ナ ツ ア オ イ
恋と秘密 6
あたしって、こんなに嫌な子だったんだ。
今まで知らなかった醜い感情に直面して、鏡で自分の顔を見るのさえ嫌になっていた。
千鶴ちゃんにあんな八つ当たりみたいなこと言って、高梨先輩にも……。
あの日の夜、先輩から電話があった。
あたしのあまりに沈んだ声に、先輩は言葉も無い様子で。
何か話がしたかったようだけど、結局何も切り出さないまま電話を切ってしまった。
高梨先輩には何の責任もないのに、あたしはまた気の利いた言葉も出せないままだった。
そして、あたしとアオイ間の亀裂は、これまでになく深刻なものとなっていた。
これまでのようなあたしの一方的なヒステリーではなく、アオイの方もなにやらあたしに距離をとるようになったのだ。
お父さんとお母さんは目に見えて動揺していて、突然「休日にみんなで出かけないか」なんて、
あからさまな気の使い方をしていたけれど。
あたしたちの関係は八月後半に入っても膠着状態だった。
そんな中、アオイはオートバイを買った。
自動二輪の免許は既に持っていたんだけど、どうやらバイトで資金をためていたらしい。
それに乗ってたびたびどこかへ遠出している。
千鶴ちゃんも一緒かもしれない。
あの新しい乗り物の後部座席はもう、完全に“彼女”と呼ばれる人の特等席なのだろうか。
満足げに車体を磨いているアオイを見かけると、あたしは無性に悲しくなった。
「でもさ、それって考えようじゃない?」
メロンソーダをかき混ぜながら、唯は冷静な意見を述べる。
「広川先輩は、その別の学校の幼馴染の人と付き合ってくつもりなんでしょ。だったらいっそ、家を出て遠くの大学へ行ってくれたほうがナツとしても諦めがつくんじゃない?」
「それは……」
「嫌でしょ? 日常的に二人のラブラブを見せ付けられたりするのは」
「あ、あたしは別に、アオイが千鶴ちゃんと付き合ったって、別に……」
口が曲がりそうだったので、それ以上は言葉にしなかった。
――別に関係ない、なんて……。
今更、空々しい。
唯にだってとっくに見抜かれているのだ。
「案外先輩も、そういう気まずさを避けようとして、東京の大学受けるのかもしれないしね」
「そんな、そんなのって……」
あたしは思わず顔をしかめた。
もし唯の言う通りなのだとしたら、さらに嫌な気持ちになる。
そんな軽薄ともいえる事情で、そんなに簡単に、自分の進路を変えてしまうアオイが嫌だった。
あたし自身は進路について少しも真剣に考えたことが無いのに、勝手だとは思う。
だけど、あたしはアオイのことを勝手に信じていたのだ。
アオイはふざけていても確固たる信念みたいなのを持っている人間だと思っていたから、
そんな安易な選択をしたのかと思うと腹が立った。
一方的に、とても身勝手に失望を感じていた。
「……にしても、遅いわね、春香」
業を煮やしたように唯が時計を見る。
待ち合わせは十一時だった。
今はもう、11時40分。
あたしが注文したアイスティーも、唯のメロンソーダも、とっくに底をついていた。
夏休み前半の夏期講習が終わってから、あたしたちは春香とは一度も会っていない。
春香から連絡は無かったし、あたしたちとしても、川瀬くんという彼氏ができた春香に少し遠慮していたのだ。
毎年3人で行っていたプールも花火大会も、今年は唯とあたしの二人で行った。
だけど今日はなぜか、唯が春香を呼ぶと言い出した。
思えば唯は今日、あたしの話を聞きながらも心ここにあらずという感じだった。春香が来るのを待ちわびているのは態度からわかる。だけど、何か様子が変だ。
「もう一度、春香にかけてみようか?」
あたしは携帯を取り出して、春香のメモリを呼び出す。
発信ボタンを押そうとしたところで、カフェの扉が開いて、春香が姿を現した。
近くまできた春香の姿を見て、あたしは眉をひそめた。
「春香……、どうしたの? 大丈夫?」
随分と顔色が悪く、前に会った時よりえらく痩せて見えた。
「調子悪かったんなら、無理に来なくても、言ってくれたら……」
「ううん、大丈夫。そういうんじゃないから……」
弱々しく、無理したような笑いをあたしに見せる。春香は危なっかしい足取りで椅子に座った。
間近に見る春香の目の下に、はっきりとクマのようなものまで見つけてしまい、
あたしはやっぱり様子がおかしいと感じた。
でも、おかしいのは春香だけじゃなくて……。
「春香、あたし、余計なお世話かもしれないけど、実力行使に出たから」
唐突に、唯が強い口調でそんなことを言った。
あたしは驚いて唯の方を見る。
唯の表情は固く、険しかった。
春香は若干怯えるような目で唯を見て、震える手を口元にあてている。
「唯ちゃん、なに、どういうこと……?」
状況が読めないあたしも、唯に説明を求めるべく視線を送る。
唯は答える代わりに、しきりに外の様子を気にしながら、何かを待っていた。
やがてチリンチリンという涼しげな音とともに、カフェの扉が開き、新たな客が入ってくる。
その人物の顔を見て、あたしはまた驚いた。
そして、なぜかあたし以上に春香が瞠目していた。現われたのは金茶の髪の男の子。
他でもない、春香の彼氏の川瀬くんなのに……。
川瀬くんに向かって軽く手を挙げる唯。
彼はあたしたちのいるテーブル席まで歩いてきた。
「唯、ちょっと、どういうこと?」
「あたしが呼んだの。ナツには何にも話してなくて悪かったけど……」
硬い表情で話す唯と、相当困惑した様子の春香。
あたしはいまだ状況がつかめず、ポカンとした顔で川瀬くんを見ていた。
川瀬くんは、一度軽く春香の方に目を向けたあと、表情を変えてジロリと唯を見た。
唯は少しも動じることなく、平然と言い放つ。
「まあ、突っ立ってないで座れば。そこ、春香の隣にね」
間を置いてから無言で腰を下ろす川瀬くん。その表情は剣呑だった。
春香の反応も明らかにおかしい。どう見ても大好きな彼氏に会えて喜んでいる様子はない。
沈黙に耐え切れず、あたしは唯の腕を掴み、小声で問い詰める。
「ねえ、説明してよ。なんなの?」
「そうね、ちゃんと説明しなくちゃね。ただし、説明するのはあたしじゃなくて……」
唯は言いながら川瀬くんに目を向けた。
表情とイントネーションが、どことなく喧嘩腰だった。
わけがわからないけど、あたしもつられるように川瀬くんのほうを見ていた。
彼は特に動じた様子もなく、唯の視線を正面から受け止める。けれどその表情は、やはり穏やかじゃない。
張り詰めた空気が漂っていた。
少しの間沈黙が続いて、それから、低い声で川瀬くんが言った。
「……俺に、何が言いたいわけ?」
凄むような声音には、あきらかに不快感がにじんでいた。
鋭い目線と相まって、はっきり言って怖いけど、唯のほうは少しも引こうとしない。
「しらばっくれないでよね。あんた、春香に何したのよ。思い当たるふし、無いなんて言わないわよね?」
先程よりキツイ口調で、問い詰めるように唯は話す。
川瀬くんの表情は変わらず、冷たい声が返った。
「まったく意味わかんね。突然こんなとこに呼び出して、何ボケたことほざいてんだよ、あんた」
この川瀬くんのセリフに、唯は激昂した。
ドンッとテーブルを叩いて勢いよく立ち上がる。
「見損なったわ川瀬洋介! あんたマジでサイテーよ!」
川瀬くんの眉がピクリと動いて、更に不穏な目つきで唯を見る。
あたしは状況についていけず、目の前で散っている危険な火花にオロオロするばかりだった。
その一方で、春香の異常にうろたえた様子に気づいた。
先ほどよりも顔色を悪くして、横から必死な表情で唯の腕を引っ張っている。
「ゆ、唯ちゃん、待って。落ち着いて。……多分、なにか誤解してる」
腕を引かれた唯は怪訝な目で春香を見る。
「誤解って、なにが。あれ以上の証拠なんてないじゃない。このサイテー男が元凶なのははっきりしてるわよ」
“サイテー男”という言葉と同時に川瀬くんを思いっきり指差す唯。
その指をなだめるように押さえ込みながら、春香は涙目になって必死に何かを訴えようとしていた。
「だから、違うんだって。全部、あたしの早とちりだったの。確認したけど、……な、何も無かったから……」
言いにくそうに、消え入りそうな声でボソボソと告げる春香。
唯は顔をしかめたまま動きを止め、春香をまじまじと見る。
あたしは相変わらず呆気にとられたような表情で、目をパチパチさせているだけだった。
驚いたことに、状況が掴めていないのはあたしだけではなかった。
当の川瀬くんも、本気で何のことかわからないらしく、怪訝な表情で唯と春香のやり取りを見ていた。
しばらくしーんと静まり返り、唯は気を落ち着かせるようにして、自分の席に腰を下ろした。
さっきよりは少し冷静な声になる。
「春香、あんたの今の顔見て、“何も無かった”なんて、信じられると思う?
ここに川瀬がいるからそんな嘘ついてるんでしょ? そうとしか考えられない」
「唯ちゃん、あたしは……」
「ほんとのこと言いなよ。なんなのよ、その顔色、そのやつれ方。どう説明すんのよ!」
再び興奮しはじめた唯。
青い顔で、言葉を選びながら口ごもる春香。
状況についていけないあたしと、同じく状況が読めないながらも不機嫌そうな表情を浮かべている川瀬くん。
このままでは事態に収拾がつかないような気がして。
あたしは何か言葉を挟もうとしたけど、それより早く春香が耐えかねた様に席を立った。
そのまま逃げるようにカフェの外へ飛び出していく。
「春香!!」
「池内!!」
あたしが立ち上がるより早く、川瀬くんが春香の後を追って出て行った。
店内に残されたあたしと唯は、しばらく無言だった。
何かに激しく苛立った様子の唯と、どうすればいいのか戸惑うばかりのあたし。
しばらくして、川瀬くんは一人でカフェに戻ってきた。
「……春香は?」
唯の問いに、川瀬くんは憮然と答える。
「帰った。とても話なんてできる状況じゃなかったし」
あきらかに不快な様子で、川瀬くんは唯の前に立った。
いくら彼でも女の子に暴力はないだろうと思ったけど、この時放たれていたオーラは非常に攻撃的だった。
あたしはいつでも止めに入れるように、手に汗を握り締める。
だけどその必要はなかった。川瀬くんの声は、何かを押し殺したようではあったけど、至極冷静だった。
「説明しろよ。マジでわけわかんねぇ。あいつ、池内に何があったんだ」
「…………」
唯は鋭い目で川瀬くんを見上げ、そして静かに目線をテーブルに落とした。
彼女の口から語られた話に、あたしは完全に言葉を失っていた。
あたしはその日、ショックのあまり、どうやって家にたどり着いたのかも覚えていない。
とにかく信じられない思いでいっぱいだった。
いつまでも夢見る少女だと思っていた春香が、生々しい大人の世界に足を踏み入れいてたのだと知ってしまった。
言葉は悪いし大げさかもしれないけど、まさにそんな印象だったのだ。
今時……なんて思われるかもしれないけど、あたしにはそれだけ衝撃が強かった。
とはいえ、この状況で悪いのは春香ではなく、どう考えても相手である川瀬くんのほうに思えた。
唯の話はこうだ。
近況を探ろうと唯が春香に電話をかけたのが、ちょうど一週間前のことだったという。
春香の声はなんとなく元気のない様子で、川瀬くんとのことを尋ねても、言葉を濁していたらしい。
気に掛かりつつも、唯はそれ以上は追及しなかった。
そしてその次の日に、唯は偶然にも春香と駅で遭遇した。
春香の様子はやはり変で、しかも体調が悪そうで、貧血を起こして倒れかけていたそうだ。
唯は慌てて春香を支え、彼女の家まで連れ帰り、彼女の部屋にあがった。
記憶ではいつも綺麗に片付いていた春香の部屋には、随分と物が散乱していて、足の踏み場もないほどだったらしい。
春香のお母さんは留守だったので、唯は春香をベッドに寝かしつけて、看病をした。
暑さにやられていたものの、貧血の症状はさほど重くなかった。
けれど春香は偶然にも、散らかった春香の部屋で、あるものを見つけてしまった。
それは春香にはあまりにふさわしくない、ありえないはずの代物だった。
――――”妊娠検査薬”。
開封済みのそれは、既に使用された後だった。
唯は春香に問い詰めた。
けれど春香は口を割らない。
追及されることを強く拒んでいたらしい。
業を煮やした唯は、今度は川瀬くんに連絡をとった。
詳しい話は出さず、それとなく春香とのことを尋ねてみたそうだ。
すると彼の返答は、あまりに短く簡潔な、たった一言だった。
「最近会ってないから知らない」と――。
まるで自分には関係ないとでも言いたそうな、突き放すような口調で。
面倒くさそうに、そっけなく電話を切った川瀬くんの態度に、唯は最低最悪の事態を思い浮かべた。
ずっと危惧していたことだ。
春香は川瀬くんに遊ばれているのではないかと……、不安が的中したと確信したのだろう。
唯は自分が動くしかないと考え、そして今日の出来事に繋がったわけだ。
春香の意向を無視した唯の行動には、あたしは全面的には賛成できなかった。
だけど気持ちは同じだった。
終始無言で話を聞いていた、川瀬くんのふてぶてしい態度に、後になってだんだん腹が立ってくる。
彼は唯の話に、最初はとても驚いた様子だったけど、去り際になると随分落ち着き払っているように見えた。
どことなく他人行儀な、無責任な態度に思えて、あたしは川瀬くんに怒りさえ覚えた。
春香が好きになった人だから、信頼できる人に違いないと思っていた。
春香と一緒にいる川瀬くんを見ると、見かけで人を判断してはいけないと、教えられたような気がしていた。
――なのに……。
あの後、川瀬くんが春香にどういうリアクションをとったのかわからない。
すぐに電話したのか、メールをしたのか、あるいは家まで会いに行ったのか……。
でもカフェを出て行く時の、あの妙に落ち着き払った様子からは、
春香のもとに駆けつけるような殊勝な行動は期待できそうになかった。
春香の言葉では妊娠は無かったようだけど、腑に落ちない点が多かった。
何事も無かったのなら、あの憔悴しきった様子は何だったのだろう……。
「どうしたの、ナツ、食欲ないの?」
箸がとまっていたあたしに、お母さんが心配げに尋ねてきた。
ビール片手にナイター中継に熱中していたお父さんも、心配げな目を向けている。
「あ、ううん。違うの、少し考え事してて……」
あたしは重い考えを振り払うように、小鉢の中のキンピラゴボウを口の中に放り込んだ。
パクパクとお皿を片付けていくあたしを見て、お母さんとお父さんはようやく安心したみたいだった。
今日の食卓に、アオイはいない。
あたしの隣の席は開いたままで、アオイのぶんの夕食は台所でラップに包まれている。
朝から、帰りが遅くなるといって出て行ったらしい。
行き先は誰も知らなかった。
お風呂あがりに唯と長電話をしたあと、寝る前に麦茶を飲もうと思って部屋を出た。
一階のリビングにまで下りかけた時、玄関扉が開く音がした。
階段の途中で立ち止まったあたしは、ちょうど家の中に入ってきたアオイと鉢合わせになった。
ヘルメットを脇に抱えて、Tシャツにジーパン姿のアオイ。
外は相当蒸し暑いのだろう。汗で前髪がこめかみにはり付いている。
アオイはあたしに気付いて、一瞬、罰の悪そうな顔をしたように見えた。
どうしてかわからないけど……、その時のその表情が、なぜか昼間の川瀬くんの姿と重なった。
それでふと、考えてしまった。
もしもアオイだったら、ああいう場所でどういう態度を取るんだろう、と。
――アオイだったら……。
男の子はみんな、あんなふうに無責任なことをするものなんだろうか。
好きだ、とか、大切にする、とか言いながら、結局はみんな同じなんだろうか。
アオイも所詮は川瀬くんと同じ、男の子だし……。
そこまで考えてハッとした。
「……お、おかえり」
ボソっと言い捨てて、あたしは慌てて残りの階段をかけ降りる。
何か口を開きかけていたアオイから逃げるように、足早にリビングに駆け込んだ。
その時あたしは、居たたまれない罪悪感のようなものを感じていた。
春香にまつわるあの衝撃的な話を、一瞬だけれども、アオイに重ねてしまっていた。
そのことに気付いて、予想外のショックを受けていたのだ。
今まで一度だって、アオイに対してそんな考えを抱いたことは無かった。
アオイは確かに男の子だけど、でも他の子とは違うものだと、あたしはどこかで認識していたらしい。
特別な感情に気付いてからも、なぜか”そういう目”で見たことはなかった。
それなのに……。
あたしは少し混乱していた。
冷蔵庫から麦茶を出して、グラスに注ぐと一気に飲み干した。
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