ナ ツ ア オ イ

恋と秘密 9



 大山手の駅から東に10分ほど歩くと、高速道の立体交差がそびえ立つ、少し殺伐とした場所に出る。
 そのすぐ側を八重里から続く山江川が流れていて、河川敷に沿って土手が続いていた。
 駅周辺の喧騒からは遠ざかっていて、古い住宅街が近くにある。近隣住民の犬の散歩コースにでもなっていそうな場所だ。
 ただ今日に限っては、川向こうの藤川で花火が上がるということもあって、それなりに賑わっていた。
 地元の子供達や、人ごみを逃れてきたカップルなどが疎に散らばっていて、 散歩ついでに見物にきたお年寄りの姿なども見えた。
 縁日とまではいかないけど、土手の上の道には何軒か夜店のようなものも並んでいる。
 人が多すぎず、ゆっくり花火を鑑賞するにはもってこいの場所だった。
 まだ十分明るいけど、開始前の試験花火が、さきほどから数発あがっているのが見える。
「結構綺麗に見えるでしょ?」
「ほんと! ここってすごい穴場ですね!」
 屋台でジュースを買って、あたしたちは土手の草むらの上に腰を下ろす。
 カキ氷を持った小学生くらいの子供達が川べりではしゃいでいるのが見えた。
「広川さんって、夏が似合うよね。名前だけでなく、なんていうか雰囲気が……、いつも明るくて」
 唐突に、先輩はそんなことを言い出した。
 あたしは驚いて先輩の顔を見る。
「え、あたしが……ですか?」
 このところ先輩の前ではどんよりした表情ばかり見せていたはずなのに、彼はそんな風に言った。
 意外だったけど、なんだか嬉しかった。
 夏はあたしの一番好きな季節だから……。
 しばらく止まっていた花火が、まだ明るさを残した空に打ち上げられる。
 静かに空を見上げる高梨先輩の横顔を、あたしは見た。
「ありがとうございます。先輩」
「……え?」
 随分間隔をあけてから言葉を発したせいか、先輩は虚を突かれたように振り向く。
「あたし、今日先輩と一緒に過ごせてよかった。先輩のおかげで、少し元気になれた気がします」
 朝より気分が軽くなっているような気がしていた。
 簡単に吹っ切ることのできない感情を抱えてはいたけれど、彼と一緒に過ごしてよかったと心から思えた。
 それだけは確かなことだったのだけど……。


 本格的に打ち上げが始まると、さっきより人の数も増えてきた。
 周囲の見物人から歓声があがる。
 ドンッという重厚な音とともに、夕焼空に上がるカラフルな花火たち。
 あたしは結構夢中になって見ていて、隣に座った高梨先輩の視線にも気付いていなかった。
 突然横から手を重ねられて、ようやくあたしは先輩の方を見る。
 すると先輩の端正な顔がすぐそばにあって、驚く間もないまま……。
「…………!」
 手にしていたジュースのコップが、手の中から滑り落ちた。
 その間も、ドンッドンッと、連続して打ち上げられる大きな花火。
 あたしは目を見開いたまま、硬直していた。
 何が起こったのかわからなかった。
 サラリとした髪があたしの額に当たっていて、自分のものではない体温が間近にあった……。
 唇に触れていた感触が遠ざかっても、まだ呆然と固まっていた。
 近くにある先輩の顔は、あたしに向けられたまま。睫毛の長い黒目がちの瞳は、あたしの目をまっすぐに捉えたままだった。
 それから更に数発の花火が上がり、その後、小休止のように辺りが静かになる。
 あたしは正気を取り戻すなり、飛び退るように先輩から身を離していた。
「――ごめん。いきなり」
 先輩は申し訳なさそうに言って少し目をそらす。
「…………」
 言葉を発することができないあたしには、再び上がり始めた花火の音すら聞こえていなかった。
 軽く息を吐いて髪をかきあげながら、先輩は立ち上がる。
 あたしはへたり込んだまま動けず、先輩の一挙一動に、過剰なほど反応した。
 その時のあたしは、どれほど怯えた表情をしていたのだろう。
「その、……ジュース、買いなおしてくる」
 気を使ったのか、あたしを安心させようとしたのか、先輩はそのままあたしから離れ、土手を登って露店のほうに歩いていく。
 あたしの足元には、さっき落とした紙コップの蓋からジュースがこぼれ、土手の下にまで流れ落ちていた。 
 硬直していた自分の体が、震えていることに気付いた。
「――あ、今光った!」
 川べりではしゃいでいた子供の一人が、花火とは反対方向の空を指差して声をあげる。
 東の空の向こうから、花火とは別の低い轟音が響いていた。
 分厚い層を為す入道雲の中で、鋭利な光が瞬くのが見えた。
 地響きのような轟音はしだいに近く大きくなって、夕空は知らないうちに少しずつ、暗い色に覆われていた。



 気付けば走り出していた。
 ゴロゴロと嫌な音が鳴り響く空の下。
 逃げ出すように。
 あの川べりの土手から遠ざかって、山江川に沿った細い田舎道を、なぜだか必死に走っていた。
 唇に違和感にも似た感覚が、ずっと残っていた。
 自分でも信じられない反応だった。一瞬だけ触れた体温に、あたしは本能的に拒絶反応を示していたのだ。
 女の子とじゃれあって触れ合うのとは全然違う、とても生々しい感覚がした。
 その瞬間、脳裏に浮かんだのは、なぜか春香のことで……。
 ――恐かった。
 その場から逃げ出さずにはいられないほど。
 先輩ではなく、自分自身の反応が恐かったのだ。
 (どうして、あたし……)
 高梨先輩は、あんなに優しいのに、とても素敵な人なのに。一緒にいて楽しかったはずなのに……。
 ――どうして……。
 それは多分、どうしようもないものに直面してしまったから。
 あたしが求めてやまないものは、どうしたってごまかせるものではないと、 高梨先輩の手の温もりとはまったく違うものだと、改めて思い知ってしまったから。



 前方にある山の上空に稲光が見えた。
 少しすると、バリバリと空が割れそうな音が、頭上から襲ってくる。
「…………っ!」
 道端で体を折ってしゃがみこむ。
 両手で耳を覆って、頭ごと膝の上に埋めるようにして、あたしは震えた。
 ――ポツリ。ポツリ……。
 川面に疎らに広がる水滴の波紋。その数がしだいに増えていって、あっという間に大雨に変わっていく。
 辺りには何もない、誰もいない、一本道のど真ん中で、あたしは、最悪の状況に陥っていた。
 激しい雷音と、地面を打ちつける雨の音。
 それらは、あたしの中にある、忘れ得ない恐怖の記憶を呼び覚ますには十分だった。
 ――『お母さん! お母さん! 助けて!!』
 轟音だけが響く真っ暗な中で、幼いあたしは無我夢中で泣き叫んでいた。
 下半身に伝わるのは、冷たい泥と砂利、左足を拘束したままピクリとも動かない硬くて重いセメントと、ザラついた木材の感触。
 頭上に吹きすさぶ暴風と、殴りつけるような雨。
 ――『痛いよ。冷たいよぉ……。お母さん!!』
 フラッシュバックする、幼いあたしが体感した恐ろしい出来事。冷たくて身の毛がよだつあの感覚が、リアルに思い出されて。
 あたしは振り切るように、豪雨の中を再び走り出した。


 町に向かって走る。
 方向は間違っていないはずだった。
 大山手から電車では三駅、バスでも二十分ほどの距離だ。舗装されていない足場の悪い道が続くけど、方角さえ間違わなければ、ちゃんと八重里までたどり着くことができる。
 それなのに、随分と遠く感じた。
 激しい雨で辺りが白く煙り、畦道はぬかるんで異常に足を疲労させるせいかもしれない。
 長い長い竹林を抜けると辺りはすっかり真っ暗で、代わりに雨の勢いは若干弱まり、雷の轟音も息を潜めていた。
 水田地帯のど真ん中を突き抜ける細い道路。その脇にある、古い小屋のようなバス停にたどり着く。
 接触の悪い外灯が、チカチカと点滅を繰り返していた。
 ヒールが高めのサンダルで走ったせいか、あたしは途中で足を挫いていた。
 痛めた足を引き摺るようにして、案内板の時刻表を見に行く。一時間に一本しか来ないバスは、十数分前に行ったばかりだ。
 小屋の中のベンチに腰を下ろすと、あたしのせいで周囲が水浸しになった。
 既にもう、バケツで水を被ったようにずぶ濡れの状態だ。だから雨宿りの意味もなかったんだけど、足が痛くてこれ以上は歩けそうになかったのだ。
 50分後に来るはずのバスを待ちながら、そこで膝をかかえて座り込む。
 頭がボオッとしてくるのがわかった。寒気のようなものまで感じてきて、体を縮ませて壁によりかかった。
 (なにやってるんだろう……)
 高梨先輩に黙って逃げ出して、大雨の中、傘も持たずにずぶ濡れになって、足まで挫いて……。
 水を含んだワンピースは重くなって、じっとりと体に吸い付いてくる。裾の部分は跳ね返った泥で汚れている。 髪も、強い雨の衝撃でほどけてしまって、首や肩にワカメのようにくっついていた。
 自分の行動が馬鹿すぎて、いっそ笑えてきた。
 このままバスが来なくて、朝になって、冷たくなって発見されたりして……。
 (そしたら事件になってニュースになるのかな)
 (こんなド田舎で、女子高生が行き倒れ?)
 (……かなりつまんない)
 (そんなんじゃ今時、地方新聞の一面すら飾れないだろうな……)
 あたしは一人で失笑して、それからまたすぐに、冷めた思いに沈んでいった。
 意識がぼんやりしてくると、またあの台風の夜を思い出す。

 ――――『助けて! お母さん!!』

 あの頃はまだ、この世界で頼るべき人間といえば、お母さんしかいなかった。
 慣れない環境と、他人でしかなかった新しい家族。
 いくら心を開きかけていたといっても、そう簡単には馴染めずに、まだ一人で殻に閉じこもっていた。
 その殻を、内側から自分で破ることは、あたしにはできなかった。恐くて、心細くて、ただひたすらお母さんに助けを求めるしかなかった。
 でもあの夜、あたしの震える心を暗闇から救い上げたのは、お母さんではなくて……。

 ――――『ナツ! ナツ!!』

 新しくできた、兄だという少年。
 無遠慮で、馴れ馴れしくて、とても生意気な男の子。
 あたしのお母さんを、勝手に”お母さん”と呼ぶ、図々しい子。
 最初は本気で苦手だった。大嫌いだった。
 なのに……。
 頭上を覆う瓦礫の隙間から、差し伸べられた小さな手。
 泥で汚れた、温かい手……。

 ――――『アオイ!』

 アオイはあたしの世界に新しい光をくれた”太陽”だった。
 誰よりも心強くて、何よりも信じられる存在。あたしは幸せだった。自分がとても幸せだと知ることができた。
 (……そうだ)
 なんて単純な話なんだろう。
 あたしはこんなにもアオイのことが大好きで堪らない。
 いつまでも一緒にいることなんてできないとわかっている。でも、このままこんな状態で離れていってしまうなんて、絶対に嫌なのだ。
 (――馬鹿だ、あたし)
 どうして素直になれないんだろう。
 意地をはっても、憎まれ口をたたいても、あたしの中のアオイの存在を消すことなんてできやしないのに。
 どうしようもない恋だとしても、アオイにとって妹でしかなくても……。
 それでも昔みたいに、また一緒に笑いたいって、こんなに強く思うのに……。



 朦朧とする意識の中で、近付いてくるエンジン音を聞いた。
 最初はバスが来たのだと思ったけど、それにしてはなんだか音が軽い。
 ブルルルと、降りしきる雨の中に響く、くぐもった鈍い音。 
「――ナツ!」 
 聞き慣れた声とともに眩しい白いライトがこちらを照らし、あたしは薄っすらと目をあけた。
 瞼の隙間から、どこかで見たオートバイの車体が見える。
 そして光をさえぎり、こちらに駆け寄ってくる人影があった。
「おいっ! ナツ!」
 がくがくと肩が揺さぶられた。
 ぺちぺちと頬を軽く叩かれて、あたしはパチリと目を開く。
「……アオイ?」
 あたしをのぞきこんでいた、焦ったような真剣な目。
 目の前にある見慣れた顔からは、ホっとしたように溜息が漏れた。
「こんなところで冷たくなりやがって。ビビらせんなよ」
「アオイ、なんで」
「……さっさと帰るぞ」
 アオイの表情は硬かった。
 自分の着ていた透明のレインコートを、あたしの頭の上からスッポリと被せる。
「…………」
 あたしはこのとき、自分のことしか考えておらず、泣きそうな顔でただアオイを見上げていた。
 (アオイ。アオイ。アオイ……)
 迷子の子供がようやく親のもとに戻れた時のように、呆れるほどの安心感に襲われていた。
 だけどアオイの顔はどことなく厳しいまま、無言だった。
 あたしはアオイの手を借りて、オートバイの後部座席に乗せられる。
「しっかり掴まってろよ」
 容赦のない雨の中、あたしはずっとアオイの背中にしがみついていた。
 迎えに来てくれた、見つけに来てくれた、そのことがただ嬉しくて……。
 一人充足感に浸っていたあたしは、自分の身勝手な行いを全く自覚していなかった。





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