ナ ツ ア オ イ
この町で 5
家に向かう川沿いの道をそれて、アオイの自転車は駅の方角へ走った。
やがて見えてきたのは『スーバーゆかり』の大きな看板。
あたしはお母さんに買い物を頼まれていたので、そこに立ち寄ってもらったのだ。
だけど歩けないあたしは自転車の後部座席に座ったまま、スーパーの駐輪場でそのまま待機するしかない。
メモを受け取ったアオイが、一人でスーパーの中に入っていった。
自動ドアの向こうに消えるアオイを見送りながら、あたしは右足が動かないことを恨めしく思った。
(久しぶりに一緒に買い物したかったなぁ)
まあ、そもそも足を怪我しなければ、こんなふうに一緒に帰ることもなかったわけだけど。
子供の頃はよく二人でお使いにきて、野菜の見分け方を教えあったり、一緒にお菓子を選んだり、店内で売ってる絞りたてジュースを飲んだり……。なんだか遠足気分で楽しかった。
アオイと一緒に何かをするのが楽しかった。
一緒にいるだけで楽しかった……。
あたしは自転車のサドルに手を触れて、ほんの数分前のことを思い出す。
アオイの自転車はあたしを乗せて、風を切り、河川敷に沿った道をまっすぐ走っていた。
乾いた夏の風がほんの少し緊張したあたしの体をほぐしてくれた。
久しぶりに乗った、アオイの後ろ。広くなった背中。
昔みたいにがっつりしがみついたりできなくて、軽く手を添えるようにアオイの腰に掴まるだけで精一杯だった。
きっとアオイは何も考えてないんだろうけど。
「……なんか、久しぶりだね。子供のときみたい」
なんとなく黙ってるのが気恥ずかしくて、黙々と自転車を漕ぐアオイに話しかけた。
「そうだな。ナツは明らかに重くなったけどな」
「ちょっと!」
背中に軽くパンチを入れると、アオイはけらけら笑った。
「おまえ、外から見るとそんな細いのに、けっこう骨太だよな。カルシウム取りすぎ。……のわりに怒りっぽいけど」
「失礼! あたしそんな重くないよ! それに怒りっぽくも無い!」
「ほれ、言ってるそばから」
「……う〜〜っ」
いつものような軽口の喧嘩が始まって、埒のあかないことを言い合っているうちに、あたしたちはスーパーゆかりに着いたのだった。
レジ袋を一つ下げてアオイが出てくる。
あたしは遠目にアオイの姿を見ながら、改めて思った。
あたしもそりゃ大きくなったし重くもなったけど、アオイも随分身長伸びたよなぁと。
竹井も言ってたけど、今年に入ってまた伸びたに違いない。
頭の高さにどんどん差がついてくる。
昔は同じものを見ていた目が、今は違う高さからものを見ていると思うと、なんだか少し寂しかった。
こうやって、何から何まで距離ができていってしまうものなのかな?
カバンを抱えて神妙な顔をしていたあたしの頬に、アオイはレジ袋をくっつけた。
「うりゃっ」
「ひゃっ……!」
肌に伝わった冷たさに驚くと、アオイはにやっと笑った。
「な、なに今の!? めっさつべたい……」
あたしはその異様な冷気の正体がわからずに、頬を押さえてうろたえる。
「アイスだよ。帰って食おうぜ」
レジ袋に透けて、アイスキャンデーの箱が見えた。お母さんに頼まれてたカレーのルーと、タマネギの下にある。
荷物をまとめて前の荷籠に入れると、アオイは自転車にまたがった。
後ろにもあたしという荷物が乗っかっているのに、ふらつきもせずに滑らかにペダルを漕ぐ。
また、風を切って走りだした。
「――アオイはさ。シスコンとか言われて、嫌じゃないの?」
さきほどの竹井の言葉を、あたしは思い出していた。
竹井に限らず、周りの人間はきっと、口に出さなくても同じように思ってるかもしれない。
アオイはいつも軽い調子で笑ってるけど……、そういうのって、ほんとに嫌な気分になったりしないのだろうか。
すると、間髪いれずに答えが返ってきた。
「別に。そんだけ家族円満って、自慢できるみたいでむしろ嬉しいじゃん」
「…………」
とても何気ないことみたいに、むしろ当たり前のことのように、アオイの言葉はあまりに滑らかに口から流れ出た。
それが本心からの言葉なのだとわかってしまうから、あたしはアオイが少し可哀想になる。
――――家族。
それはきっと、アオイにとって特別な意味を持つ言葉なのだ。たぶんあたし以上に、ずっと……。
考えるほどに切なくさせる、アオイを突き動かしている強い思い。
幼いアオイの孤独な背中が見えた気がして、胸が痛んだ。
つい彼を笑わせたくなって、あたしは口を尖らせてわざと変な声を出した。
「ふむふむ。今時、殊勝な若者だなぁ〜キミは〜」
目論みが成功して、アオイがぷっと吹き出す。
「誰のモノマネなんだよ。わっかんねーよ」
笑って揺れてるアオイの背中を、あたしは見た。
風を受けてなびく制服のシャツ。
その下からのぞくオレンジのTシャツ。
光を含んで揺れる柔らかい髪。
少しだけ振り返った、笑った横顔……。
(……ああ、そうだ)
あたしはその時、ようやくはっきりと理解した。
アオイは今も、昔と同じアオイのままだ。本質的にはきっと変わっていない。
――変わっていないのだ。
だから、彼が遠くなったと感じてしまうのなら、それはきっと……。
突然、キキっと音をたてて自転車が止まった。
ハっと我に帰って前を見れば、アオイの肩の向こうに赤信号が見える。
思考を離れて現実に戻ったばっかりのあたしに、唐突にアオイが問いかけた。
「――なに考えてたんだよ」
「……え」
あたしはかなりドキっとした。
「な、なにって……?」
「どうせボーっと考え事でもしてて足挫いたんだろ」
(あ、ああ、なんだ、体育の時間のことか)
一瞬、思考を読まれたかと思って焦ったけど、そんなはずもなかった。
とはいえ安心したのもつかの間、どっちにしても答えようが無くてあたしは言葉につまる。
視線を泳がせて、うつむいた。
(なんで、そうやって色々お見通しなのかなぁ……)
肩越しに、アオイのからかうような目線が飛んでくる。
「おら言ってみろ。授業中に一体なに考えてたんだよ?」
「えっと……」
「なになになーに?」
何かを期待するかのような、アオイのニヤニヤ顔がなんか嫌だ。
あたしはちょうどいい逃げ道を思いついた。
「……ほら、あの、えーと、そう、お母さんたちの結婚記念日のことだよ! 一泊旅行、どこがいいかな〜って……」
アオイは納得したように、でもなんだか少しつまらなさそうな顔をする。
「ふーん。なるほどねぇ」
信号が青にかわり、再び自転車が走り出す。横断歩道を渡り、先の道へ進んだ。
アオイはあたしの適当な言葉をあっさり信じたようだった。あたしのことを色々とお見通しなくせに、肝心なことには気付いていないのだ。まあ、そのことが今は救いでもあるのだけれど……。
「……って、アオイ? あれ? どこ行くの?」
あたしを乗っけた自転車は、気がつくと家の方向ではなく、緑の茂る野山の方へ向かっていた。
家に帰るには、さっきの信号の四辻を左に曲がらなくちゃいけない。それなのに角を曲がらずに直進している。
建物がどんどん疎らになって、住宅街から遠ざかっていく。
農家のビニールハウス郡を抜けて、更にその先にある雑木林へと進んでいった。
細くなった路の両脇には、山からの湧き水が流れる用水路が流れている。水際にセリが生えていて、ちっちゃいアマカエルが飛んでいた。
――懐かしい。
「ここって……」
久しぶりに通る道だった。
子供の頃、毎日のように通った遊び場所だ。
自然の豊かなこの町で、子供が遊び場所に不自由することはない。だから他にもたくさんお気に入りの場所はあったけど、今向かっている場所は特別だ。
「久しぶりに、アレ、やろうぜ〜」
アオイはすっかり子供みたいな話し方になっていた。
ペダルを漕ぐ足取りは、少し上り坂なのに軽い。
アオイがその場所を目指していると知り、あたしは期待と不安でドキドキした。
なだらかな坂を上がる。
すると道はコンクリートから石畳に変わって林の中に続いていく。
林の中は、結構古い大きな木なんかもあって、クワガタを取ったり、カクレンボをしたり、木登りをしたり、タイムカプセルを埋めたり……、とにかくたくさん懐かしい思い出のある場所だ。
デコボコした路を走る自転車から、不規則に痺れるような振動が伝わってくる。
人影も無く、鳥の鳴き声だけがする静かな景色の中に、自転車のタイヤが地面を擦る音が大きく響いた。
湿っぽくてひんやりとした空気。葉の隙間から夕暮れ間近の鈍い光が降り注ぐ。
上を見上げると、トンネルの屋根みたいに、木々の枝が無数の手を広げていた。
近くの小学校のチャイムの音が聞こえて懐かしい気分になった。子供の頃はあれを合図に遊びの時間は終わったっけ……。
路は途中で二つに分かれていて、自転車は左側へと進んだ。
石畳の不安定な道が終わり、再び滑らかなコンクリートの感触に変わる頃、視界が大きく開けた。
あたしたちの眼下には一面に緑の水田が広がっていた。
膝丈にまで成長した苗が寄り添って、緑の絨毯を作っている。何枚も何枚も、ほぼ地平線の先まで敷き詰められていた。
このあたりは有名な米の産地でもあるのだ。
その広大な水田地帯の間を、蛇が這うように細長く延びる、白っぽいコンクリートの道がある。
その道に繋がるのは、あたしたちの足下から続くとても急な坂道だ。
「変わってねーなー」
自転車を止めて、アオイは額に手をかざした。
あたしも同じようにする。
開けた視界に眩しい日の光が広がり、西の空が微妙に紫色を帯びていた。
随分と久しぶりだった。ここへ来るのは何年ぶりだろう。小学校を卒業して以来かもしれない。
「よっしゃ、行くか」
「……ほんとに、やるの?」
「恐いか? 恐かったら、降りてもいいぞ。走って追いかけてこい」
「……降りないよ。ていうか走れないし」
アオイは自転車のハンドルを握りなおし、車体を坂道の正面に動かす。
あたしはアオイの腰に手をまわしてしがみついた。
「しっかり掴まってろよ」
「……うんっ!」
言うが早いか、アオイは一気に地面を蹴る。
自転車はその急な坂に傾き、重力のままに吸い込まれるように凄まじい速度で坂を下り始めた。
「おーーっ、爽快ーーーっ!」
体に激しくぶつかる風と、ビュンビュン駆け抜ける爽快感。
あたしはアオイの背中にしがみつきながら、スリルに満ちたその一瞬を味わっていた。
ブレーキをかけないままの自転車は、傾斜の激しい坂をあっという間に駆け下りて、その後も失速せずに水田の間の道を走り抜けていく。
ビュオオオオって、耳元で風の音。
空気を割るように、ロケットのような勢いで進んでいく。
――――”ジェットコースター”。
自転車で駆け下りるこの坂道を、あたしたちはそう呼んでいた。
よい子は真似しちゃいけない、結構危険と隣り合わせの行為。
まわりには人の姿もなくて、もちろん車なんかありえなくて、視界は180度開けていて、だからこそできることだ。
一度やると病みつきになるような爽快感だった。
それでもあたしは自分一人でこれをするのが恐くて、いつもいつもアオイの後ろに掴まっていた。
一瞬のひやっとするようなスリルよりも、坂を下りきったあとの、鈍くなりかけたくらいの速度が好きだった。
残った勢いで平らになった道をゆるゆる進みながら、あたしはようやくアオイにしがみついていた腕を放した。
「やっぱいいなー。なんかすげースッキリしたわ」
「うん! すっごい気持ちよかった!」
あたしは風に乱れまくった髪をおさえて、大きく息をはいた。
アオイはなぜかおかしそうに笑っている。さっきの風圧で彼の前髪は逆立っていた。
(うわ、オデコ全開だよ)
「おまえ、すげービビってたよね。もう少しで俺の柳腰が砕かれるかと思った」
「柳腰って……、ていうか、え、そんなに力入れちゃってた?」
恥ずかしくなってあたしは抱えたカバンに顔をうずめる。
確かにあの瞬間はアオイに必死にしがみついていたけど……。
「相変わらず恐がりだからなぁ。ナツは」
「だって女の子だもん」
「よく言うぜ」
駆け下りた坂道から随分遠ざかって、自転車は動きを止めた。
何かを思い出したように、アオイは前カゴを覗き込む。
「やべ、アイス溶けた……」
「あ、そういえば」
カゴに入ったままのスーパーの袋を、アオイは指で突付く。
あんなに冷たかったアイスの紙の箱が、じっとり水を含んでブヨブヨになっていた。
「あーあ、もったいね〜。ドライアイス入れてもらえばよかった」
「今晩、もったいないお化けが出るね」
「出ねーよ。俺、溶けても食べるから」
「うわぁ、いやしん坊」
「そういうおまえは食いしん坊……。いや、”坊”って、なんか違うな。食いしん”娘”? 食いしん”子”? ……どっちがいいと思う?」
「もういいよ……」
「そういや腹減ったな。さっさと帰るか」
アオイはペダルに乗せていた足に、再び力を入れなおした。
水田の中をゆっくり進みはじめ、あたしはまた手のやり場に困る。
何度かサドルの下あたりを持ってみたりしながら、でも危ないので恐る恐るアオイに軽く掴まった。
何もかも忘れて思いっきりしがみつけたのは、坂を下りた、あのほんの一瞬だけ。
あたしの目にはまた、アオイの近くて遠い背中が映っていた。
薄暗くなってきた空の下、水田地帯を抜けてしばらく進むと車道に出る。その脇の歩道にあがって、まっすぐに家の方向へ進んだ。
「アオイ……」
「ん?」
「今日は、ほんとにごめんね」
深刻なあたしの声に、アオイは呆れたように笑った。
「さっきも言ったじゃん。俺はサボれる口実ができて内心喜んでたんだから。おまえが気にするなって」
「…………」
――そんなはずないよ。
言葉にせずに問い掛けた。
(アオイ、夏に入ってからすごい受験勉強に本腰入れてたじゃない?)
(かなり本気モード入ってたじゃない?)
アオイがあたしのこと色々お見通しなように、あたしだってそのくらいわかるんだ。本当はそう言いたかった。
言いたかったけど……。
けれど、言葉はグルグルと胸の中を泳ぐだけ。
習慣のように降り注がれてきた小さな優しい嘘を、今更暴いて空気を変えてしまうのが恐かった。
だからいつものように、あたしは何も知らないふりをする。
アオイの背中に、コツリと額を当てた。
「……ありがとう、アオイ」
道路を通り過ぎていく車の音で、小さく発した声は掻き消されただろう。
アオイの優しさはいつも、あたしの心に色々なものを溢れさせてきた。
――『色々なもの』。
そこには、未知の感情。この特別な想いさえも……。
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