ナ ツ ア オ イ

恋と秘密 7



 それからしばらくして、あたしと唯は春香の家をたずねることにした。
 あんな別れ方をして以来、春香とはまともに連絡をとっていなかったから。 電話で話すより、会ってちゃんと話をしたかった。
 あたしにできることなんて、無いのかもしれないけど……。
 だけどそこで、更に衝撃の真実を知ることになるとは、思いもしなかった――。


 純和風建築の古い家に改築が施されたのは、確か二年ほど前のことだったと思う。
 レースのカーテンが揺れる一階の客間は、見事な洋間になっていた。
 家族四人の写真が手作りの写真立てに入って、アンティークのサイドボードの上に飾られている。 白い壁には、春香や弟さんの小さい頃からのポートレートがいっぱい並んでいた。
「ごめんなさいね、せっかく唯ちゃんと奈津ちゃんが来てくれたのに。あの子、もうすぐ帰ってくると思うから」
 可愛いグラスに入ったジュースとお菓子をお盆にのせて、春香のお母さんは部屋に入ってきた。
 相変わらず口元の雰囲気が春香によく似ている。
 おばさんに会うのも久しぶりだなぁと思いながら、あたしと唯は出されたクッキーにしっかり手を伸ばした。
 春香の家ではいつも、お母さんの手作りお菓子がもてなしてくれる。
 専業主婦のお母さんがいる家に、子供の頃はよく憧れていたものだ。
「春香、今日も夏期講習ですか?」
「ええ、そうなのよ……」
 おばさんの視線が少し泳いだ気がした。
 学校の夏期講習が終わった後、春香はすぐに大山手にある予備校の夏期講習に通い始めていた。
 春香は中学3年の受験の年も、夏休みだけ予備校に通っていた。
 どうでもいいことだけど、その予備校には竹井裕輔も通っているという。
 グラスをあたしたち二人の前に並べたあと、おばさんはそのまま向かい側のソファーに腰掛ける。
 そして言いにくそうに口を開いた。
「あの、唯ちゃんに奈津ちゃん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」
 あたしと唯は同時に返した。
「なんですか?」
 おばさんは更に言いにくそうに、少し間を置いてから話しはじめた。
「あの子ね、最近誰かとお付き合いしてるみたいなんだけどね」
 なんとなくドキっとして、あたしたちは視線を交わしあう。
「それがどうもあまり素行が良くない、というか、なんだか不良みたいな男の子らしくてね」
「……それって、川瀬、のことですか?」
 おばさんは目を大きく見開きながら興奮気味に反応する。
「川瀬くんっていうのね? あの派手な子!」
「……は、はい」
「やっぱり! ねえ、春香は本当にその彼とお付き合いしてるのかしら!?」
 身を乗り出して真剣な顔で聞いてきた。
 あたしたちはお互いに顔を見合わせ、質問には唯のほうが答えた。
「そう、みたいですけど……」
 その返答に、おばさんは体をソファーに戻し、顔をしかめる。
「……そうなのね」
 この表情と口調から、川瀬くんのことを、そして二人の交際を快く思っていないらしいのは明白だった。
 春香の家はなにかと固いお家柄で、長女の春香は大切に可愛がられる一方で、とても厳しく育てられてきたのだ。
 門限だってあたしや唯よりずっと早い。
 話によると、お父さんがとても厳しい人のようで。嫁入り前の女の子に一人暮らしなんてさせられない、という古い考えを持った人らしいから春香も大変だ。
 春香が東京の大学へ行けないのには、そういう事情がある。
 少し前なら、あたしも唯も川瀬くんのフォローに回っていたかもしれない。見かけによらず優しい人なんです、とかなんとか言って。
 でも、今は……。
 それ以上余計なことを言うべきではないと考え、沈黙していたあたしたち。
 そんな中、おばさんは予想通りのことを言い始めた。
「ねえ、こんなことお願いするのも気が引けるんだけど……。二人からも言ってあげてくれないかしら? お付き合いの相手はちゃんと考えるようにって、春香に」
「……はあ」
 あたしたちは生返事をしてやりすごすしかなかった。
 どういう経緯で、春香のお母さんが春香と川瀬くんのことを知ったのかわからないけれど……。
 春香と川瀬くんが付き合い始めて、まだ一ヶ月もたっていない。
 こんなに早々に、おばさんが二人のことを知ってしまったというのは少し意外だった。
 最初の探るような口調から察するに、どうやら春香が自らお母さんに打ち明けたというわけではないらしい。
 反対されるとわかっていて、春香が話せずにいたというのはいかにもありえそうなことだ。
 この狭い田舎では、人の噂はすぐに広まってしまう。春香と川瀬くんのことも、 そんな風におばさんの耳に入ってしまったのだろうか。
 せめてもの救いだったのは、どうやらおばさんは今回の事件のことまでは知らないらしいということだ。
 そのことだけでなんとなくホッとしていた。
「来年は受験も控えてるのに、あまりおかしな人と付き合っておかしなことにでもなったら、あの子の将来にも関わりかねないわ」
 あたしと唯は再度顔を見合わせ、お互いに困惑した表情になる。
 おばさんは苛立ちを滲ませた声で続けた。
「うまいこといって騙されてるのよ、きっと。そういえばこのところなんだか様子もおかしかったし。 どうして、よりにもよってあんな不良みたいな子と……。嫌だわ。主人に知れたらどんなことになるか……」
 頭痛でも感じたかのように、額に手をあてて盛大な溜息をついている。
「…………」
 あたしたちは何も言えず、無言のままだった。
 そこへちょうど、玄関扉の開く音がする。
 春香が帰ってきた。



 この間よりだいぶ元気そうな顔だけど、表情は明るくなかった。
 春香らしい、お砂糖みたいな柔らかい笑みが見えない。
 二階にある春香の部屋。
 女の子らしく小物が並んだその部屋は、今日は綺麗に片付けられていた。
 エアコンの音が静かに響く中、あたしたちはしばらく黙って座っていた。
 帰宅した春香はあたしたちの来訪に、少しだけ微妙な表情を浮かべていた。
 少し前に美容院でカットしたらしい、ゆるくウェーブのかかった柔らかい髪が、肩に軽くかかっている。
 そういえば少し、大人っぽくなったかもしれない……。
 ノースリーブのカットソーからのぞく腕が、はっとするほど白く細かった。
 目の前に座る春香が、なんだか少し遠い存在のように思えてしまって、あたしは切ない気持ちになってしまう。
 最初に口を開いたのは唯だった。
「ごめん、ね」
 唯らしくない、覇気の無い声だ。
「この間のことなんだけど。あたし、春香のこと考えたつもりが、余計に掻き乱すだけになっちゃって……」
 ほんとにごめん、と肩を落として呟いた。
 春香はそんな唯を見つめて、ゆっくりと首を横に振る。
「ううん。あたしこそ、何も言わなくて心配かけて、ごめんね」
「春香……」
 思っていたより春香の口調は落ち着いていたので、あたしと唯は少し安心していた。
 それから少し、夏期講習のこととか、部屋にあるCDのこととか、何気ない雑談が続いた。
 そんな中で話を切り出すタイミングをうかがう。
 今日ここに来た本当の目的は、春香に川瀬くんのことを追及することでもあった。
 春香だけが苦しんでいるのを見ていると、どうしても川瀬くんのことが許せないから。
 だけど雰囲気が和らいでくる中で、あたしは正直迷っていた。
 ――友達だからって、どこまでが踏み込んでいい領域なんだろう?
 今まではそんなこと、意識したこともなかったけど。『なんでも相談し合おうね』なんて、 中一の頃からいっつもベッタリ三人くっついていたけど……。
 今になるとそんな関係は、幼い幻想でしかないようにさえ思えてくる。
 それとも、あえて立ち入りすぎないのが友達としての思いやりというものなんだろうか。
 ――そもそも”友達”って、どういう存在なんだろう?
 今まではただ無邪気に”親友”という言葉を振り撒いて、 誰よりお互いのことをわかってるつもりでいたけれど……。
 いつしか自分の目がとらえているものは、表層の一部分にすぎないのだと気付くようになる。
 大切な何かが、知らないうちに知らないところで変わっていく、この感覚。
 あたしには覚えがあった。
 どうしようもなく開いていく距離と、踏み込めない領域。疎外感にも似た、寒々しい心地。
 どこかで既に知っている感覚だ。自分ではどうにもできず、ただ心の痛みを持て余すだけの……。
 ――でも、今は……。
「春香、あのね……」
 もしかしたら余計なおせっかいで嫌われるかもしれない。
 それでも春香のことが大切で、春香に傷ついてほしくないと思う気持ちは、どうしようもなかったから。 だからあたしは意を決して口を開く。
 いや、開こうとした。
 ところが……。
 話を始める前に、春香があたしの発言を遮った。
「――待って」
「え……」
 あたしも唯も、少し面食らう。
「……あたし、まず二人に話さなくちゃいけないこと、あるの」
 春香は多分、あたしが何を話すつもりか薄々察知していたのだろう。
 だからそんなことを言い出した。
「肝心なこと、まだ言ってないの。あたし」
 辛そうな顔で声を絞り出そうとする。
 あたしたちは春香の言葉を待った。うつむき加減のまま、悲痛な表情で繰り出される春香の言葉を。
「……くんじゃ、ないの」
 震える声が擦れて、はっきりと聞き取れない。
 春香は泣きそうになるのを堪えながら、繰り返した。
「川瀬くんじゃ、ないの。相手は……、川瀬くん、じゃ、ないの」 
 消え入りそうな声で。
 ――『川瀬君じゃない』。
 春香はそう言った。
 彼女の言葉にただ困惑するしかないあたしたちは、しばらく声も出なかった。
 (どういうこと?)
 (それって……)
「川瀬くんは何も悪くない。悪いのは私。裏切ったのは私なの……っ」
「ちょ、ちょっと春香? どういうこと? いったい……」
 完全に混乱したあたしたちは、春香に説明を求めようとするけれど。
 春香は嗚咽を漏らしながら、ただ懇願するように痛々しい声を出す。
「お願い。二人だけは、川瀬君のこと傷つけないで。お願い、彼のこと、悪く言わないで……!」
「…………」
 春香は泣き崩れ、何度も同じ言葉を繰り返すだけだった。
 ――『悪く言わないで』。
 あたしも唯も、そんな春香を前に絶句したまま。
 どうすることもできず、ただ新たなショックに呆然としていた。



 紅い夕焼けが、夏雲を立体的に照らし出す。
 暦の上では夏もあと少しだというのに、今年の夏はまだ終わりそうにない。日没まで随分と厳しい暑さが続いていた。
 住宅街の坂を下りて、県道に出る。
 大型のトラックが何台か通り過ぎて、煙混じりの生暖かい空気が通り過ぎていった。
 とぼとぼと、隣を歩く唯もきっと、考えていることは同じに違いない。
 二人とも、春香の家を出てから一言も話さない。
 あたしたちは、半分放心状態で春香の家を出た。 春香が泣き止んで落ち着くのを待って、それから、それ以上は何も追及することができず、引き上げてきたのだ。
 自転車を押して歩きながら、あたしは夏休み前のお祭りでの、微笑ましい雰囲気の春香と川瀬君のことを思い出していた。
 ほんの少しの間に、彼らになにがあったのか、想像もつかないけれど。
 なんだかすごく悲しい気分だった。
「あーあ、なんかもう、何も信じらんない気分」
 沈黙を破り、投げやりな声で唯がわめく。
「うん……」
 あたしも、その気持ちは痛いほどよくわかった。
 春香の発言は、あたしたちにとっても相当ショックなもので。 それはもしかすると、最初に妊娠疑惑を聞かされた時以上だったりもして。
 まるで自分たちが裏切られたような気分を味わっていた。
 春香は詳しい事情までは話さなかったし、もちろん本当の相手が誰なのかも不明のままだ。
 追及なんてできなかった。
 あの辛そうな春香を見ていると、どれだけ一人で苦しんだんだろう、とか想像してしまって、ただ痛々しかったから。
 ただ……。
 結果だけを知らされた私達。今更何もできることのないという状況は、あまりに悔しかった。
「川瀬くんに、ひどいことしちゃったね、あたしたち」
 ポツリとつぶやいたあたしの言葉に、唯はハっとした表情になる。
 それから苦々しい表情でうつむいた。
 ―――川瀬くん。
 あのとき彼は、最初に瞠目したっきり、あとはずっと無表情で唯の話を聞いていた。
 その態度を、あたしは”ふてぶてしい”なんて誤解しちゃったけど。
 いったい彼は、どんな気持ちだったんだろう……。
 今になって川瀬くんの心中を考えると、心苦しい気分になった。
「新学期に、一緒に謝ろうか」
 あたしの言葉に、唯もうなづいた。
「……そうだね」
 ――『川瀬君のこと、悪く言わないで』。
 春香の最後の言葉が脳裏をよぎる。
 もしかすると春香は、彼に対する罪悪感で苦しんでいるのかもしれなかった。


「――あ……」
 まっすぐ前を見て歩いていた唯が、何かに気付いて声を出す。
 ボケッと空を見上げていたあたしは、視線を戻した。
 前方に見えるのは、二つの人影。
 ちょうど三月橋(さんげつばし)の上だ。
 日の入り前の薄暗さの中に、アオイと千鶴ちゃんの姿が見えた。
 私服姿の二人は橋の欄干にもたれかかって、なにやら立ち話をしている。
 あたしは今朝の、お母さんとアオイの会話を思い出した。
 (そういえば、今日は図書館の自習室に行くって言ってたっけ)
 (千鶴ちゃんと一緒に勉強してたのかな……)
 なんとなく歩調が鈍くなるあたし。
 顔を合わせたくはないけれど……。 三月橋はちょうど家に帰る方向にあって、それが唯一の帰り道だから、引き返すこともできない。
「ナツ……」
 唯は気遣うような眼であたしを見ていた。
 やがて、千鶴ちゃんがこっちに気付いたらしい。 つられるようにアオイもあたし達の方を見て、気のせいかもしれないけど、なんとなく表情を硬くした。
 だんだん近付いて行って、橋の上、二人の横を通り過ぎる。
「……オカエリ」
 すれ違いざまに、アオイの低い声が聞こえた。
「…………」
 あたしは聞こえないふりをして、そのまま素通りする。アオイの顔も千鶴ちゃんの顔も、見ることができなかった。
 唯はあたしの少し後ろから、軽く会釈をして通り過ぎた。 
 無意識のうちに早足になって、そして橋から随分遠ざかってから、あたしは立ち止まる。
 涙が出そうだった。
 (なんかもう、最悪だ、あたし……)
「ナツ……、大丈夫?」
 唯は相当心配そうに声をかけてきた。
 あたしは一つ大きく深呼吸して声を出す。
「やだなぁ、もう。……あんな、なにも、人の帰り道でイチャつくことないじゃんねぇ?」
 無理した苦笑い。
 唯はあたしの目尻に滲んだものに気付いていたのだろう。
「……あんたも、辛いんだね」
 そう言って、少し遠い目をした。





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