ナ ツ ア オ イ

この町で 4



 いつからだろう。
 少しずつ、アオイの背中が遠くなってくように感じたのは。 
 アオイは変わらず優しいし、年頃になって妙な遠慮が生まれたりしたわけでもない。 むしろあたしたち『兄妹』は、おそらく理想的なほどいい関係を保っているだろう。理想的すぎていっそありえないくらいだ。
 それなのに……。
 この遠ざかっていく感じは何なんだろう――。

 

「いっけーーー! ナツーーー!」
 唯の一際大きなかけ声で、あたしは我に帰った。
 (いけない。いけない)
 ぶんぶんと頭を振る。
 (今はリレーに集中しなくちゃ!)
「ナっちゃんがんばれーーー!」
 春香の声も聞こえる。
 あたしは気合いを入れなおして速度を上げた。
 土を蹴って力強く走る。
 グラウンドのトラックの周りを、あと半周。それでゴールだ。それまでに、あと二人追い抜かなくてはいけない。
 白く眩しい太陽の下、汗を散らしてひたすらに駆け抜けていく。
 顔にぶつかる空気の抵抗。少しずつ宙に浮き上がりそうな、この爽快感……。
 あたしは今も、走ることが好きだ。
 ある一定の瞬間を迎えるといつも、自分の足に神様が舞い降りてきたような感覚を覚える。つまり加速度が最高潮に達し、次々に他のランナーを追い越しながら、自分がまるで無敵であるかのように感じるのだ。
 けれど、今日は違った。
 神様が降臨する前に、別のものがあたしにとりついた。
 よそのクラスのランナーを一人追い越しながら、あたしは唐突に、奇妙なデジャヴのような感覚に襲われていた。
 風を切るこの感覚は、何かを思い出させるのだ。
 ……そう、駆け下りる坂道の”ジェットコースター”。 
 そして、目に映る幻影だ。
 あたしの目の前に、見慣れたあの背中が見えた気がした。
 最近よく見る夢と同じだった。その背中が、少しずつあたしのもとから遠ざかっていく……。
 必死に走っているのに、広がっていくばかりの距離。
 (待って。待って!)
 夢中で手を伸ばす。
 (――置いていかないで……!)

 ――――グキッ。

 生々しい音が、自分の足から聞こえた。
 ほぼ同時に襲いくる痛みが、あたしを現実に連れ戻す。
「ナツ!!」
 悲鳴のような、唯と春香の声が耳に届いた。
 あたしは横向きに倒れながら、少し前を走っていた女生徒の背中が遠ざかっていくのを見た。
 (なんだ。アオイの背中じゃなかった)
 (あたし、何やってんのよ……)
 グラウンドの土の上に叩きつけられるように転倒し、足首を締め上げる強烈な痛みにぎゅっと目を閉じる。
 右足に力を入れて立ち上がろうとすると、筋肉に響く鋭い刺激が走った。
「ナツ……!?」
 グラウンドの反対側から、異変を悟った唯と春香、そして女子体育の篠原先生が駆けつけてくる。
「広川さん! どうしたの!?」
 あたしは足首を手で押さえつけながら、苦痛に歪む顔をあげた。
「足が……」
「見せてみなさい」
 手を除けられて、足首を慎重に触られる。 ある場所を押さえられると、身がすくむような激痛が走った。
「……捻挫ね。保健室に行きましょう」
 篠原先生はすぐに状況を察し、あたしの前にしゃがんで背を向けた。
 唯や春香の手をかりて、あたしは篠原先生の背におぶさった。
 クラスの女子がわらわらと集まって来る。
「ごめん、みんな、ヘマしちゃった……」
「ナツ、いいから。早く保健室行って」
「そうだよ、広川さん。早く治療してもらわないと」
 心配げな顔のクラスメイト達に送り出されて、あたしは保健室へ連れて行かれた。
 


 今日の4組との対抗リレーは、クラスの女子総出で気合が入っていた。
 それには理由がある。
 負けたほうのクラスが二階南棟の女子トイレの掃除を肩代わりする、という非常に重大な契約が結ばれていたのだ。
 満を持して、陸上部の経験があるあたしがアンカーに引っ張り出された。
 あっちのクラスには現役陸上部員もいたけれど、勝つ自信はあった。余計なことを考えてミスさえしなければ、だ。 
 もっと集中していれば、あんな妙な幻影に惑わされずにすんだはずだ。
 集中できなかった理由は一つ。昨日の夜から、考えているのは繰り返し同じ事ばかりだった。
 (あぁ。なにしてんだろ、あたし……)
「……つッ」
「軽い捻挫よ。しばらくすれば痛みも治まるから、少しの間これで冷やして」
 保険医が留守の保健室で、篠原先生はあたしの足首に湿布を貼り付け、その上に氷枕を当てた。
 テキパキとした応急処置には抜かりが無い。
 若いのに先生はすごいなぁ、なんて考えながら、あたしは深く溜息をついた。
「保健の水谷先生、もうすぐに戻られると思うから。それまで少しここで待ってて。いいわね?」
「はい。すみません」
 あたしはうなだれるように返事し、保健室から出て行く篠原先生を見送った。
 それからすぐに6時間目の終わりを告げるチャイムが鳴り、少しすると校内がざわつき始める。 ホームルームが終わり、下足場へ流れる人の波がピークを迎える頃、ようやく保健の水谷先生が保健室に戻ってきた。
「ごめんなさいねぇ、ちょっと電話が長引いちゃって。どれどれ……」
 年配女性の水谷先生は、慣れた手つきであたしの足の様子を見る。
 篠原先生のしてくれた応急処置を確認すると、今度は手に軽く力を入れて症状を確かめた。
 さきほどよりは少し和らいだ痛みに、軽く反応する。
「それほどひどくはないみたいね。念のため、体育は少しの間見学しなさいね」
「はい……」
 水谷先生は、湿布の上から包帯を巻きつけた。
「あなた、帰りはどうする? 確か自転車通学だったわよね?」
「あ……」
 ――そうだった。
 あたしは厳重に包帯の巻かれた右足を見た。
 (これじゃ、自転車はこげない、かなぁ……?)
 うーん、とうなっていると、保健室の扉が開いた。
「失礼しまーす!」
 入ってきたのは、既に制服に着替えて帰り支度をした二人組。
「……唯! 春香!」
 唯の手にはあたしのカバン、春香の手にはあたしの制服があった。
 二人とも心配そうな顔であたしのほうに近づいてくる。
「ナツ、大丈夫? ……うわッ、なんかメチャ痛そう」
 包帯でグルグル巻きのあたしの右足首を見て、唯は顔をしかめた。
 春香はショックで目を潤ませている。
「先生、ナっちゃんの怪我、ひどいんですか?」
「軽い捻挫よ。二、三日もすれば普通に歩けるようになるわ」
「……そうですか」
「心配しなくても大丈夫よ」
 ほっとする春香の肩に手をおいて、水谷先生はあたしに言った。
「広川さん、とりあえず着替えを済ませて帰り支度をしてなさい。担任の菅谷先生に車出してもらうようお願いしてみるから」
 先生は机の上の電話の受話器を取り、そして『職員室』と書かれた内線ボタンを押す。
 あたしは二人の肩を借りて、カーテンで仕切られたベッドのほうへ行った。
「ごめんね、ナツ。あたしらがナツを猛プッシュしたせいで……」
 申し訳なさそうに唯と春香が俯いている。
 というのも今回のリレーで、いの一番にあたしをアンカーに推薦したのは、この二人だった。だからあたしの怪我に責任を感じてしまっているらしい。
 でも二人は何も悪くない。
「なんで謝るのよ。完全にあたしの不注意が原因。むしろ、期待を裏切ってごめんって感じだよ」
「ナッちゃん……」
 泣きそうな顔で畳まれた制服を差し出す春香。
 あたしは制服を受け取ると、春香の肩をポンと叩いて笑った。
「泣かないでよ春香〜。ほんと、トイレ掃除ごめんね。今度何かの形で穴埋め考えるからさ」
 その軽い声の調子に、唯と春香はようやく安心したように笑みを浮かべた。
 あたしはモゾモゾと体操服を脱ぎ、制服のブラウスに袖をとおす。
 ハーフパンツの上からスカートに足を通すとき、右足を慎重に動かした。
 (しかし、参ったなぁ……)
 なるべく力を入れないようにしても、鈍い痛みが広がった。
 これではしばらく生活に苦労しそうだ。
 ふうっと溜息をついて着替えを終える。
 再び二人の肩を借りて、ケンケンをするような足取りでテーブルのほうへ戻った。
 その時、ノックもなしに勢いよくドアが開く。
「――ナツ! 怪我したって?」
 あたしたちは一斉にその方向を見た。
「……アオイ」
 アオイとあともう一人。
「高梨先輩も……」
 スラリと背の高い三年生がアオイの後ろから入ってきた。
 アオイの友達の高梨成二(たかなしせいじ)さん。
 高校に入って以来アオイとずっと同じクラスらしく、たいがい一緒に行動している。アオイの親友といったところだろう。うちにも何度か遊びに来たことがあるから、すっかり顔見知りだ。
 静かに保健室の扉を閉める高梨先輩とは対照的に、アオイは相変わらず粗暴な足取りであたしの前までやってきた。
「捻挫だろ? 何もないところですっ転んだって、おまえどんだけドジなんだよ」
 こっちの右足を見て、呆れたような顔で見下ろしてくるアオイ。
 あたしは恨めしげにアオイを見上げた。
「ほっといてよね。ていうか、なんでそんなに詳しく知ってんのよ」
「おまえのクラスの女の子に聞いた」
 悪びれもせずに即答するアオイに少し呆れた。
「……あっそ」
 ニコニコ笑いながら女の子と話すアオイの顔が頭に浮かぶ。なんだか嬉しそうにそれに答える女子の顔も……。
 あたしは面白くなくて、顔をそむけた。
 そこへ高梨先輩が近づいてくる。
「広川さん、相当痛かったでしょ。大丈夫?」
 あたしはパっと顔を上げて姿勢を正した。
「あ、はい。もう痛みは治まってきたんで……。すみません、なんかお騒がせして」
「歩け……ないよね?」
 すごく心配そうな顔で労わってくれる高梨先輩。
 顔見知り程度のあたしなんかをそんなに気遣ってくれて、ほんといい人だ。 落ち着いた雰囲気で、優しそうで、アオイとはまた違うタイプの魅力に溢れている。
 憧れている女子が多いと聞くけど、それも納得できるというものだ。
「だ、大丈夫ですよ。このくらい。歩こうと思えば気合で……」
 あたしは愛想笑いを浮かべながら、椅子から立ち上がろうとする。 痛みもだいぶ治まっていて、なんとか自力で立てそうな気がした。
 でも……。
「……おっと!」
 右足に込めたはずの力はぐにゃりと足首で途絶え、一気にバランスを崩す。
 危うく床の上に倒れそうになったあたしを、高梨先輩が支えてくれた。
「まだ無理だよ。安静にしてないと」
「す、すみません」
 あたしは冷や汗をかいていた。一瞬、またあの激痛がくるかと思ったのだ。
 高梨先輩が支えてくれなかったら、ちょっとヤバかったかもしれない……。
 先輩の手を借りて椅子に座りなおすあたし。思わず青ざめていると、横からオアイに頭を軽く小突かれた。
「なにしてんだよ。落ち付きのない奴だな、おまえは」
 言葉の内容はともかく、アオイの声を聞くだけで妙に安心してしまう自分がいる。
 (ああ、駄目だ……)
 なんだかアオイがそばにいると気が緩んでしまうのだ。この悪い癖をなんとかしなければと、どうにか気を引き締めようとした。
「広川さん、帰りはどうするの? その足じゃ自転車はこげないよね」
 高梨先輩の問いかけで、あたしは俯いていた顔を上げた。
「えっと、菅谷先生に、車で送ってもらおうかな、と……」
 まだ内線電話で職員室と話し中の水谷先生をチラリと見る。
 すると水谷先生は、左手の親指と人差し指でマルをつくったみせた。『グー』の合図だ。
 どうやら菅谷先生に頼めそうみたい。……よかった。
 お母さんが家に居る日なら車で迎えに来てもらうところだけど、今日はあいにくパートに出ている日だ。
 (菅谷先生……)
 (いつもオヤジギャグを馬鹿にしてゴメンね)
 中年の担任教師の顔を思い浮かべて、あたしは心の中で謝罪する。
 今日はお世話になります。……なんて、内心神妙に手を合わせていると、アオイがツカツカと水谷先生の方に歩いていった。
 そして先生から受話器を取り、電話の相手に向かって一方的に話し始める。
「菅谷先生ですか? 俺、3年の広川です。いつも妹がお世話になってます。ナツは俺が家まで連れて帰りますんで」
 (――えっ!?)
「はい大丈夫です。……はい。すみませんお騒がせして。……はい、それじゃ、失礼します」
 さらさらと会話を流し、アオイは受話器を置いた。
 そしてあたしを軽く指差しながら高梨先輩に言う。
「高梨、悪いけど俺、今日の勉強会パス。こいつ連れて先帰るわ」 
 先輩はすぐにうなづいた。
「わかった。みんなに言っとく」
 それからアオイは、何か言おうとしているあたしのほうに顔を向けた。
「ナツおまえ、自分のチャリは置いてけよな。俺がのっけてやるから」
「えッ、い、いいよ。先生の車で……。アオイ、勉強会いきなよ」
 唖然としたままのあたしを無視して、アオイはあたしの座った椅子の前にしゃがみこんだ。
「いいから。ほら」
 背を向けて両手を後ろ向きに差し出してくる。
「…………」
 あたしは硬直した。
 ――ちょっと、待ってよ。
 (まさか、あたしをおんぶして駐輪場まで行くつもり?)
 (ここ、学校だよ?)
 (いくらなんでも恥ずかしいよ!)
 こちらの動揺を知りもせず、アオイはさも当然に正しいことのように、あたしを急かした。
「さっさとしろよ。あんまり担任に迷惑かけるわけにいかねえだろ。どの先生も期末前で忙しい時期だぞ」
 ――う。
 アオイの的を射た言葉にはっとなる。
 そういえば、そうだった。もうすぐ一学期の期末試験がやってくるのだ。
 そこまで気が回っていなかった自分に失望し、アオイはなんでそう色々な事に気が回るんだろう、と今更ながらに感心していた。
 あたしは念のため、右足を軽く振ってみる。が、とても歩けそうにはない。こんなに短時間で急激に回復するはずもなく……。
 仕方なくアオイの背に体を預けた。
 よッ、とあたしをおぶって立ち上がり、アオイは姿勢を正す。
「……あ、あの、ナツのカバン、あたし駐輪場までもっていきますね」
 唯があたしのカバンを持ちながら言った。
「お、サンキュー。助かるわ。悪いね、迷惑かけちゃって」
「い、いえ……」
 なぜか二人して頬を染めている春香と唯。
「それじゃ、水谷先生、お世話になりました」
「くれぐれも気をつけてね」
 アオイはやや不安顔の水谷先生に軽く会釈すると、あたしをおぶって保健室を出た。



「うわッ、シスコンがシスコンやってる!」
 保健室を出たところで、タイミング悪く、竹井に遭遇した。
 竹井は嫌味っぽく顔をしかめて、毒を吐き捨てる。
 これに猛烈に反応したのが、あたしのカバンを運んでくれていた唯だった。
 唯はあたしたちの前に飛び出して、竹井の胸倉を掴む。
「竹井! あんたナツが怪我したの知ってるでしょ。怪我した女子に他にかける言葉はないのかっ。あんたって奴は……。つうか、本気でウザイからさっさと立ち去れ! このノンデリドチビ!!」
「……なっ!」
 唯の気迫に、あっさり怖気づいている竹井。何か言い返そうと口をモゴモゴさせているが、それも敵わないらしい。
 いつもながらあっけない。
 けれど、さきほど彼が発した無神経な言葉は、あたしの胸に痛みを呼び起こしていた。
 ――――『シスコン』。
 その言葉に、あたしはなんだかいたたまれない気持ちになってアオイの背に顔をうずめる。
 しかし当のアオイは特に気にした風でもなく、いつものように余裕の態度だった。
「竹井さんちの馬鹿息子、そういう冴えないことばかっかりやってるからオチビのままなんだぜ。さっさと帰って牛乳飲んでな。イラチにはカルシウムも必要だしな」
「はあっ!? てめえに関係ねーだろ! ほっとけよ!」
 とことん愉快そうにからかってるアオイの言葉に、竹井は本気で顔を真っ赤にして抵抗しようとする。
 しかし胸倉を掴み上げて睨みつける唯には逆らえず、結局その手を振り払って立ち去った。
「あーあ、一日の終わりに、しょうもない奴に関わってしまったわ」
 心底ウザそうに溜息をつく唯。
 あたしと春香はまた苦笑を交し合う。
 アオイはあたしのクラスの下足棚の前まで行き、あたしの靴を出すと、そこでしゃがんだ。
 春香に助けられて、アオイに乗っかったまま、あたしは上靴とローファーの靴を履きかえる。
 その後で、今度はアオイは自分のクラスの下足棚のほうへ向かった。



 三年生の下足場へ行くと、そこに数人の女生徒がいた。
 (――あ……)
 急に後ろめたいような妙な気分になって、あたしは思わず目を伏せる。
 どれも見たことのある顔ぶれだった。
「あれ……、なに? アオイ帰っちゃうの? 西原んところでの勉強会は?」
 アオイと同じクラスの女の子たちだ。 何度かアオイや高梨先輩と一緒にいるのを見たことがある。多分、日常的に行動をともにする同じグループの子達だと思う。
 彼女達の目線は当然のごとく、アオイの背中にくっついたあたしに釘付けだった。
「あー、ゴメンな。今日は俺パス」
 自分の下足箱から靴を取り出しながら、アオイは答える。器用にあたしをおぶったままで。
「ええー」
 不満そうな声があがり、あたしは自分に突き刺さる視線を感じた。
 (なんだか、痛い……)
 アオイの周りの人間にとって、あたしはいつも人気者のアオイを独り占めする”ワガママな妹”だ。
 アオイを独占しようなんて、態度に出したことは無いつもりだけど。何もしなくてもアオイの方からあたしに構ってくれるから、あたしはなんだかんだで調子にのっていたのかもしれない。
 だけど高校生になってから、微妙に状況が変わった。
 あたしに向けられる女の子の視線は、本気で敵意に満ちたものが多くなった気がする。 これは多分、気のせいじゃない。
 あたしたちの血が繋がってないってことは、わりと親しい人間なら知っているはずで……。
 (……イヤ、だな)
 あたしが視線から逃れるように顔を下に向けていると、アオイが突然場違いなくらい軽い調子で話した。
「いや、実はさー。正直ダルかったんだよね、勉強。そんで、コイツを口実に今日はサボろうかと思ってね。いやー、ラッキーだったわ。捻挫万歳!」
 おどけたようなその言葉で、場の空気が一変した。
 女の子たちの視線があたしから離れ、一気にアオイに集中する。
「ちょっとひどくない? 妹ちゃん怪我してんでしょ?」
「ほんと、マジ痛そうで可哀想なのにっ! この兄貴最悪っ」
 あたしに向けられていた少し尖った感情が、アオイへの冗談めいた非難にすり替わってしまった。
 あたしに対しては、むしろ同情にも似た視線が投げかけられる。
 アオイはへらへらと笑いながら、靴をはき終えて、彼女たちに愛想よく手を振る。 結果的にうまく撒いた形で、あたしたちは下足室を出た。
 唯と春香が待ってくれている駐輪場へ向かいながら、あたしはアオイにしがみついていた腕に少し力を込めた。無意識にそうしていた。
 アオイはちゃんとわかっているのだ。
 いつもさりげなく、こうやってあたしを守ってくれる。
 ちゃらけたような態度でも、その目はちゃんと色々なものを見ている。あたしが嫌な思いしないように、ものすごく気を配ってくれている。
 だからあたしは、アオイに好意をもつ人間に、直接害を加えられたようなことは一度も無い。
 あたしはどこまでも守られていた。
 それなのに、こういうさりげない気遣いに気付いたのは、つい最近のことにすぎない。
 長い間ずっと、あたしは本当に何も知らずに過ごしてきたのだ。





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