ナ ツ ア オ イ

この町で 6



 家に着いた時には、ほとんど日が暮れていた。
 リビングの灯りが窓越しに見える。
 アオイにおぶられて玄関に入ると、お母さんが走って出てきた。外行きの服のままのところを見ると、今帰ったばかりのようだ。 
「遅かったじゃない。ナツ、怪我したって? 菅谷先生の声が留守電に入ってたけど……」
 あたしの姿を見ると、お母さんは少し安心したような顔になった。
「たいしたことないよ。軽い捻挫だって。アオイの後ろ、乗っけてもらっちゃったし」
 お母さんの手を借りて、アオイの背から下ろされる。靴を脱ぐと、そのまま肩を借りてフローリングの床を進んだ。
 八年前に最初の家屋が台風で倒壊したあと、この家は建て直された。
 壊れた古い家と違って、完全に洋装建築だ。
「母さん、これ」
 アオイは手にしていたスーパーの袋をお母さんに渡す。
「あらっ、ちゃんと買ってきてくれたのね。アオイくんがいてくれてよかったわ。ほんと」
 袋を受け取り、エプロン片手に慌しく台所に向かうお母さん。
 その後をアオイが追った。
「俺なにか手伝う。タマネギ切ろうか?」 
「まあ、助かるわぁ〜。でも勉強の時間削っちゃマズイんじゃない?」
 そこへ、食卓の椅子に座ったあたしが口を挟む。
「アオイは勉強サボリたかったんだって。だからお母さん、口実に乗ってあげてよ」
 少し意地悪く言うと、アオイがキッチンからしかめっ面をのぞかせた。
「ナツ、おまえ最近性格悪くなっただろ」
「ふーんだ。アオイがさっき自分で言ったことじゃない」
「だからっておまえなぁ」
 冷蔵庫からニンジンとジャガイモを取り出していたお母さんが苦笑している。
「二人ともやめなさい。……あっ」
 野菜類を出した後、なにか思い出したらしい。
 お母さんは、四角い紙の箱のようなものを冷蔵庫から取り出してきた。
「これこれ! 忘れてたわ!」
「なに? それ」
 あたしはテーブルに身を乗り出して、アオイはお母さんの真横からそれを覗き込んでいる。
 箱の形からなんだか良い予感がして、二人とも興味津々だ。
「千鶴ちゃんよ。千鶴ちゃんがさっき届けてくれたのよ。ほら!」
 テーブルの上に箱を置き、お母さんはパカっと蓋を開ける。そこには甘い匂いの、ホールのフルーツタルトが丸ごと入っていた。
 あたしは思わずゴクリと喉を鳴らす。すきっ腹が刺激されて音をたてそうだった。
 でもその高揚感に、アオイの一言が水を差す。
「すげーっ、さっすが千鶴! やるじゃん!」
 アオイは目をきらきら輝かせて、箱の中に吸い寄せられそうな顔をしている。
「…………」
 あたしはなんだか面白くなくて、黙り込んだ。
「食後に食べましょうね〜」
 お母さんも、すごく嬉しそうだ。お父さんがいてもきっと同じような反応をするに違いない。この家はみんな揃って甘いものが大好きなのだ。
 もちろん、あたしだって嬉しい。嬉しいけど……。
 『千鶴ちゃん』というのは、三つ向こうの通りに住んでいる、あたしたちの幼馴染のことだ。
 アオイと同級生で、今は少し離れた私立校に通っている。髪が長くて色の白い、 こんな田舎では珍しいくらい可愛い女の子。しかも、おじいさんとお父さんが代々大山手市の市会議員という、 結構なお嬢様ときた。
 高校が別々になってから学校で会う機会はなくなったけど、時々こうやって手作りお菓子を届けてくれたり するのだ。
 きっと、今日のタルトもすっごく美味しいんだろうな……。
 それは千鶴ちゃんが器用で料理上手だという理由からだけじゃない。多分、特別な愛情が込められているからだ。
 千鶴ちゃんはおそらく、アオイのことが好きなのだ。
 いそいそとタルトを冷蔵庫にしまい、お母さんとアオイは浮き足立って夕飯の準備を始めた。
 デザートのお楽しみがあるせいか、二人とも異常に上機嫌でキッチンを行ったり来たりしている。
 立って手伝うことができないあたしは、食卓の椅子に座ったままテーブルの上で、サラダ用のレタスを ちぎったりトマトを切ったりしていた。
 つい乱暴にレタスをむしったせいで、やけに見栄えの悪いサラダが出来上がる。 少し反省し、せめて盛り付けを綺麗にしようと頑張った。
 カレーの匂いが立ち上る頃、外でバイクの止まる音がして、お父さんが家に入ってきた。



 次の日は、朝から雨だった。
 あたしの捻挫のこともあって、みんないつもより早く起きてくれていたけど、結局あたしとアオイ、 まとめてお母さんの車で送ってもらうことになった。
 お母さんはあたしたちを下ろした後、その足で大山手市までパートに出かけなくちゃいけない。 しかも今日は早出の日だ。だから、それに合わせてかなり早めの登校時間になる。
 朝日を遮ってしまった分厚い雲から、細かな雫がしとしとと降り続く。
 県道を走る車の窓から、見知った人影が目に入った。
 少し先の歩道を歩いている、白い傘の女の子。
「……あ、千鶴ちゃんだ」
「え? あらっ!」
 あたしの声に反応し、お母さんは少し先の道の脇に車を寄せた。そこで一時停車させる。
 アオイが助手席の窓を開けて、千鶴ちゃんを呼んだ。
 振り返った千鶴ちゃんは少し驚いた顔で、こっちに走り寄って来る。
「おばさんっ、おはようございます。アオイくんとナっちゃんも、おはよう」
 (相変わらず礼儀正しいなぁ……)
 あたしたち一人一人の顔をちゃんと見て、挨拶をする笑顔が爽やかだ。朝なのに、しかも雨なのに キラキラして見える。思わずニュースの”お天気お姉さん”を髣髴(ほうふつ)とさせた。
 女子高の白いセーラー服もまた眩しい。
「はよっす」
「おはよ、千鶴ちゃん。……千鶴ちゃんって、毎日こんな早いの?」
「そうなの。片道1時間半かかっちゃうから。朝ナっちゃんたちに会うなんて初めてだよね。ビックリしちゃった」
 遠方の私立校へ通う千鶴ちゃんとは、毎朝家を出る時間が1時間近く違う。 だから登校途中に偶然出会うということは、これまで一度も無かった。
「千鶴ちゃん、乗っていきなさいよ。この子たち下ろした後、あたしも駅まで行くから」
「うわぁ、助かりますー」
 お母さんの勧めで、千鶴ちゃんが後部座席に乗り込む。シートベルトを締めると、車は再び走り出した。
「千鶴ちゃん、昨日はありがとう。すごい美味しかったよ」
 なんだかんだで結局、あたしもタルトを頂いてしまったのだ。複雑な気分を忘れ去るほど、 それはもう期待通りのとろけるような美味しさだった。
「ほんとに? よかったぁ。そう言ってもらえると、ほんとに嬉しい」
 にっこり笑う千鶴ちゃん。
 そこへ、アオイが助手席から身を乗り出して会話に参加した。
「マジうまかったよ。職人とかになれるんじゃね? あれだよ、あの、なんだっけ……、パーティーシェフ……?」 
「”パティシエ”でしょ」
 あたしとお母さんが同時に突っ込んで、千鶴ちゃんは少し照れくさそうに笑っている。
「あ、ありがとう。でも、そんな大げさなこと言われるとさすがに恥ずかしいなぁ」
 アオイは今度は横流しな視線をあたしに向けた。
「あーあ、ナツもあれくらいできればなぁ。なんせ三分待つだけのカップラーメンですら失敗するからなぁ……」
「ちょっと! 余計なこと言わないでくれる。アオイだってしょっちゅうパスタの茹で時間、 間違えまくってるじゃない。あんなの単純に茹でるだけなのに。キッチンタイマーつけ忘れてさ」
「仕方ないだろ。男は野球に夢中になると時間を忘れるもんだ」
「都合のいいときだけ野球の話持ち出すのやめてくれる? なんか最近言うことがオヤジっぽいよ?」
「オヤジっておまえ! この、爽やかナイスガイを捕まえてなんつーことを!」
「ナイスガイって……、その言葉づかいが既にオヤジだから」
「オヤジいうな!」
 ぎゃあぎゃあと騒がしくなった車内で、お母さんが呆れた声を出す。
「もう、やめなさい。朝から。……ごめんなさいね、千鶴ちゃん」
 千鶴ちゃんはクスクス笑いながらなんだか楽しそうだ。
 あたしはふと彼女を見て、白いふっくらした横顔に思わず見とれた。
 (千鶴ちゃん、また綺麗になったなぁ)
 (なんだか大人っぽくなったし)
 大人になって綺麗なっていくって、こういうのを言うんだろう……。そんなことを考えていると、 アオイが窓の外を見ながら思い出したようにつぶやいた。
「しかし、今年の梅雨はよく降るよなぁ。来週の祭り、大丈夫か?」
 千鶴ちゃんも顔を上げて外を見る。
「そうそう、岩上神社の夏祭り、来週の日曜だったよね。それまでには梅雨が完全に明けてくれるといいんだけど……」
「あら、もうそんな季節なのねぇ。早いわぁ」
 驚くお母さんと同じように、あたしも言われて初めて気がついた。
 岩上神社の夏祭り。それは毎年七月半ばに開催される、この町の非常に大切な恒例行事だ。
 あたしたちの夏は、いつもそこから始まると言っても過言ではない。
 もうそんな季節がやって来たなんて……。
 本当に一年って早い。
「なんだか今年も、青年会の人たち、はりきってるみたい」
 困ったように笑いながら千鶴ちゃんは話す。
「そういえば、千鶴ちゃんのお兄さん、去年まで青年会の幹部やってたよね」
「うん。今年はOBでも何かやるーって、仲間内で盛り上がっちゃってるの」
「へえー、それは楽しみ」
 この町には『八重里青年会』というものがある。
 要するにこの町に住む高校生以上の若者たちが、色々企画して町を盛り上げていこう、という感じの組織だ。
 中でも夏祭りは一番大きなイベントで、あたしたちの高校に限っては、周辺地域から通ってる子達まで呼び込みのターゲットになる。
「今年もやるのかなぁ、アレ……」
 あたしの呟きに、アオイが同調するようにうなった。
「ああ、アレな。キモダメシな」
 そう、キモダメシ。あれはキツイ……。こんな田舎でやると、本気で恐いのだ。
「あれって、企みがバレバレなんだよな。近場でカップル練り上げて結婚させて、 町の過疎化を防ごうとしてやんの」
「えっ、そうなの!?」
 アオイの珍しく冷静な考察に、あたしは思わず声をあげた。
 さすがにそこまでは考えてなかった。確かに必ず男女一組でペアになる決まりだけど……。 そういえばあたしは去年、逃げに逃げて裏方に回っていた。
 千鶴ちゃんは苦笑を漏らす。
「アオイくん、そういうこといっちゃ風物詩も楽しめないよ」
「風物詩か? あれが? ……別にいいけどさ。楽しけりゃなんでも」
「ほんと楽しそうよねぇ。若いっていいわねぇー」
 お父さん誘って参加させてもらおうかしら、なんて、のん気なことを言っているのはお母さんしかいない。
 あたしは大きな溜息をついて、曇った窓ガラスの外を見る。
 水滴の向こうに、雨でぼやけた色の景色が広がっていた。
 何かが動き出す夏……。
 そんな予感すらまだ抱いていなかった、七月初めの雨の朝。
 あたしはただ祭りの日が晴れるように、雨空を見ながら願うだけだった。





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