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チェイリードの娘

38

 すっかり消沈してしまったソニエは、その後の数日間を悄然と過ごした。
 強くなろうと思っていた矢先に、たった一人の男のたった一言の言葉に、あっさり打ちのめされる。
 そんな情けなさについても嫌気がさしていた。
 だんだん自分への苛立ちが募って、もういっそ一人でソユーブへ帰ろうかと、投げやりにそんなことを考えたりもした。
 けれど、じんじんと痛む胸の傷から、どうしても目を逸らすことができない。
 ソニエはやはり、セディックのことが恐かった。
 以前彼に抱いていた恐怖とは種類が違う。
 恐いのは、――拒絶されること。突き放されてしまうことが、何より恐くてたまらないのだ。
 一度だって味わったことのない、胸に棲み付いたこのおかしな”病”は強烈だった。
 何をしていても心から離れないものがあり、息苦しくて食事も喉を通りづらい。
 ――――馬鹿みたい。
 その愚かさを冷静に見ている自分もどこかにいるのに、やり過ごす賢い方法を彼女は知らなかった。
 結局セディックとは、あれ以来顔を合わすこともできずにいる。
 向こうがそれを望まないのだから、あえてはっきりそれを告げてきたのだから、ソニエはどうすることもできずに途方に暮れていた。


 庭の片隅で膝を負ってしゃがみこみ、石垣で囲った小さな薬草畑を見つめていた。
 ――――もうすぐ、お別れなのね。
 そう思うとその慎ましやかな花壇がひどく愛しいものに思えてきて、視界が潤んで見えた。
 あんなに忌み嫌っていた屋敷なのに、おかしいものだ、とソニエは思う。
 彼女を長い間悩ませていたあの奇妙な老婆も結局、セディックがソニエのために連れてきたどこかの呪術師だったのだという。
 事件の後、莫大な謝礼金を受け取ると、さっさとどこかへ姿を消したらしい。
 あの恐ろしい笛の音は今でも思い出すとゾっとするけれど。
 一人また一人と使用人が去り、取り付けられた家具類や調度品が整理されていくこの屋敷で、ソニエはそれにも勝る虚脱感を味わった。
 セディックは部屋にこもったままだが、ソニエを強引に追い出そうとはしない。
 いっそ面と向かって「出て行け」と言われれば、何かが断ち切れて楽になるかもしれないのに……。
 黄色い小さな花を咲かせる薬草を指でつつきながら、膝の上、腕の中に顔を埋めた。


「――ソニエ様!」
 庭の小道をかけてくるメグの姿が見えた。
 ソニエはスカートの裾の土をはらって立ち上がる。
 目尻に滲んでいたものを軽く拭き取った。
「メグ、どうしたの?」
 彼女は、どうやら最後までこの屋敷に残ってくれるつもりらしい。
 他の使用人が出て行く中、メグには一向にその気配がなかった。
 看護の知識をもつ彼女は、セディックの傷の手当ても担当している。
 それゆえにセディックが留め置いているのかと思ったが、そういうわけでもないらしい。
 ただそれとなく聞いたとき、彼女はソニエが出て行くまで一緒にいてくれると言ってくれた。
 これ以上に心強いことはなくて、ソニエは泣きながら彼女に抱きついてしまったくらいだ。
 そのメグの額には、うっすらと汗が滲んでいる。
 部屋にいないソニエを探して屋敷中を駆け回ったのかと思うと、申し訳なく思った。
 同時に、彼女がそんなに慌てる理由を思い浮かべ、ソニエの心に緊張が走る。
 だが出てきたのは意外な言葉だった。
「アリュース様が、アリュース=ラナ=アークレイ様がお見えになってます」
「…………」
 驚いて、ソニエは屋敷の建物のほうに目を向けた。
「アリュース……」



 事件の直後、ソニエはセディックのことで激しく取り乱し、結局アリュースとまともに話をする間もないまま時間が過ぎ去ってしまった。
 状況が落ち着いたあと、意を決してアリュースの滞在先を訪ねた。
 アラトリム中心街にある公賓向けのオーベルジュに、アリュースは一時身を寄せていると聞いていたからだ。
 だがソニエの訪問と入れ違いに、部屋は引き払われていた。
 デモントに帰ってしまったのかと思い、彼の実家であるアークレイ伯の本邸に手紙を送ったが、返事はなかった。
 そしてそのまま為すすべもなく、今日の日を迎えたわけだ。
 アリュースの名前を聞いて心躍るのは、幼い頃からの因習かもしれない。
 いつだって彼のそばへかけていく時の、あの気持ちはなんともいいがたい幸福感に満ち溢れていた。
 しかし……、今日だけは、アリュースの待つ部屋に向かいながらソニエは何度も立ち止まり、胸の奥から込み上げてくる辛い衝動に耐えた。
 そんなことを繰り返しながら、ようやく彼が通されているソニエの自室にたどり着く。
 胸の痛みをこらえながら、意を決して扉を開いた。
 明るい室内に、長身の人影が一つ。
 黒髪の青年が、テーブルの前で何かを見つめて立っていた。
 彼の視線の先にあるのは、繊細なガラスの細い花瓶に活けられた、一輪の青い薔薇だ。
 それを見つめる静かな横顔に、目を引き付けられた。
 そして胸が押し潰されるような思いを味わう。
 入ってきたソニエに気付くと、アリュースはいつもの優しい笑顔で振り返った。
 少しも変わらない、ただ真っ直ぐに彼女を映す、とても綺麗な微笑み――。
 込み上げるものをなんとかこらえながら、ソニエは彼に近づいた。
「アリュース……」
「……ごめん。手紙、もらったのに、返事を書かなくて」
 アリュースは申し訳無さそうに話す。
 ソニエは何度も頭を横に振った。
 口を開いたときの表情と声にただよう、以前とは違う悲しみの影。それは見間違いでも聞き間違いでもないのだろう。
「……彼、怪我は順調に回復してるみたいだね」
「え?」
 『彼』とは、セディックのことに違いなかった。
 唐突に飛び出した話題に、ソニエは少しうろたえる。
 それに気付かないふりで、アリュースは何気なく言った。
「さっき廊下ですれ違ったんだ。この部屋にくる途中で……」
「……そう」
 ソニエは気まずい思いで下を向く。
 そして力の無い声で言った。
「あの時は、……セディックに力を貸してくれて、ありがとう。わたし、あんなに気が動転してしまって……」
 言い終わらないうちに、彼はか細い笑いを漏らした。
「辛いな、ソニエ。きみの口からそんなふうに礼の言葉を聞くのは、さすがに辛い……」
 ソニエははっとして顔を上げる。
 目の前にある悲しげな微笑に、胸がつまり、自分の言葉を取り消すように口元を手で覆った。
「わたし……、ごめんなさい……」
 深い紺青の瞳は決してソニエを責めるわけではなく、ただ悲しそうに揺れていた。
 しばらく彼女を見つめていたアリュースは、振り切るように背を向けて窓際のほうへ歩いていく。
 そして意図するかのように、やや声のトーンをあげて晴れやかな口調で話した。
「正直、ものわかりのいい男のふりをしようと、心に決めて今日はここへ来たんだ。きみが僕に言いたいことはもうわかっていたし、覚悟もできてるつもりだった」
 でも……、とアリュースは顔をやや下に向ける。 
「情けないよな。正直、色々と煮え切らないこともあって、きみの顔を見たとたん、抑えていたものが一気に噴き出してくるんだ……」
「……アリュース、わたし」
 ソニエが何か言いかけるのを遮るように、アリュースはばっと振り返る。
「負けない自信ならあった。きみを想う気持ちの強さも、深さも、想ってきた長さだって……、どれもあいつに負けない自信はあったよ。……本来ならね」
 強い力のこもった瞳に、しかし、ふっと寂しげな色が浮かぶ。
「……でも、人の気持ちっていうのは、そういう単純な勝ち負けじゃないって、そういうことなのかな……。それでなくとも、きみを救ったのはあの男だったわけだし。僕はあの再会の瞬間から、それと知らずにきみを危険に晒していた。きみを守るどころか、危うく取り返しのつかない悲劇に突き落とすところだったんだ……」
 ソニエはやや強い声音で言葉を挟んだ。
「違うわ。アリュース。それは事実のほんの一側面にすぎないのよ。わたしはそんな風には捉えていない……。あなたは絶望の底にあったわたしに希望を与え、何度も生きる気力をくれた。あなたのことを想うことで、何度も頑張ろうと思えた。……わたしには、それが全てなのよ」
「…………」
 アリュースは黙って彼女の言葉を聞き、そしてとても悲しそうに笑っていた。
 彼と瞳を合わせたまま、ソニエはじわりと滲み出す涙を止められなかった。
「アリュース、わたし、……あなたのこと、本当に大好き。今だって……」
 その言葉が、今のアリュースに少しも喜びを与えないことはわかっていた。
 それでも伝えずにはいられない。
 ――――大切で大切でたまらない。
 限りなく愛情に近いはずのこの想い……。
 悲しそうな瞳が彼女を見つめて、弱々しく微笑む。
 そんなふうに受け止めてくれる彼の優しさが苦しくて、ますます涙は止まらなくなる。
 とめどなく流れ落ちる雫をぬぐいながら、なんとか心にけじめをつけようと気を引き締める。
 ソニエは鏡台に向かい、引き出しの奥に大切にしまっていた”小箱”を取り出した。
 ほんの少しの間、大切な思い出とともにその箱を胸に抱きしめて。
 それから中身を取り出した。
 アリュースに歩み寄り、彼の手をとってそれを握らせる。
「…………」
 手の中にあるものを、アリュースは確認せずともわかっているようだった。
 結婚の申込みとともに贈られたその美しく希少な宝を、彼は見もせずに、そのまま強く手の中に握り続けた。
「ごめんなさい。……本当に、ごめんなさい……」
 帰ってくる言葉はない。
 ソニエはテーブルの上の一輪挿しに活けられた青い薔薇に目を向けた。
 ソユーブへ発つ前、最後に贈られた花束の薔薇だ。
 その時はまだ蕾だった一輪が、三週間以上すぎた今もかろうじて生き続けている。
 この可憐な花に、幾度救われたことかわからない。
「ありがとう、……なんて、そんな言葉では足りないわよね」
 ソニエはアリュースから離れて、その青い花弁に手をふれた。
「あなたの贈ってくれる花が、いつも私を励ましてくれて、希望をくれたの。あの状況で、あなたの励ましがなければ……、この屋敷で、たとえ実際は守られていたのだとしても、私は真実を知ることなく自滅していたかもしれない……」
「…………」 
 彼は口元に少し複雑な笑みを浮かべながら、なにかに耐えているようであった。
「このアラトリムであなたに会えたことを、わたしはいまでも神様に感謝するの。何があっても、あなたは大切な人。とてもとても大切な人……。でも……」
 ソニエの言葉を遮るように、唐突に腕を引かれた。
 一瞬のことだった。
 これまでにない、強い力で抱きしめられる。
「――さらって行きたいよ。このまま。いっそ檻に閉じ込めてでも、誰にも届かない場所へ連れ去ってしまいたい……。僕だけの……」
 耳の後ろで響く声が激しく震えていた。
 これまでになく強く抱きしめられて、ソニエは感じる温もりに確かな愛しさを覚えた。
 けれどそれは、あの荒れ狂うような、焦がれるような熱情とは違う場所にある。
 あの激しい想いを知ってしまった今は、もう……。
 胸に込み上げるこの思いをどう言葉で言い表そうと、おそらくアリュースを満たすことはできないのだ。
 言葉のかわりに涙だけが際限なくこぼれて、アリュースの上着に滲む。
 苦しくて、苦しくて。
 たとえ愛ではないとしても、この想いは特別だった。

 ソニエの知るアリュースの顔が、いくつもいくつも頭の中に浮かんだ。
 初めて出会ったときの、少し戸惑ったようなぎこちない笑顔。
 思いがけずソニエを泣かせてしまったときの、心底焦ったような顔。
 母親を失って、こっそり涙していた横顔。
 大好きと言ったときの、はにかんだような笑顔。
 サテラの花畑で、結婚の約束をしたときの、少し赤い真剣な顔。
 そして大人になったあと、ソニエを見つめた優しくも情熱的な、顔……。

 どれもがはっきり心に焼き付いていて、かけがえの無い記憶だった。
 ひとしきり、ソニエはアリュースの腕の中にいた。
 言葉も無く、ただぎゅっと抱きしめられて。
 アリュースの体は震えていた。
 その震えが伝わって、強い想いが流れ込んでくるようで、でもそれを受け止められないソニエは、どうすることもできずに溢れる涙を持て余すだけだった。

 やがて何かを断ち切るように、アリュースはソニエの体を離した。
 深い色の瞳は悲しみに歪んでいたけれど、泣いてはいなかった。
 強く強く、なにかをこらえるようで、彼らしい実直な感情が垣間見える。
「きみの幸せを、祈ってる。どこにいても」
 ソニエの涙を指で拭いながら、アリュースは精一杯の笑みを見せた。
「あの男は、正直いけ好かないけれど……、きみを深く愛していることだけは確かだ。きっときみを守ってくれる」
「…………」
 しかしソニエは、悲しい微笑とともに顔を曇らせた。
 ――――セディックが今も自分を愛していると。
 それは、あまり自信のもてないことだった。
 今はむしろ、ソニエの一方的な感情になってしまったのではないかと思えるほどに。
 一瞬曇った表情で視線を逸らした彼女を、アリュースは心配げに見た。
 固いソニエの横顔に何かを言いかけて、そして思いとどまるように言葉を飲み込んでしまう。
 しばらくの沈黙。
 少ししてから、アリュースは静かな声でそれを破った。
「本当は、黙っていてやるつもりだったんだ。いざ顔を見るとどうにも口惜しさがこみあげてきて、このくらいの意地悪は許されるかなって……。でも、大人気ない真似はよくないな……」
「え……?」
 意味がよくわからないアリュースの呟きに、ソニエは何度か瞬きを繰り返す。
 話が読めずに、じっと彼の顔を見た。
 悲しくも穏やかなアリュースの瞳が、テーブルの上の一輪の薔薇に向けられる。
 ソニエもつられるように視線を移した。
「……その薔薇、僕が贈ったものじゃないんだ」
 冷静なアリュースの声が思いも寄らないことを言った。
 ――――え?
 にわかに信じられず、薔薇とアリュースとを交互に見ながら軽く首をかしげていた。
 そんなソニエに彼は静かに笑いかける。
「僕じゃないんだよ……。ソニエ……」
 あまりに寂しそうな声で、アリュースは話した。
 彼が贈ったのは、あの庭師の少年に手紙とともに託した花束が最後だったのだと。
 その後の薔薇は、彼が贈ったものではないのだと――。
「え……」
 当惑したまま、ソニエは視線を彷徨わせる。
 ――――どういう、こと?
 アリュースの手引きで屋敷から脱出しようとして、失敗した夜。
 その日以来、ソニエは食事も拒絶してセディックに抵抗し続けていた。
 ついに気を失い、死にかけて。
 その少し後に、メグが持ってきた花束。
 たしか屋敷の門の前に置いてあったとか、彼女は言った……。
 それから三日ごとに、何度も何度も届いた花束。
 けれど手紙は一度もついてなくて……。
「…………!」
 ソニエは勢いよく顔をあげた。
 ――――まさか……。
「きみを攫うのに失敗したあと、僕は司法庁から内々にデモントに戻ることを命じられてね。理由は明らかにされなかったけど……、しばらくあっちで身動きが取れなかったから、自分のことに手一杯で、きみに花を贈ることなんてできなかった」
 苦笑を浮かべながらアリュースは当時の事情を話す。
 ソニエは声もなく、呆然とテーブルの上の青い花を見ていた。
 ――――セディック……。
「……そうやってまた、確実にきみの心を攫っていくのか。無意識なんだとしたら、……いや、無意識なのかもしれないけど、なんとも口惜しいよ」
 薔薇から目を離せないソニエを、ほろ苦い表情で見やりながら、アリュースは小さく笑う。
「ソニエ」
 彼女の肩に手においた。
「もしも、きみに勇気が必要なんだとしたら、どうか思い出して。ソユーブで一緒にいたときのこと……」
 ソニエは我に返ってアリュースを見上げる。
「用心深いふりをして実は臆病なだけの僕より、きみはずっと勇気に溢れた強い女の子だったんだから」
 彼は少しぎこちない明るい声と、若干無理をしているような笑顔で言った。わざと自分を貶めるような冗談を交えてまで。
「きみはあんなに甘く大切に育てられて……、それなのに、決して我侭に何かを望んだりする子じゃなかった。聞き分けがよくて、我慢強い。稀に欲しがったものはいつも、最初からきみが手に入れて当然のものばかりだった」
 アリュースの苦しげな笑顔は、少しずつ柔らかく自然な優しさに染まってゆく。
「そんなきみの、一世一代の”願い事”だ。――神様が見過ごすはずはないだろう……?」
 限りない優しさが、ソニエの心に力を与え、そして同時に悲しみも蘇らせた。
「アリュース……」
 いつだって彼女を理解し、慈しみ、包み込んだかけがえのない存在が、遠いところへ行ってしまう。
 離れていた八年間よりも、ずっとずっと遠いところへ。
 二度とは戻らない。
 繋がっていると信じて疑わなかった、幼い頃に描いた二人の未来。
 それを隔ててしまったのは他ならぬソニエなのに。
 悲しくてたまらなかった。
 ――――アリュース……。
 数え切れないほど、何度も何度も心の中に刻んだ、愛しい名前。
 たとえ自分を犠牲にしてでもその幸せを願いたいくらい、大切な大切な人――。


 あの青い花畑に立つたびに、わたしはきっと……。
 何度でもあなたのことを思い出すのでしょう。



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