後まで言葉を封じた。
 シェリルがそんなソニエに、一度でも目を向けたのかどうか、わからない。
 しかしそれ以上何も言わず、優雅ともいえる足取りで彼女はドアから出て行った。
 やがて馬の蹄の音が聞こえ、馬車が屋敷の門を出て行くまで、ソニエは顔をあげることができなかった。
 人の想いは、人の欲は、あまりに多くのものを犠牲にし続ける。
 幸せを勝ち取ることについては、言うまでも無かった。



 しばらくドア付近で棒立ちになっていた後、ソニエは重い足取りで二階へ続く階段を登った。
 気遣うようなメグの視線をやんわりと遠ざけて、自分の部屋へ向かうべく足を進める。
 階段を登りきったところで、ソニエはためらいながら、おそるおそる東側への廊下を曲がった。
 自分の部屋とは正反対の一角だ。
 すると、廊下の奥に佇む人影が目に入った。
 二階の廊下の東端の、庭に面した小窓の前で、男が壁にもたれかかっていた。
 黒い部屋着の胸元から、幾重にも巻かれた白い包帯がのぞいている。
 少し長くなった赤い髪が額やこめかみにふりかかっていた。 
 大怪我を負って生死の境を彷徨ったせいだろうが、久しぶりに見る立ち姿は以前より痩せたように見える。 
 全身のシルエットが細長く、横顔には若干、焦燥の色がうかがえた。
 虚飾に満ちた装いを捨てたらしい男からは、以前のようにおかしな自信に満ち溢れたふてぶてしい雰囲気が消え去っている。
 どことなく弱々しささえ感じれらるくらいだ。
 ソニエが躊躇しているうちに、男はこちらに気がついた。
 しかし言葉は無く、すっと目を逸らして扉が開きっぱなしだった自分の部屋へ入っていこうとする。
 ソニエはつい声を出していた。
「……あの」
「…………」
 ドアの取っ手を握ったまま止まった手と、声に反応しつつもこちらをみない横顔。
 とっさに呼び止めたものの、何を言っていいのか言葉が見当たらない。
 ――――いや、必ずしもそうではない。
 セディックの全身からソニエを突き放すオーラが滲み出ているような気がして、彼女を尻込みさせるのだ。
 今、この屋敷でのソニエの立場は非常に微妙だった。
 二年間、囚人のように監視された生活しか送ってこなかったソニエにとって、急に自由の身になったことに妙な違和感が拭えない。
 奇妙なことだと思う。
 数少ない使用人たちやレオンの態度もすっかり変わってしまって、自分がここにいる理由がなくなったことを思い知らされた。
 ……というより、セディックがその理由を取り上げたといったほうが正しいだろう。
 いつのまにか用意されていた離婚許可書といい、丸ごと渡されたソユーブの権利証書といい、彼はソニエを追い出しこそしないが、ここを出て行くことを間接的に促している。
 むろん、売却されて立ち退きが迫るこの屋敷で、それは当たり前のことではある。
 突き詰めるなら、ソニエが失ったものとは、屋敷にいる理由ではなく、セディックのそばにいる理由だった。
 この曖昧な状況が、ソニエは辛かった。
 監禁でもなんでも、形式的な婚姻関係であっても、強引にこの屋敷に縛り付けられていた頃がいっそ懐かしいほどだ。
 理由が欲しければ、自分でつくればいい。
 一言告げれば終わることなのかもしれない。
 けれどそれを口にした瞬間、道は二つに割れてしまい、低くない確率で完全に望みを失うことになりうるのも事実だ。
 それが恐い。
 実は全てがソニエの思い上がりなのではないかと思えてきて。
 強気な決意を忘れ、あっさり臆病になってしまう自分に呆れ果てながらも、その一歩がどうしても踏み出せなかった。
 声をかけたきり固まっているソニエを一瞥し、セディックは止めていた動きを再開した。
 体半分を部屋の中に入れ、一言言い残す。
「――悪いが今、おまえの顔は見ていたくない」
「…………」
 その言葉が与えた衝撃は凄まじかった。
 そっけなく閉まった扉の方を呆然と見たまま、ソニエは長いことそこを動くことさえできなかった。
 こちらを見もせずに、冷たい声で……。
 以前の、全てが明らかになるまえのセディックの冷たさとは種類が違う。
 あきらかに何かが違う。
 ソニエそのものに興味を失ってしまったかのような、そんな空虚な響きが入り混じっていたのだ。
 たった一言で、こんなに自分を突き落とす言葉があることを、ソニエは知らなかった。
 このような種類の胸の苦しさは、生まれて初めて味わう。
 泣くことも忘れ、抜け殻になってしまったように、ソニエはしばらくそこに立ち尽くしていた。



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