ナ ツ ア オ イ

恋と秘密 8



 8月も終盤にさしかかり、夏休みの終わりが近付く。
 あたしは少し焦りながら、貯めこんでいた宿題の山に埋もれていた。
 唯とはあれから何度か電話で話したりしたけど、お互いに春香の話はつい避けてしまっていた。
 夏という季節が延長されてしまったかのように、これまでに無い猛暑は勢いを増してこの町を襲う。
 そして迎える8月23日。
 その日は高梨先輩との映画の約束の日だった。
 春香の家を訪れた日から数日後、高梨先輩から電話があったのだ。
 色々あって精神的にものすごく疲れていたんだけれど、なんでか先輩と話すとホッとしてしまった。
 多分、あの人はあたしの気持ちを一番よく知っているからだと思うけど。
 春香のことやアオイのことを頭から切り離したくて、あたしはお誘いを受けることにした。
 よくよく考えると、それはあたしにとって初めてのデートだった。
 前日になって慌てて着ていく服の心配を始め、クローゼットの奥から一張羅の白いワンピースを 引っ張り出していた。
 日頃から色気の無いカジュアルスタイルばかりのあたしには、女の子らしい服がほとんどない。
 フワっとしたリネン素材のそのワンピースは、一度家族でフレンチレストランに食事に行った時に着たっきり眠っていた 代物だ。少し気張りすぎているような気もしたけれど、結局他に着ていく服が見つからなかった。
 念のため袖を通してサイズに問題ないことを確認すると、あたしはどうにか安堵の溜息をつく。
 そして、ふと壁に掛かったカレンダーに目が行った。
 23日は、ちょうどお母さんたちが温泉旅行に行く日でもあった。
お父さんのお休みの都合で、結局今頃になってしまったようだけど、 あたしとアオイが結婚記念日にプレゼントした二人旅に、明日から一泊二日で出かけることになっている。
 (……ちょうど、いいや)
 今、家でアオイと二人きりになるのは気まずい。
 外出の予定が入るのは、とても好都合だった。



 当日の朝は快晴だった。
 あたしは用意したワンピに着替えて、中途半端な長さの髪を頑張ってアップにする。
 仕度を整えて一階に下りると、お母さんとお父さんはもう出かけた後だった。
 8時20分発の特急に乗ると言っていたから、二人はかなり早起きしたようだ。 にもかかわらず、キッチンには、あたしとアオイのぶんの朝食を作り置きしておいてくれている。
 食パンを頬張りながら、携帯を開く。
 ――『頑張れナツッッ☆☆!!』
 唯からは朝一番にそんなメールが届いていた。
 大げさだなぁ、と苦笑しつつ。
 ――『記念の初デ〜ト、行ってきマス☆』
 ノリのいい返事を打つと、急いで朝食を片付けた。
 食器を洗って、それから歯を磨いて玄関に向かう。
 編み上げのサンダルを履き終えたところで、階段の上からアオイが降りてきた。
 アオイは昨日も遅くまで勉強していたようだ。このところ深夜まで部屋で机にかじりついている。
 起きぬけの寝惚け眼をこすっていた彼は、あたしを見るなり眠気も吹っ飛んだかのように目を丸くした。
「……なに、出かけんの?」
 あたしはタイミングの悪さを呪った。
 もう少し早く出ればよかったと内心舌打ちする。
「……うん」
 無愛想にボソリと答えた。
 そのまま出て行こうとすると、呼び止められた。
「どこ行くんだ?」
 アオイの顔はあからさまに不審げで、口調が尋問みたいだ。
 そしてあたしの格好に、驚き混じりの微妙な表情を浮かべている。
 無理も無い気がした。
 あたしの日頃の服装といえば、ジーパンにチュニックというスタイルがほとんどだ。 スカートなんて制服以外でほとんどはかないのだから。
「アオイには、関係ないところ」
 素っ気無く言い捨てて、素早く外に飛び出す。後ろ手でガチャンととドアを閉めた。
 中からアオイが何か言っていたけど、無視して走り出した。
 ――アオイには関係ないところ。
 そうだ、アオイには関係ない。 



 待ち合わせ場所は、大山手駅の正面出口にある時計塔の前だった。
 十分前に到着したけど、高梨先輩は既にあたしを待っていた。
「すみません、お待たせして」
「いや、俺が早く来過ぎただけだから。広川さんって、時間に正確なんだね」
 久しぶりに見る先輩の顔が、爽やかにあたしに笑いかけてくれる。
 うだるような暑さだというのに、彼の周囲にだけ涼しげな空気が漂っているように見えた。
「あの、この間はすみませんでした。色々と……」
「ああ、俺は気にしてないよ。それより今日、広川さんが誘いに乗ってくれてよかった。嬉しいよ」
「……そ、そんな」
 謝罪の言葉を寛大に受け流してくれた先輩に感謝しつつ、デートだということを改めて思い出し、 あたしは急に恥ずかしくなる。
 つい一人で慌てはじめた。
「あの、あたし、映画の時間とかちゃんと調べてないんですけど、携帯から見たらわかるかなっ」
 籠バッグの中に手をつっこんでゴソゴソと携帯を捜す。
 掴んだ携帯を取り出して、その直後、顔を上げたとき……。
 心臓が止まるかと思った。
「……せ、先輩?」
 高梨先輩はじっとあたしの方を見ていたらしい。
 黒目がちな双眸がまっすぐあたしに向けられていて、あたしはうろたえた。
「ごめん。なんか今日の広川さん、可愛くてつい見惚れてしまった」
 少し照れくさそうに視線を逸らしながら、先輩は曖昧に笑う。
 (え、えええええっ)
「……な、何言ってるんですか!」
 あたしはさっきよりも慌てふためいた。顔は一気に茹で上がっていた。
 ――『見惚れてしまった』。
 たとえお世辞だとしても、女の子としては確実に舞い上がってしまうセリフだ。 高梨先輩のような人が言うと、その威力も数十倍に膨れ上がる。
 あたしだって、先輩の今日の服装は素敵だと思った。
 黒いカットソーのうえに、ミントグリーンのシャツを羽織って、下はグレーぽい色のパンツとスニーカー。
 特別気取った格好ではないけれど、カッコイイ人は何を着ても様になるのだということを、 見事に体現してくれている。
 制服のガクランやカッターシャツもストイックで似合っているけど、こういう私服姿でいると、 先輩は一段と大人っぽい雰囲気だった。
 顔立ちはもちろん、スラリとした細身のスタイルも綺麗なので、道行く人達もチラチラと振り返っている。
 (どうしよう、なんかドキドキしてきた)
 (デートって、こんな緊張するものなのかな)
 あたしが赤い顔で固まっていると、先輩の手があたしの手を掬い取った。
 大きな手に包まれて、やがて自然な形で繋がれる。
「行こう。映画、次のは1時20分だから、先に予約だけして、そのへんぶらついて昼飯でも食べてよう」
「……はい!」
 あたしは繋いだ手に引かれるまま、高梨先輩に従って歩き出した。



 実際、デートといっても、ここら一帯で遊べる場所といえば、駅ビルに隣接したモールや、 周囲に放射状に広がるショッピングタウン、あとは市民公園くらいだ。
 自然とコースは定まってきて、そのどれもが行き慣れた場所で、何か変わったものを楽しめるわけではない。
 だけど一緒に歩く相手が違うというだけで、随分印象が違うものだと知った。
 全てが新鮮に感じて、思った以上に時間がたつのが早い。
 日頃この辺で遊ぶときは、大概は唯や春香と一緒だった。少し前まではアオイとだって……。
 その時ふと気付いた。
 思えば近頃、こんな風に気まずい状態になる前も、アオイと一緒に出かけることはほとんど無くなっていた。
 アオイが受験生になったこともあるけれど、改めて考えてみると、中学の頃から少しずつ、 あたしたちは別行動を取ることが多くなっていたような気がする。
 それはどう考えても、ごく当たり前の兄妹の姿で……、二人の間の時間が遡ることなんてありえなかった。
 (別に、急に遠くなったわけじゃなかったんだ……)
 あたしとアオイは、こんなにも自然に、そして常識的に、離れていく運命を辿りながら過ごしてきたのだと思い知る。
 しだいに、二人で遊びに来た時の思い出が脳裏にちらつきはじめた。
 (……ヤバイ)
 あたしはそこで思考を無理矢理ストップした。
 今日は高梨先輩との時間を楽しむことに集中するべきだ。 そうしようと意識的に先輩のことを考えるようにした。
 それでなくても先輩と歩いて回るモールの中や、一緒に観る映画は、 とても新鮮で、上の空で過ごしてしまうにはあまりにもったいない。
 緊張はしつこくつきまとっていたけれど、先輩のさりげなくて自然なエスコートや話し方は なんだか居心地がよかった。
 会話が弾むと一気にテンションも上がる気がして、あたしは彼の前でたくさん笑って、 そして色んなこと吹っ切るようにはしゃいでいた。


「よかった。広川さん、思ってたより元気そうで」
 駅ビルのエレベーターの中で静かになったとき、先輩は突然そんなことを言った。
「そ、そうですか?」
「うん。最初は空元気かな、って心配したけど」
「いや、あたしって結構、立ち直り早いですから」
 あはは、と笑うあたしに、先輩はふと真剣な眼差しになる。
「無理はしなくていいからね」
 その一言で、あたしの笑いは止まった。
 先輩は表情を和らげ、それから再び前を向く。
「別に無理して明るく振る舞わなくてもいいからさ。抱えてる辛いこととか、ぶちまけてくれたっていいんだよ。 広川さんが少しでもスッキリできればいいと思う。そのために誘ったんだし」
「…………」
 先輩の顔を、真摯なその横顔を、思わずじっと見つめていた。
 あたしが逃げようとしていたものが、この人にはあっさり見透かされていたのだと知る。
 痛いところを突かれたような気まずさと、微妙な安心感の入り混じった複雑な気持ちで、 あたしは少し肩を落とした。
「大丈夫ですよ。もう、……吹っ切れそうですから」
 自分に言い聞かせるように話すあたしを、先輩は黙って見ていた。
 先輩に見抜かれていた、あたしの傷の深さ。
 無理に笑ったところでそう簡単に逃れられるものではないと、本当はわかっていた。
 それでも力ずくで蓋(ふた)をしてしまおうと、必死になっていたのかもしれない。



 映画を観終えたあと、駅から少し離れた通りに出て、雑貨屋さんや服屋さんを見て歩いた。
 先輩はなんというか、女の子の扱いに慣れている感じがした。 遊んでるとか変な意味じゃなくて、何気ない気遣いが上手だということだ。
 あくまで自然に、女の子が喜びそうなコースへ導いてくれる。
 退屈しないように、疲れることもないように、さりげなくあたしのペースに合わせて行動してくれていた。
 緊張感がほぐれてきたこともあり、あたしはまんざらでもなくデートを楽しんでいた。
 余計なことを思い出すまでは……。
 あたしは、ほとんど繋ぎっぱなしの二人の手を見た。
 レストランから出るときも、映画館から出るときも、 先輩は当たり前のように、離れていたあたしの手を捕まえた。
 あまりに自然に繰り返されるものだから、あたしもだんだん慣れてきていていた。
 少し骨ばった先輩の大きな手。
 細身に見えても、あたしよりずっと力強そうな腕。
 よせばいいのに……、つい、誰かのものと比べてしまったのだ。
 (――アオイ……)
 アオイの手の繋ぎ方は、こんなに労わりが感じられるものではなかった。

 ――『ナツ、ほら、さっさと来いよ。おまえまた迷子になるだろ』

 先輩とは比べ物にもならない、もっとずっと乱雑な仕草で、あたしの手を掴む。
 そしてグイグイ自分のペースで引っ張っていく。

 ――『アオイ、早いよ。腕痛いよ。もっとゆっくり歩いてよぉ〜』
 ――『あ、悪い悪い。俺の足って長いから、ナツとはコンパスのサイズが違うんだよな』
 ――『人を短足みたいに言うなっっ』

 ケラケラ笑って揺れる広い背中。
 大きくなっても、悪戯っ子みたいな笑い方は変わらなかった。

 ――『もう、あたしはあっちの服屋に行きたいのにっ』
 ――『いいからいいから!』

 アオイはいつも強引に、人の希望を無視して、自分の行きたいほうに連れて行く。 そして自分の買い物に散々つき合わせるのだ。
 不満顔のあたしになんてお構いなしに、一人やけに楽しそうで。
 でも最後には、ちゃんとあたしの行きたい店に行ってくれて、 そしてあたしの長い長い買い物にも気長に付き合ってくれた。
 だから、なんだかんだ言っても、帰り道のあたしはいつもご機嫌だった。
 大雑把な動きしかしないアオイの手は、いつもあたしを振り回す。
 ――それでも、あたしにとって特別だった。
 雑踏の中で、人の波に揉まれて流されそうになったとき、どこからともなくあの手が伸びてきて、 あたしの手を捕まえてくれた。日に焼けたあの温かい手が、必ずあたしを見つけ出してくれた……。
 手を引かれながら、前を歩くアオイの背中を見ながら、あたしはいつも救われたような気分にった。
 泣きたくなるほどに、胸が満たされて……。

 ――アオイ……。



「――広川さん?」
 先輩の呼びかけで、あたしは我に帰った。
「あ、はいっ。すみません!」
「……どうかした?」
 一気に急降下していたテンションに気付く。
 あたしは自分の失態に興ざめしていた。
 こんなときに、何つまらないこと思い出しちゃってるんだろう……。
「なんでもないです。ちょっとボーっとしちゃって、すみません」
「歩き通しで疲れたんじゃない? 今日は蒸し暑いし。何か冷たいものでも飲もうか」
 少し先にあるカフェを指差して、先輩は言う。
 確かに今日は、午後になってから蒸し暑さが酷くなっていた。 喉も渇いていたので、あたしは先輩の提案に従った。


 カフェのウィンドウの外に目を向けて、やけに浴衣姿の女の子が多いことに気付いた。
「あれ……、今日って、どこかのお祭りでしたっけ?」
「ああ、確か藤川の工業高が花火大会やるって言ってたな」
「って、大倉工業でですか?」
「そうそう。今年から始まったらしいけど」
 藤川市の大倉工業というのは、この大山手市から更に電車で二駅先にある男子校だ。
 野球では結構名の知れた学校で、数年前くらいから甲子園にもチョコチョコ出場しているらしい。
「……そういえば、もうすぐ5時か」
 先輩は腕時計を見て、何かを思いついたようだった。
「よかったら見に行く? 藤川まで行かなくても、この近くで綺麗に見えそうな場所知ってるんだけど」
「へえ、花火かぁ……、いいですね」
 あたしは純粋に花火が楽しみで、気軽にうなづいた。
 大山手市の花火大会には今月はじめに唯と二人で見に来たけど、藤川の花火は初めてなので興味があった。
 空の雲行きが怪しいことには、あたしも先輩も気付いていなかった。





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