ナ ツ ア オ イ

この町で 3



 診療所からの帰り道。
 あたしたちの家は、ひたすら水田の間に伸びる細い路を抜けて、山江川にかかる小さな『三月橋(さんげつばし)』を渡った先にある。
 こんな田舎で痴漢の噂なんて聞いたこともないけれど、人通りの少ない夜道で一人でないのはありがたい。
 すっかり日の暮れた中、設置されて間もない街灯だけが等間隔にあぜ道を照らす。
 初夏の夜の涼しさは、少し肌寒い。 蛙の鳴き声と、あたしの押す自転車のタイヤの音だけが聞こえている。
 少し前を歩くアオイの背中を見ながら、あたしは色々思い出していた。
 子供の頃から、どれだけあの背中を見続けたかわからない。 気がつけばあたしの前にはいつもアオイがいて、あたしの恐れるものから守ってくれていた。
 ――いつか。
 いつかあの背中が見えなくなったとき、手が届かなくなったとき、あたしはいったいどうするのだろう。  
 昔より格段自立したとは思っていたけれど、それはいつも視界にあの背中があったから。 いざという時にあたしの手を引いてくれる温かい手の存在を、身近に感じていたからだ。
 いつか、当然のように側にあったあの温もりを、もしも失ってしまったら……。
 ――あたしはどうすればいいんだろう?
 今まで考えもしなかった不安を、あたしは最近なぜか身近に感じてしまう。 そしてそのたびに、なんだかんだでアオイに依存している自分の弱さを恨めしく思うのだ。


 あたしにとってアオイの存在が絶対になったのは、アオイと出会って一年以上が経過した頃のことだった。
 その頃にはだいぶ心を開いて、彼と毎日遊びに出かけるようになっていたけど、 それでもまだ完全といえるほどの信頼は抱いてはいなかったかもしれない。
 その、事件が起きるまでは――。
 きっかけは小学三年生の9月、夏の終わりの夜だった。
 あたしたち家族が当時暮らしていた古い木造家屋が、台風の直撃によって倒壊した。
 その夜、お父さんは救急患者の手当てのために診療所に出てしまっていて、 お母さんも当時のパート先の大山手市から身動きが取れない状態だった。
 町全体が停電になった直後、子供達だけの家が暴風と土砂崩れに飲み込まれた。
 瞬間最大風速六十メートルを超える暴風と、裏山から崩れ落ちてきた土砂に飲まれて、 築五十年を超える古い家屋はあっけなく倒壊したのだ。
 あたしは一瞬気を失っていたらしく、目を覚ますと真っ暗な中に閉じ込められていた。
 バラバラになった家屋の建材の下敷きになっており、 無残に横たわる柱や戸板、その他の木材が幾重にも積み重なっていた。
 幸いそれらと土砂との間にできた小さな空間にあたしは納まっていて、押し潰されることはなかった。
 けれど這い出そうにも、足が何かに挟まっていて少しも動けない。 膝から下が重いものに拘束されていてどうしても抜けなかった。
 吹きすさぶ風の轟音と横殴りの雨が、あたしの頭上を通り過ぎていた。
 もがけばもがくほど足は何かに擦れて、痛みとともに血が滲む感触があった。
「――ナツ! どこだ!」
 暴風の音と自分の泣き声の狭間に、聞きなれた声を聞いた。
 あたしは縋るように、助けを求めて泣き叫んだ。
「アオイ! アオイ!」
 必死に名前を呼ぶと、アオイはあたしの居場所を探り当てた。
 あたしの上に覆い被さっていた瓦礫や木材を動かして、彼はあたしを掘り起こす。
 だけど、あたしの下半身を閉じ込めていた瓦礫までは、とても子供の力で動かせるものではなかった。
 救助隊を待つしかなかった。
 お母さんのことを呼びながら泣き続けるあたしの手を握り、アオイは一生懸命あたしを安心させようとしていた。
 肌に痛いほどの雨や、耳が痛くなるような音をたてて荒れ狂う暴風の中。
 いつ二次災害が起こるともわからない危険な状況で、アオイはあたしのそばを離れなかった。
 やがて町の自警団の人たちが助けに来て、その人たちが瓦礫と奮闘してくれている間も、アオイはずっとあたしの手を握って、あたしに言葉をかけ続けていた。
 でも自警団の人たちはあたしの体を引っ張り出すことも、瓦礫を動かすこともできなかった。
「……無理だ! 動かない! 救助隊を待つしかない!」
 轟音の中に響く大人たちの絶望的な声が、今も耳に残っている。
 幼いあたしが感じたのは、見放されたような、愕然とした絶望感。
 とてつもない恐怖だった。
 いつまた土砂が崩れるかもわからない危険な状況で、大人たちははせめてアオイだけでもその場から離れさせようとする。
 だけどアオイはあたしの手を握ったまま、絶対にその場所から動かなかった。
「ここは危ない! 二次災害でおまえまで飲まれちまうんだぞ!」
 切羽詰った状況で、がむしゃらに怒鳴っているおじさんの声。
 腕を掴んだその大人の手を払いのけて、アオイは叫ぶ。
「行かない! どこにも行くか! 妹がここにいるんだ!」
 あたしの手を強く握り締めたまま、アオイは凄まじい形相で大人の人たちを退けた。
 その時のアオイの勢いは本当にすごかったと思う。 
 その場にいた大人たちのほうも相当必死で、力ずくでもアオイをその場から遠ざけようとしていたはずだ。それなのにアオイは気迫だけで誰も寄せ付けず、結局最後まであたしのそばを離れなかった。
 あたしはただ泣きながら、アオイに縋るばかりだった。
 極限の恐怖の中で、彼だけが唯一の頼りだった。 繋いだ手の温もりがもたらした安心感は、とても言葉には言い表せない。
 長い長い夜だった。
 少しずつ嵐の勢いがおさまって、あたしの意識が危うくなりかけた頃、ようやく救助隊の人たちが到着する。
 ほぼ同時に、知らせを聞いて診療所を飛び出していたお父さんがその場にたどり着いた。
 しかし救助隊と自警団の人たちが総力をあげても、あたしの足を挟んだままの瓦礫は動かすことができず、夜明け前に到着したクレーン車によってようやく障害が一つずつ撤去されるに至った。
 完全に助け出されるまで、アオイはずっとあたしの傍らで励まし続けてくれていた。
 奇跡的にあたしの怪我は擦り傷程度しかなかったけど、衰弱がひどくてぜんそくの発作を起こしかけており、表通りに待機していた救急車で市民病院まで運ばれた。
 お父さんが一緒に乗り込んで、適切な処置をしてくれたので、すぐに息苦しさは和らいだ。
 一晩中雨に打たれていたアオイは、肺炎にかかって同じ病院に入院した。
 しかも、あたしの入院よりも長引いてしまった。
 「たいした怪我がなくてよかったな」と青白い顔で笑ったアオイの顔が、今でも胸をしめつける。
 その時あたしは、アオイのためならなんでもできると思った。



「そういえば、そろそろだよな」
 少し前を歩くアオイは、ふと思いついたように首だけひねって振り返る。
「え……?」
 現実に引き戻されたあたしは、きょとんとした。
「結婚記念日だよ。父さんと母さんの」 
「あ、ああ、うん。もう来月だね」
 そういえば、もうそんな季節だ。
 お父さんとお母さんの結婚記念日。それはあたしたちにとって、”家族の誕生日”のようなものだ。
 アオイとあたしは子供の頃から毎年かかさずお祝いしている、広川家にとって非常に重要な家族行事だった。
「何にすっかなー。去年と同じじゃ芸がないか……」
 頭の後ろに手を組んで、アオイは顔を上に向ける。その後頭部を支える肘下の手首に、見覚えのあるリストバンドが見えた。
 先週の誕生日に、あたしがプレゼントしたものだ。
 あたしとアオイの誕生日は、三日しか離れていない。だから、家ではまとめて祝ってもらうのが決まりになっていて、あたしたちはいつもお互いにプレゼントを交換している。
 申し合わせたわけでもないのに、今年はどちらのプレゼントもリストバンドで、 その偶然に大ウケしたのがつい先日のことだった。
「去年は……、そうそう、レストランのディナーお食事券だったっけ。二人とも喜んでたけど、同じじゃつまらないしね。ちょっとくらい変化が欲しいかも」
 あたしが追いつくのを、アオイは立ち止まって待っていた。
「何かアイデアある?」
「うーん……」
 再び並んで歩きはじめて、二人で色々と考えを巡らせる。
「旅行……、旅行なんてどうかな?」
「旅行? また大きく出たな」
「一泊で、温泉とかさ。そのくらいならあたしたちの資金でどうにかなるかも」
「ああ、それならいいかもな。土日一泊なら父さんも休み取れるだろうし……。そういや母さんも久々に温泉行きたいとか行ってたっけ。旅番組見ながら」
「うんうん。それでいこう。さっそく明日パンフ集めに行ってくる!」
 あたしは嬉々として、自分の名案に感動していた。
 (よーし、なんかやる気出てきた!)
「ネットでも探してみるか。近場の温泉、と……」
「よし! 今月はお小遣い、節約しなくちゃね」
 空いたほうの手で、ガッツポーズをとるあたし。
 (お母さんとお父さんのためだ。なんとかしてみせましょう!)
 でも、あたしの熱いやる気を素通りして、アオイが言葉を挟んだ。
「ああ、資金のことならあんま心配すんな。俺、当てがあるから」
「……え?」
 思わず足を止めて目をぱちくりさせるあたし。
 その間に数歩先に進んだアオイは、何気ない顔で振り返って言った。
「バイトしてるんだ」
 あたしは瞬きを繰り返しながら、彼を見ていた。
 ――バイト?
 慌てて自転車を押してアオイに追いつく。
「そうなの? え……、いつから?」
「半年前から。滝田のおじさんの店で。荷下ろしの手伝いと、あとバイクで使い走り。……めっさ時給安いけど」
「……そう、だったんだ」
 ――何も聞いてなかった。
 しかも半年も前からだなんて、一緒に暮らしてるのに少しも気付かなかった。最近帰りが遅いのは知っていたけど、友達の家や図書館で勉強してるのかと思っていた。
 だいたいアオイは受験生なのに、バイトなんてどうして……。
 うちは世間並みのお小遣いなら与えられてるし、別にバイトをしなくても高校生として普通にやっていけるはずだ。 もちろん、アオイがバイトをしたところで、あたしがどうこうするわけではないのだけれど。
 毎日顔をあわせていて、こんなに長い間教えてもらえなかった。そう思うと妙にモヤモヤしてきた。
 (お母さんたちは知ってるのかな……?)
「アオイ、なんか欲しい物でもあるの?」
 あたしの問いのあと、アオイが答えるまでには間があった。
「……まあな」
 曖昧な返事が返ってくるまでの、その一瞬の”間”が、あたしの胸のモヤモヤを濃くしていった。
 どうでもいいときに冴え渡る勘のせいで、ピンときてしまう。
 ――追及されることを拒んでいる。
 なんとなく、目の前に衝立を立てられたような感覚だった。
 いつ頃からか、アオイの中にあたしの踏み込めない領域があるのを感じていた。 成長とともに生まれたものなのか、昔からあったけど気付かなかっただけなのか、正直曖昧すぎてよくわからない。
 たかだかバイトの話くらいでこんなことを考えて、馬鹿げてるって思われるかもしれないけれど。
 だけどきっと、気のせいなんかじゃないのだ。





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